アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(6)大江健三郎「ヒロシマ・ノート」

大江健三郎「ヒロシマ・ノート」(1965年)は岩波新書の青版で、この書籍は同岩波新書の青版の「沖縄ノート」(1970年)と連続してつながっている。「日本人と核」について大江が一貫して考え抜く内容である。

福島第一原発での放射能漏(も)れ事故(2011年)が起きてしまって今さらだが、「日本人と核の問題」を考えるにあたり、改めて「ヒロシマ・ノート」を読んでみる必要があるのではないだろうか。私の感慨として原子力発電であれ、戦略的核武装における核の抑止力であれ、「戦後における日本人と核の問題」をもう一度反省的に総括しておく必要がある。私も含め、おそらくは多くの人が今まで無関心で問題放置であったが、ここで踏ん張って「日本人と核の問題」を考えておかなければと痛感する。

「ヒロシマ・ノート」は、原水爆禁止運動への参加を通じ著者が広島を訪れ、現地で様々な人と出会い語るリアルなヒロシマ訪問記となっている。広島にて開催の原水爆禁止世界大会での日共と総評と社会党の人員動員合戦、同じ反核平和運動でも派閥や組織同士の対立がある。そういった反核運動の当時の時代の空気を本書を読むと如実に感じることができる。

私は、大江健三郎は「反核と想像力と常に他者と向き合う文学者」だと思っている。息子の大江光から逃げずに向き合うことを彼は、すぐさま作品に盛り込む。瀕死の状態で生まれ、知的障がいを持った息子の光は、大江にとって自分が試される偉大な他者である。大江には「明らかに自身とは異なる異質な他者」と向き合って未知なものへの戸惑いや反発・葛藤があり、しかし自分なりに奮闘し消化して、最後はそんな自分とは異質な、時には脅威ですらある他者が自身の中に残す大きな爪跡の過程を確認する。そういう思考のたどり方、そういった姿勢が生来のものとして氏の中に身についている。「自分とは明らか異なる異質な他者との向き合い」ということを自らのものにして極めて自然に普通に出来る人なのである。そのため、だいたい彼の小説では主人公は大江健三郎自身なので、例えば「万延元年のフットボール」(1967年)では主人公の「蜜三郎」である大江にとっての異質な他者は「鷹四」であるし、「懐かしい年の手紙」(1987年)での大江自身の「Kちゃん」に対する偉大な他者は「ギー兄さん」である。残念ながら二人とも作中で最後に死ぬが、異質な彼らの存在は主人公の中に大きな爪跡を残し、主人公は彼らのことを反芻(はんすう)し思い返しながら彼らの生と死の意味を考え、自分の中で消化し自身の血肉にして生きていく。そうした思考を大江は小説中の主人公にやらせる。というのも、そういった「異質な他者との向き合い」の思考操作は、作者の大江健三郎自身が小説を書くときだけではなく、日々の生活の中で体得し日常的にやっていることだから。それで彼が作品を書く際にも極めて自然ににじみ出てしまう。

大江は「ヒロシマ・ノート」で広島に行って、様々な他者と出会う。原水協の理事長、原水爆禁止世界大会に参加するために広島に集まった各国の代表、原爆病院の患者たち、彼らの治療にあたる病院院長や看護師、さらには原爆の被爆者ですでに亡くなった人々、被爆して戦後も生き延びたが後に放射能の後遺症で苦しんで亡くなった人々、結婚・就職で被爆者に向けられる社会の差別と自身の絶望に耐えかねて自ら命を絶ってしまった人たちとも「倫理的想像力」を使って、ある意味、出会い向き合っている。そして「反核と想像力と常に他者と向き合う文学者」大江健三郎が書いた「ヒロシマ・ノート」を読む人も、倫理的な想像力を使って実際に広島に行った大江と同様、書籍を介して広島の人々に出会い、彼らの苦悩に向き合う構造になっている。だから「ヒロシマ・ノート」は単なるルポや現地レポートではなくて、「非常に内容が重い。読む人にズシリと感触が伝わる文学作品」である。ゆえに「必読だ」といえる。

さて今回もここで終わりたかったのだが、前回の「沖縄ノート」同様、「ヒロシマ・ノート」に関しても昔から気になることがあるので最後に触れておこう。

保守・右派の人達からなされる批判で、「戦後の日本の知識人はアメリカや日本の核武装の動きに対しては大いに批判的であるが、中国やソ連の核について全くの無批判であり黙認している」という指摘がある。それで大江健三郎「ヒロシマ・ノート」に関しても、いつの間にか「大江はアメリカや日本の核武装には批判的だが、中国が核実験をやって核兵器を持つことに対しては賛成・支持している」といったことになっている。その根拠として本書での以下の部分が昔から定番で繰り返し引用される。

「中国の核実験にあたって、それを、革命後、自力更生の歩みをつづけてきた中国の発展の頂点とみなし、核爆弾を、新しい誇りにみちた中国人のナショナリズムのシムボルとみなす考え方がおこなわれている。僕もまたその観察と理論づけに組する。しかし、同様に、それはヒロシマを生き延びつづけているわれわれ日本人の名において、中国をふくむ、現在と将来の核兵器保有国すべてに否定的シムボルとしての、広島の原爆を提出する態度、すなわち原爆後二十年の新しい日本人のナショナリズムの態度の確立を、緊急に必要とさせるものであろう。したがって広島の正統的な人間は、そのまま僕にとって、日本の新しいナショナリズムの積極的シムボルのイメージをあらわすものなのである」(147ページ)

これは丁寧に読むと分かると思うが、前半の「僕もまた…組する」というのは、「中国の核実験」に対して直接的に「組する」=支持すると言っているのではない。大江健三郎は「私は中国の核実験を支持する」とは、まったく言っていない。「その観察と理論づけに組する」と述べているのであって、つまりは「中国での核実験や核保有が、中国人のナショナリズム高揚のシムボルとして利用され、現実に機能している」とみる観察と理論に「組する」(賛成同意する)と言っているのである。そして、その「現に中国人がナショナリズムの高揚シンボルに核を利用している」という観察と理論に大江自身が賛成同意を示した上で、後半で「現在と将来の核実験保有国すべてに、否定的シムボルとしての、広島の原爆を提示する態度」、それこそが「新しい日本人のナショナリズムの態度」と彼は述べているのである。だから、最終的には「核実験をやって核爆弾を保有して、自国のナショナリズムを高揚させようとする中国人の動き」を「核兵器に否定的な広島から発する新たな日本人のナショナリズム」と対決させて、「核保有によって国を盛り上げようとする中国人のナショナリズム」を明確に否定している。つまり、彼は中国の核実験や核保有に対して明らかに反対なのである。アメリカや日本の核武装に批判的であるのと同様に。

現代の国際政治の常識からして実際の戦闘にて核兵器を使ったら世界は終わりだから、外交戦略上の切り札の最終カードとして各国ともに核保有したがる。例えば北朝鮮は軍事力がなくても核実験に成功して核保有ができたら、圧倒的に軍事力が上回って凌駕(りょうが)されている軍事大国・アメリカに対し、核の使用をちらつかせながら対等に自国に有利なやり取りができる。ゆえに北朝鮮などの国は外交の切り札、「自国のナショナリズム高揚のシンボル」として本当に核を持ちたくてしょうがないはずだ。

「ヒロシマ・ノート」の大江は、そうした「自国のナショナリズムを盛り立てる手段としての核実験や核保有」を前から強く批判しているわけで、核実験を行う中国を明確に否定しているし、核武装をしたがる現在の北朝鮮などに対しても適用できる本質的な「核ナショナリズム批判」をすでにやっている。先の「ヒロシマ・ノート」の引用個所は極めてまともで、正常な「反核」の記述である。

もはや正確な読解力もなければ、本読みのセンスもない、そのくせ、やたらと人を批判したり論争をふっかけたり、裁判を起こしたりしたがる頭空っぽな人たちから大江健三郎は常に一方的にチョッカイを出されて、「大江さんは本当に気の毒だな」と私はいつも思う。