アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(178)今井むつみ「学びとは何か」

岩波新書の赤、今井むつみ「学びとは何か」(2016年)を一読後の感想は、「岩波新書が昨今流行の能力開発の自己啓発本を出したら、このような新書になるのか」の率直な思いだ。

ただし著者は本書を、そうした昨今の世に出回っている凡百(ぼんぴゃく)な能力開発の自己啓発書籍とは一線を画(かく)したいようで、「本書は『最少の努力で効率的にテストの成績を大きくあげるにはどうしたらよいか』という類の問いに答える本ではない。…『こうすれば頭がよくなる』『こうすれば簡単に効率よく覚えられる』ということをうたった本を見かけるが、この本はそういう目的で書いたものではない」の注意記述が、冒頭「はじめに」よりある。と同時に「最近、至るところで『生きる力』『主体的な学び(アクティヴ・ラーニング)』ということばが飛び交っている。しかし、これらが具体的にどのようなことを意味し、どのような教育をしたらそれらの力が身につくのかということになると、コンセンサスにはほど遠い」とも述べて、これまた最近流行の聞こえは良いが、よくよく考えてみるとどのような力なのか皆目わからない「生きる力」や「主体的な学び」に対する不信の強い思いもある。

そうした両端への批判を持ちながら、著者の専攻である認知心理学の立場から「学びとは何か」をより本質的かつ具体的に規定し読者に提示しようとするのが本新書の趣旨である。本書のこの趣旨は理にかなっており、非常に有益である。「学びとは何か」を本質的かつ具体的に提示できれば、それを受け読者の各自が独力で、もしくは本書の内容を理解した大人のサポートを得て子どもが本当の意味で「学んで」いけるからだ。

本書にての「学びとは何か」、すなわち「学び」についての要点はおよそ以下である。

(1)行間を補うために使う常識的な知識、これを心理学では「スキーマ」と呼んでいる。スキーマは覚えるべき内容に意味づけをする。スキーマはまた、外界にある膨大な情報から必要な情報にのみ注意を向けさせ、人は注意を向けて選択した情報だけを記憶する。スキーマは解釈する知識のフィルターのようなもので、スキーマは知識を取り込み記憶を構築するために重要な働きをする(「第1章・記憶と知識」)

(2)このように人は自らスキーマをつくり、そのスキーマのフィルターを通して、ものごとを観察し解釈し考え記憶する。ただしスキーマは経験的につくられた、いわば「思い込み」であって、知識とはスキーマが入りまじって作り出される主観的なものでもあるため常に正しいとは限らない。熟達した学び手になるためには、人はしばしば誤ったスキーマ、つまりは「思い込み」という認知を克服し乗り越えていかなければならない。思い込みの誤ったスキーマを作らないことは原理的に避けられないのだから、熟達していく上で大切なことは、その都度、誤った認知を修正し、それとともにスキーマを修正していくことだ。その継続した自己修正のくり返しこそが「学び」である(「第2章・知識のシステムを創る」「第3章・乗り越えなければならない壁」)

(3)「学び」と「熟達」は表裏一体である。熟達するということは、その分野の知識のシステムを創りあげていくことに他ならず、この過程で学び手は学習をより効率化するためのスキーマをつくり、学び方をも自ら学ぶ。どのような分野でも熟達するということは、情報の選び方がうまくなり、新しい情報をすでに持っている知識の中に取り込み、知識を(単なる肥大ではなく)進化させられるようになることである(「第4章・学びを極める」)

(4)以上のような学びと熟達の認知のしくみを踏まえ、よりよく学ぶためにはどうしたらよいかといえば、「知識観が学びを決める」原理を知ることである。この知識観、すなわち知識についての認知(知識についてのスキーマ)のことを「エピステモロジー」という。最も役に立つ「生きた知識」とは、知識の断片的要素の無秩序な張り重ねの集積ではなくて、あまたの知識要素が互いに意味をもって有機的に関係づけられ起動するシステムである。そうして、その知識のシステムは効率よい学びに素早く対応し機能するが、同時にシステムは「思い込み」に導かれて確立した一時的な思考の仕方でしかないのだから、新たにものごとを学習するたびに新しい要素がシステムに外部から取り込まれ関係づけられて、システムそのものが修正され、システム全体がアップデート(更新)される。つまりは、学習には常にダイナミックな知識のシステム変化を伴う。この流動的な再構築をくり返し、成長させていくしかない「生きた知識のシステム」構築のために働くのは経験に根ざした「直観」と、批判的思考による「熟慮」の二つである(「第6章・『生きた知識』を生む知識観」)

(5)こうした有機的組成にて、更新を繰り返し成長する「生きた知識のシステム」と反対概念であるのが、知識の断片的要素の無秩序な張り重ねの集積肥大、ゆえに役に立たない知識習得モデルである。著者は、それを「知識のドネルケバブ・モデル」(ぺたぺた貼り付けモデル)と否定的に呼ぶ(「第6章・『生きた知識』を生む知識観」)

以上が岩波新書「学びとは何か」にての「学び」に関する主な概要だ。本新書タイトルの「学びとは何か」における「学び」とは(1) から(3)の「スキーマ」という認知のフィルターの仕組みを踏まえた上で、さらに(4)の望ましい「エピステモロジー」(知識についてのスキーマ)である所の「生きた知識のシステム」構築を目指し、同時に(5) のような「生きた知識のシステム」とは対極に位置する「知識のドネルケバブ・モデル」の弊害に陥らないことである。それこそが著者の主張する正統な「学び」といえる。

本新書を読んで(1)から(5)のような簡略要旨を軽く押さえるだけでも、私達は容易にすぐさま気付くのである、先に引用した「本書は『こうすれば頭がよくなる』『こうすれば簡単に効率よく覚えられる』ということを目的で書いたものではない」の「はじめに」における著者の冒頭注意書きの内容が、実はそのまま(5)の「知識のドネルケバブ・モデル」に対する痛烈な批判として本論にて展開されていることを。「こうすれば簡単に効率よく覚えられて、頭がよくなる」云々は、ただ単に「断片知識をたくさん記憶することで自然と頭がよくなる」と信じている思い込みでしかない。「断片的知識をたくさん記憶している」というのは、単なる物知り博士や蘊蓄(うんちく)語り的醜態に堕する場合が多く、「生きた知識」を介して自ら主体的に判断行動したり、工夫創造できるとは限らない。もはや言うまでもないが、「効率よく覚えられて何でも記憶できる」というのは、ただ単に雑多な知識を有しているというだけで、使える知識や効果的な判断や独立の世界観を有していること(本来的な意味での「頭がよい」や「賢明である」こと)と必ずしも同義ではない。そうした知識の断片的要素の無秩序な張り重ねの集積肥大は、実際には役に立たない「知識のドネルケバブ・モデル」に他ならず、それは認知を成立させるスキーマや、さらにそれらスキーマからなる知識のシステムにて、知識が有機的に系統立て関連づけ秩序づけられる本質的「学び」の仕組みとは対極にあり、本来的な「学び」の賢さとは無縁なものだ。

同様に、著者が「はじめに」にて問題にしている「最近は『生きる力』『主体的な学び(アクティヴ・ラーニング)』ということばが飛び交っているが、それらが具体的にどのようなことを意味し、どのような教育をしたらそれらの力が身につくのかということになると、コンセンサスにはほど遠い」に関しても、次のように導くことができる。

もともと認知のスキーマや知識のシステムは、「思い込み」に導かれて確立した一時的な思考の仕方に過ぎないのだから、新たにものごとを学習するたびに外部からの新しい要素がシステムに取り込まれ関係づけられてシステムそのものが修正され、システム全体がアップデート(更新)されるような学習者本人による自己修正のダイナミックな知識のシステム変化こそが、そのまま「主体的な学び(アクティヴ・ラーニング)」に他ならない。また、それまで最良と思われていた方法を改善して学び手が更なる効率化のためにスキーマを絶えず更新させていくことが「学び」は「熟達」と表裏一体であることの意味なのであって、この「学び」を通じての「熟達」は、そのまま状況への人間主体の適応や効率的対応を強力に促す「生きる力」に繋(つな)がっていく。

こうした流動的な再構築を絶えず繰り返し、自身の認知や知識のスキーマを積極的かつ主体的に更新し成長させ続けていく「生きた知識のシステム」構築こそが近年、教育現場にて待望されている「主体的な学び」や「生きる力」の内実になる。そのような本質的な「学び」のあり方に、今日の「主体的な学び」議論にて管理的で他律的な「教授パラダイム」から、時に既存の学校や社会システムに対し批判的にもなりうる、画一的な詰め込み型の知識習得を排した主体的で自律的な「学習パラダイム」への理路が開かれていることは、もはや言うまでもない。

岩波新書「学びとは何か」にての著者の論述立場は最初から実に一貫している。著者は誠に周到である。もちろん、ここで取り上げた「スキーマ」や「生きた知識のシステム」や「知識のドネルケバブ・モデル」のトピック以外に、まだ他にも本新書には読むべきものはある(例えば「熟達による脳の変化」の知見など)。だが、以上のような本書にて展開される「学びとは何か」における「学び」の本質的かつ具体的な内容を押さえることが出来れば、岩波新書の赤、今井むつみ「学びとは何か」は一応は読み切れたといえるのではないか。