アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(455)塩沢美代子「結婚退職後の私たち」

岩波新書の青、塩沢美代子「結婚退職後の私たち・製糸労働者のその後」(1971年)の概要は以下だ。

「15、6歳で製糸工場に就職した女性たちの結婚退職後を追う。二百余名の主婦たちの生活の実態と、厳しい労働条件のもとで過した経験が、彼女たちにどのように根づいているかを明らかにした。1971年9月刊」(表紙カバー裏解説)

本書は大変に読後感が良い。本新書を手に取り実際に読み始める前から、本書を実際に読んでいる最中も、本書を読み終わった読了後に至るまで、いつの時でも本の内容が予測でき、また読んで私の予測通りの内容であり、自身の経験からも深く納得できる。この好印象は、本書が私が日常的に考えている問題意識の枠内に常にあって、自分の知識の総量や経験域を超えることがない、いわば「自身の想定範囲内にある内容書籍」に岩波新書「結婚退職後の私たち」が該当するからに他ならない。

私は、高校生の時と後に大学進学後の10代後半から20代前半にかけて修行の自己鍛錬のつもりで相当に力を入れ集中的に多くの本を読んだが、当時はそれまで大した読書習慣もなく、書籍から学んだ知識の蓄積や実生活での経験値や社会への関心の問題意識も全くなかったので、若い時分の読書は毎回たいそうキツくて辛かった。一冊の書籍を読み終わるまでに相当な時間がかかったし、全部を読み終わっても意味が分からず同じ本を何度も繰り返し読んだり、本文をノートに書き抜き要約メモを取りながら読んでみたり、全般に苦しくて辛い読書が多かった。もっとも若い頃の読書は、それまでの自分の知識や経験の明らかに外部にあり、未知の新世界へ自分を連れて行ってくれる「強度ある学びの苦しみの儀式」のようなもので、私にはかなり意義あるものだったけれど。

それが年を経るにつれ、自身の中で知識の総量や経験の蓄積や社会への問題意識の高まりが多少なりともあって、昨今では前よりかは幾分、楽に余裕を持って良読後感が得られる楽しい読書を少しだけ積み重ねられるようになってきたのだから、自分の中でちょっと報われた思いもある。

さて岩波新書「結婚退職後の私たち」は、前述通り、大変に読後感が良い。本新書を手に取り実際に読み始める前から、本書を実際に読んでいる最中も、本書を読み終わった読了後に至るまで、いつの時でも本の内容が予測でき、また読んで私の予測通りの内容であり、自身の経験からも深く納得できるのであった。この好印象の内実を本新書の内容に引き付け具体的に挙げてみると、

(1)本書は1971年出版で、当時の1970年代には多くの女性工員が現場を退き、すでに結婚退職しているなか、後日かつての敗戦後の1945年から労働運動が高まりを見せた1960年代までの製糸工業に従事の当時の若年女性工員らを追跡し、彼女らにアンケートを行うことで戦後の繊維産業の女性労働問題を振り返り、総括して記録保存する旨の書籍になっている。

(2)本書出版の1970年代時には、本書で回想されるほどの日本の製糸工業における若年女性工員の労働環境の深刻な困難は、確かに見られなくなった。しかし、かつて工員であった結婚退職後の彼女らは結婚後にも継続して、繊維産業とは別な、夫が労働従事する業界や企業組織内での労働運動を新たに家族として支えたり、現に今もパート・臨時で働いており自身が労働問題に直面していたり、また女性の社会参加や婦人の権利確立のための市民運動、消費者運動に積極参加しているケースが多く見られる。

(3)本書でのアンケートを見ると、かつて製糸工業に若年従事していた女性工員の彼女らは、相当な割合で後に結婚し、多くが既婚者で現在家庭を持っている。その際の結婚の経緯は、親・親族や知人による紹介の「見合い結婚」が半数を占め圧倒的である。そしてかなりの確率で結婚生活に破綻なく(離婚することなく)、「結婚退職後の私たち」の多くの女性がその後も配偶者や子供と円満な家庭生活を送っていることが、本書のアンケートから分かる。

(1)について、確かに岩波新書「結婚退職後の私たち」は、多くの女性工員が現場を退き、すでに結婚退職している中で、かつての敗戦後の1945年から労働運動が高まりを見せた1960年代までの製糸工業に従事の当時の若年女性工員らを追跡し、彼女らにアンケートを行うことで戦後の繊維産業での長時間労働や低賃金待遇や劣悪な職場環境の女性労働問題を振り返り、総括して記録保存する旨の書籍になっている。本書出版時の1970年代時点での現在進行形の深刻な職場環境問題を取り上げる告発ルポではなくて、以前に労働従事していた「製糸労働者のその後」を各人に対するアンケートにより追跡し集計し明らかにして、かつての女性の労働問題や現在の女性の権利、社会参加に関する問題を考えようとする本新書の視角が新しく変則的で面白いと思う。ここが岩波新書「結婚退職後の私たち」の一つの読み所であり、本書のウリとも言える。

本新書では、1945年の日本の敗戦を受けて戦争で崩壊した日本経済の立て直しから高度成長時代に至るまでの間の時代─昭和20年代から30年代にかけて、当時15、16歳で中学卒業後、早くも親元を離れ会社の寮で集団生活を送りながら製糸工場に労働従事した若年の女性工員、そして本書執筆時の1970年代には30代から40代の年齢に達している以前の女性製糸労働者を全国各地から探し出し、彼女らにアンケートを送付して集計、その上で分析。結婚して姓が変わっていたが、それでも名簿上で現住所が分かった300名の昔の製糸労働者の仲間に、その後の結婚の経緯から今の生活状況、その中での政治的社会的な動きとの自身の関わりを互いに報告しあう趣旨で詳細なアンケートを実施した結果、200名の仲間がアンケートに答えたという。このアンケート結果を元に本書は執筆されている。

ただ逆に言えば、もう本書を執筆・出版の1970年代の時点で製糸工業に従事の若年女性工員の労働問題のトピックは、大々的にクローズアップされるべき深刻問題ではなく、繊維産業従事の女性の職場環境の問題は大幅に改善され、そこまでの大した社会ルポ告発の大問題にはならなくなってしまった。もしくは、かつて製糸工場現場での若年労働者が抱えた過酷な労働問題は、1970年代以降の今日、繊維工場の日本国内からの海外移転にて、労働力を安く上げられる第三国(中国や東南アジアやインドや南米など)に中核の生産拠点が移り、製糸労働者の職場環境問題が海外の若年女性にとっての過酷問題になって、この繊維産業従事の労働者問題は日本国内の人々には巧妙に隠蔽(いんぺい)される形となった。そのため、「結婚退職後の私たち・製糸労働者のその後」というような、戦後日本の繊維産業の女性労働問題の昔を今日、あえて振り返る旨の、やや無理筋な変則形式の書籍になったとも考えられる。こういった醒(さ)めた意識の冷静な読みも岩波新書「結婚退職後の私たち」には必要であろう。

(2)に関しては、ここが何よりの読み所であり本論の核心だと思うが、「人は若い頃に実際に自身が経験した過酷な労働現場の問題に直面し、その改善を処して行動した結果、離職・転職や結婚退職後も、引き続き自分の事に引き付けて、その種の労働問題を懸命に考え、政治的社会的に積極行動する」ということだ。このことは、かつて製糸労働者であった「結婚退職後の私たち」の彼女らは結婚後にも継続して、繊維産業とは別な、夫が労働従事する業界や企業組織内での労働運動を新たに家族として支えたり、現に今もパート・臨時で働いており自身が労働問題に直面していたり、また女性の社会参加や婦人の権利確立のための市民運動、消費者運動に積極参加しているケースが多く見られることから了解できる。

事実、岩波新書「結婚退職後の私たち」の著者である塩沢美代子(1924─2018年)の経歴を参照すると以下のようにある。

「東京生まれ。1944年、日本女子大学校家政学部第3類(社会事業専攻)卒業。戦時中の勤労動員の経験から年少労働者の指導を志し、鐘淵紡績(カネボウ)に入社、東京工場の社内学校に勤務。1949年、全国蚕糸労働組合連合会(全蚕糸労連)書記に転職。この間、日本繊維産業労働組合連合会(繊維労連)への改称(1960年)、主要組合の繊維労連から全繊同盟への分裂を経験し、1966年から1970年、大洋漁業労働組合書記を経て、後に評論活動に従事。1976年頃からアジアに視点を広げ、1981年アジア女性委員会(CAW)の設立に参加。1983年、日本での活動拠点としてアジア女子労働者交流センター(AWWC)を設立し所長に就任。AWWC所長として東南アジアの女子労働者の労働条件の解明、アジアの女子労働者のネットワークづくりに取り組む」

ここで注目すべきは、「戦時中の勤労動員の経験から年少労働者の指導を志し、鐘淵紡績(カネボウ)に入社」と「1966年から1970年、大洋漁業労働組合書記を経て」と「1976年頃からアジアに視点を広げ、1983年に日本での活動拠点としてアジア女子労働者交流センター(AWWC)を設立し、AWWC所長として東南アジアの女子労働者の労働条件の解明、アジアの女子労働者のネットワークづくりに取り組む」の各点であろう。

著者の塩沢美代子その人が「鐘淵紡績(カネボウ)」という企業に在籍した経験があり、その自身の労働者の立場から企業内での労働組合の執行部書記を務め女性工員の地位待遇向上の若年女性のための運動に当時、取り組んだのだった。そして彼女もカネボウ退職の後、今度は繊維産業とは全くの異業種である「大洋漁業労働組合」の労働運動に携わっていることも、「人は若い頃に実際に自身が経験した過酷な労働現場の問題に直面し、その改善を処して行動した結果、離職・転職や結婚退職後も、引き続き自分の事に引き付けて、その種の労働問題を懸命に考え、政治的社会的に積極行動する」の典型事例として納得の思いが私はする。

加えて、本書「結婚退職後の私たち」を執筆後に今度はアジアに視点を広げ、日本国外の若年女性や未就学児童の過酷な労働問題を取り上げる書籍を塩沢が1980年代に連続して出すようになるのは、前述したように1970年以降、繊維工場の日本国内からの移転にて、労働力をより安く調達できる海外の中国や東南アジアやインドに中核の生産拠点が移り、以前の製糸労働者の職場環境問題が現在の海外の若年女性にとっての過酷問題となって、かつてあった繊維産業従事者における長時間・低賃金・劣悪環境の労働問題は日本国内の人々には巧妙に隠蔽(いんぺい)される形となったのを受けてのことであった。そのため「結婚退職後の私たち」以降、「メイドイン東南アジア・現代の『女工哀史』」 (1983年)や「アジアの民衆vs日本の企業」 (1986年) らの著作を塩沢は連続して出すのである。こうした繊維産業の生産拠点の日本国内から海外への移転、それに伴う若年女性労働者の抱える問題の国内の日本人から海外の現地の人々への移譲という問題変移の現象も、私達は本書「結婚退職後の私たち」以降の塩沢美代子の著作経歴から読み取り、そのことを繰り込んで押さておくべきである。

(3)については、本書アンケートによれば、「製糸労働者のその後」を追跡する中で、「結婚退職後の私たち」の「結婚相手とどこでめぐりあったか」は、50パーセントの半数近くが「見合い結婚」であり、30パーセント強が「組合・サークルや地域の活動を通じて知り合った」で、その他「偶然に行きずりのチャンスで知り合った」「無回答」などが残りの10パーセントほどとなっている。また「結婚に踏みきったおもな理由」については、「本人への魅力(彼とものの見方や考え方が一致。人柄や持味にひかれた。おなじ思想・信条をもっていた)」が60パーセント、次に「現実的諸条件の選択(とくに強くひかれたわけではないが、結婚相手としてふさわしい人物や条件だと思った)」が20パーセント強、「妥協的要素(ためらったり避けたい気持だったが、周囲の強いすすめや相手の熱意でふみきった。結婚に焦っていた)」が残りの10パーセントほどである。

「製糸労働者」の女性工員の場合、集団就業で女性が多い(男性が少ない)職場のため、「結婚相手とどこでめぐりあったか」は、半数近い50パーセントが「見合い結婚」であるのは自然である。だが「見合い結婚」が半数を占める中で、「結婚に踏みきったおもな理由」で「妥協的要素」の当人にとって気の進まない不本意な結婚理由がわずか10パーセント程度であり、逆に「本人への魅力」ら積極的理由が60パーセントの半数以上であるのは注目に値する。総じて確率的に「結婚退職後の私たち」は当人の希望に合った幸福な結婚に至っているといえる。

私自身の実感や周囲の人々の結婚生活を見ていて、特に相思相愛の恋愛結婚や理想の異性との運命的な出会いでなく、「見合い結婚」の最初は知らない者同士であっても相手に無理な要求や理想を過剰に求めなければ、結婚生活は破綻せず、それなりに順調な幸せな人生を互いに築いていける、の確信の思いがする。逆に「熱烈な大恋愛の末の結婚」などの方が、互いのエゴや相手に対する高すぎる理想要求、結婚生活や新たな家庭への憧れが強すぎて当然のごとく後に幻滅し、結婚生活はやがては破綻して離婚に至る場合が多いと思われる。この点で、恋愛結婚も必ずしも悪くはないが、「見合い結婚」は案外に良い機縁のシステムで相当な確率で互いに幸せになれるのでは、と本新書を読んで私は率直に思った。

最後に岩波新書の青、塩沢美代子「結婚退職後の私たち」では、戦後の製糸労働者の彼女らの境遇を「現代の女工哀史」と暗に重ねる記述が多くある。思えば、明治期以来の近代日本において、多大な資本投下や膨大な工場設備や高度な専門技術を要する鉄鋼・機械の重工業とは異なり、製糸や紡績の繊維産業は、それら資本投下や工場設備や専門技術がそこまで必要ない代わりに半熟労働者による長時間で低賃金の上、細かな手先の作業を要する人海戦術の軽工業であって、製糸や紡績の繊維産業は輸出により外貨を獲得できる近代日本の主要産業であった。そうして、その軽工業の繊維産業の労働は「女工」と呼ばれる若年女子の過酷な労働に支えられていた。すなわち「女工」とは、

「近代日本の繊維産業従事の女性労働者のこと。多くは零細農家の若い女性で、当初は工女と呼ばれた。口減らし、家計補助のため前借金で出稼ぎした。逃亡を防ぐため会社の寄宿舎に拘禁され、低賃金・長時間労働と劣悪な作業環境に苦しんだ」

と一般にされる。近代日本の繊維産業に従事した女性労働者(「女工」!)の過酷な労働状況を記したものに、細井和喜蔵「女工哀史」(1925年)や山本茂実「ああ野麦峠・ある製糸工女哀史」(1968年)などがあった。本書「結婚退職後の私たち」でのかつて製糸労働者であった彼女らも、戦後日本にて、北は北海道から南は九州・沖縄まで全国各地の主に農村の子女であり、中学卒業後の15、16歳で親元を離れ会社の寮で集団生活を送りながら労働する比較的長時間で低賃金、その上で精密作業を連続して要求される過酷な労働環境下にある現代版「女工」であったのだ。

岩波新書の書評(454)立石博高「スペイン史10講」

一国の歴史を古代から近現代まで新書の一冊で全10講の内に一気に書き抜こうとする岩波新書の「××史10講」シリーズである。もともと本企画は、坂井榮八郎「ドイツ史10講」(2003年)と柴田三千雄「フランス史10講」(2006年)と近藤和彦「イギリス史10講」(2013年)の三新書から始まった。後に各国史が多く続く。

立石博高「スペイン史10講」(2021年)も「××史10講」シリーズのラインナップである。本書はスペインに出張や駐在の折に、またスペイン旅行の前後や旅の最中にスペインの歴史文化の概要をコンパクトな新書一冊で手早く知れて誠に有用である。

スペイン史については、スペインの歴史そのものを限定して知ること以前に、世界史全体に与えたスペイン由来の歴史的画期の重要な分岐がいくつかあったと私には思える。その内の一つ、最たるものといえば「近世のスペイン継承戦争を経てのヨーロッパ史におけるイギリスとフランスの明暗の対照」であろう。この「近世のスペイン継承戦争を経てのヨーロッパ史におけるイギリスとフランスの明暗の対照」事例を通し、昔から世界史を学習していて私が一貫して強く思うのは、特にヨーロッパ史はイギリスとフランスの二つの大国の対照を基本の重要線として押さえながら、知識を増やし理解を深めていくことが基本であり重要であるということだ。

西洋史の近世、絶対主義時代に起きたスペイン継承戦争(1701─13年)は、旧来のスペインのハプスブルグ家の断絶に乗じてブルボン家のフランス王、ルイ14世が仕掛けた対外戦争である。ルイ14世は孫のフィリップのスペイン王位継承を主張し、フィリップのスペイン王即位を目して、ブルボン家のフランスと、スペイン王の継承権をフランスのブルボン家に渡したくないハプスブルグ家のオーストリア、それに反ブルボン朝のイギリスとオランダらを加えた「ブルボン家'vsハプスブルグ家」の対立構図の絶対主義体制下での対外戦争であった。絶対主義下の近世ヨーロッパにおいて、国家は各家が代々所有し継承統治する家産であり、ゆえに当時の諸外国間の戦争も各国王朝が自家の国家統治たる家産の相続継承を取り合う、文字通りの「継承」戦争であったのだ。

スペイン継承戦争の結果、フランスが勝利しスペイン統治を旧来のハプスブルグ家から新たにブルボン家に移行させ、フランス王はスペイン統治を望み通り「継承」できた。この戦争講和であるユトレヒト条約(1713年)にて、フランス劣勢の内に終結したが名目的に「勝利」を収めたフランスは、スペインとフランスの統合は禁じられたものの、スペイン王位継承権を得てスペイン国内統治の家産はルイ14世の望み通り、従来のスペインのハプスブルグ家から新たにフランスのブルボン家に移ったのであった。その代わり対外の領土問題にてフランスは、特にスペイン継承戦争での敵対国のイギリスに北アメリカのハドソン湾地方、アカディア、ニューファンドランドらの譲渡を迫られ英国に割譲し、さらにイギリスはスペインからも「アシエント」(スペイン領アメリカへ黒人奴隷を供給できる特権)を得た。

スペイン継承戦争の講和たるユトレヒト条約によるユトレヒト体制下にて、イギリスは大西洋と北アメリカ地域への覇権伸長を確実にし、またアシエントの特権を獲得したイギリスは大西洋地域の奴隷貿易をほぼ独占して、奴隷貿易を中心に大西洋にて三角貿易(イギリス本国─アフリカ─アメリカ)を実施し莫大な利益を得た。この莫大な利益が後のイギリスの産業革命に向けての最大の資本蓄積の国富となり、後に世界の各地域に海外雄飛する覇権国家たる大英帝国の繁栄をもたらすのである。こうしたイギリスとは対照的にフランスはスペイン継承戦争後のユトレヒト体制を経て、スペイン国内統治の王位継承権をブルボン家が得たのみで、フランスは大西洋・北米地域の海外覇権の足場を大きく失った。

フランスは家産政治の絶対主義体制の王権が英国ら諸外国と比べ極めて強力であったがゆえに、ルイ14世の意向によりブルボン家のための家産相続継承にてスペイン統治の特権を得たが、その代わりに帝国覇権のための海外諸地域を手放し、自らの対外進出の機会(チャンス)を逸してしまった。いうなれば、スペイン継承戦争を通して、フランスはヨーロッパ内のスペイン王朝の家産相続に固執し、そのために大西洋・北米地域の海外世界への進出の足場を決定的に失ってしまったわけである。他方、イギリスはフランスとは見事に対照して、このスペイン継承戦争を契機に非ヨーロッパ地域への海外進出の足場を地道に固め、覇権国家として世界各地に勢力を伸長して後の大英帝国の繁栄に着実に繋(つな)げていくのであった。

こうしたスペイン継承戦争を実質的な起点にしての、英仏の海外進出志向の有無の対照相違の明暗は決定的である。というのも、まもなく世界史は近代に移行するにつれて、従来の各家の家産相続の名目的「継承戦争」から、各地域に領土拡大をはかり軍事や貿易や資源争奪の面で世界覇権を競う、より実利的な「国際覇権の戦争」に時代の潮目は変わっていくからだ。スペイン継承戦争後のユトレヒト体制において、時代の先を読む先見の明はフランスよりも明らかにイギリスの方にあった。

スペイン継承戦争後の講和に基づくユトレヒト体制を経ての、英仏の海外進出志向の有無の対照相違は実のところ、同時代の市民革命にて、イギリスの「自由」を基調とする王権存続の穏健な名誉革命(1688─89年)と、フランスの「平等」を激しく希求する王権廃止の過激なフランス革命(1789─95年)の両国相違にも遠くから強く影響を与えていた。絶対主義時代のスペイン継承戦争前後、市民革命の時代にはすでに多くの海外植民地を持っていたイギリスは、その潤沢な国富のために海外覇権地域から英国本国に流入する莫大な富に支えられ、ブルジョアジー(新興市民)はある程度の経済的成長を果たし開明的で、議会政治の健全な発展が期待できた。そのため人間の「自由」を第一義とする漸次改良的で「国王は君臨すれども統治せず」の絶対主義時代からの英国王権を形式的に温存した形での立憲君主制の穏健な名誉革命に着地できた。

他方、前の時代から絶対主義体制の王権が強く、海外覇権を積極伸長していなかった革命前夜のフランスでは、旧来の国王・貴族の私的浪費もあって国家財政は逼迫(ひっぱく)し、国内人民は過酷な封建貢租(地代)の収奪に疲弊して絶対主義体制下の封建支配が過酷であった。フランス国内にて新興のブルジョアジーの経済的成長や議会政治の健全な発展は何ら展望できず(英国と異なり、伝統的に王権が強力なフランスでは身分制議会は継続して開催されることはなかった)、人民が人間の「平等」を激しく希求する王権打破で反体制の過激で暴力的なフランス革命、つまりは国王処刑の王権廃止、ついにはラディカル(急進的)な共和制に至った。

以上のような、ヨーロッパ近世のスペイン継承戦争を実質的背景とする近代の市民革命の時代の名誉革命とフランス革命の内容相違の事例など、ヨーロッパ史を貫くイギリスとフランスの二つの大国の対照相違の基本線の中での数ある事象の内のほんの一例でしかない。しかしながら、この英仏の対照相違の大きな一つの節目をなすスペイン継承戦争は、世界史全体に与えたスペイン由来の歴史的画期の重要な分岐の内の一つ、その最たるものと私には強く思える。

岩波新書の赤、立石博高「スペイン史10講」では、スペイン継承戦争については「第6講・カトリック的啓蒙から旧体制の危機へ」の章で書かれている。よって本新書にていくつかある内の一つの読み所は、この第6講のスペイン継承戦争に関する講義の記述部分であると私は思う。古代から近現代までの「スペイン史10講」の中で、この18世紀のスペイン継承戦争の歴史部分の講義解説に是非とも注目して読んで頂きたい。もっとも本新書でのスペイン継承戦争に関する記述は、著者が「スペイン史という一国史の克服」を本論中でたびたび述べながらも、やはりスペイン史の枠内にとどまる一国史的解説であるのだが。

「キリスト教勢力とイスラーム勢力とが対峙・共存した中世、『太陽の沈まぬ帝国』を築きあげた近世─ヨーロッパとアフリカ、地中海と大西洋という四つの世界が出会う場として、独特な歩みを刻してきたスペイン。芸術・文化・宗教や、多様な地域性に由来する複合的国家形成にも着目して、個性あふれるその通史を描く」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(453)永六輔「大往生」

既刊の古典を中心とした「岩波文庫」に対し、新たな書き下ろし作品による一般啓蒙書を廉価で提供することを目的として1938年に創刊された「岩波新書」である。こうした日本で最初の新書形態となった長い歴史を持つ伝統ある岩波新書の中で、歴代で最高発行部数の新書、俗な言い方をすれば「これまでで、もっとも売れた岩波新書」は何だろうか。これについては、以前に「岩波書店調べによる発行部数ランキング」(2008年5月時点)が出されていた。それによると、

1位・永六輔「大往生」(1994年)239万部、2位・大野晋「日本語練習帳」(1999年)192万部、3位・清水幾太郎「論文の書き方」(1959年)145万部、4位・梅棹忠夫「知的生産の技術」(1969年)132万部、5位・井上清「日本の歴史・上」(1963年)114万部

歴代の岩波新書の中で発行部数最多の1位は永六輔「大往生」であり、2位以下を大きく突き放して200万部以上の断トツである。突出しての独走である。あまり人のこない過疎ブログであるが(苦笑)、「岩波新書の書評」など細々とやっている身としては、書籍の内容評価以前に歴代発行部数1位の岩波新書の本書を看過してやりすごすことなどできない。到底、本新書に触れないわけにはいかないのである。そういったわけで今回の「岩波新書の書評」では、これまでの岩波新書の中で最多発行部数を誇り最も売れた永六輔「大往生」を取り上げる。

岩波新書の赤、永六輔「大往生」について、「書籍の内容評価以前に歴代発行部数1位の本新書に触れないわけにはいかない」旨を先に述べたが、実際のところ本書に関して何かを語りたいほどの触手も伸びず、本新書に対する私の評価は全く高くない。正直読んで「かったるい」の思いがする。同時に「世間一般にウケがよい、人気でよく売れている本が、必ずしも内容的に優れた良書であり名著であるとは限らない」の冷めた思いも私は強く持つ。

「人はみな必ず死ぬ。死なないわけにはいかない。それなら、人間らしい死を迎えるために、深刻ぶらずに、もっと気楽に『老い』『病い』、そして『死』を語りあおう。本書は、全国津々浦々を旅するなかで聞いた、心にしみる庶民のホンネや寸言をちりばめつつ、自在に書き綴(つづ)られた人生の知恵。死への確かなまなざしが、生の尊さを照らし出す」(表紙カバー裏解説)

また岩波新書「大往生」の著者である永六輔(えい・ろくすけ)については、「1933年、東京浅草に生まれる。本名は永孝雄。早稲田大学文学部在学中より、ラジオ番組や始まったばかりのテレビ番組の構成に関わる。放送作家、作詞家、司会者、語り手、歌手などとして多方面に活躍。2016年に83歳没」

こういう言い方をすると、岩波新書「大往生」の著者の永六輔とその関係者、本新書担当の岩波新書編集部員、本書を愛読書にしている永六輔ファンの方々にお叱(しか)りを受けてしまうかもしれないが、本書はいうなれば「タレント本」である。字数が少なく余白も多い。著者の永六輔は実際にほとんど新たに執筆していない。永六輔による漫談風の発言・会話の書き起こしを集めたもの、あとは以前の新聞コラムや対談の再掲で本書は主に構成されている。

本書は、「現代人の現代的教養を目的」(巻末文「岩波新書を刊行するに際して」岩波茂雄)とするような従来の学術教養路線の硬派な岩波新書ではない。これはわざわざ岩波新書から出す必要はない。本書は特に岩波新書でなくてもよい。やはり永六輔「大往生」は内容がスカスカで薄い。著者のファンだけが喜んで手に取り読んで満足するような「即席にわかづくりのタレント本」の悪印象が、私には拭(ぬぐ)えない。

本書は全部で5つの章よりなる。「Ⅰ・老い」では、「人間、今が一番若いんだよ」といった本文にての永六輔の語りに「自身の衰えや老いを認めたくない年寄りの冷水」と軽く半畳を入れてみたり、「Ⅱ・病い」では年を取ってからの完治はあり得ない病気との根気の付き合い方や医者との日々の接し方を読んで自分のことに引き付けて考えたりして、「医師や看護師も完全善意のボランティアではなく半分は商売でやっているのだから、医師と患者の双方にそれぞれの言い分の立場はあるわな」と思うし、「Ⅲ・死」では「生まれてきたように死んでいきたい」などと永六輔から分かったような訳の分からないようなことを聞かされ、またまた軽く苦笑ということになる。「Ⅳ・仲間」では、私はまだ同年代の人たちが老いの死を迎える年齢に達していないのでよく分からないが、「将来、私もいよいよ老いて死を間近に意識する年齢になれば、同世代の親しい仲間や知り合いが亡くなる感慨とはこういうものなのか」と漠然と予測し思う。そうして「Ⅴ・父」では、「この本は、亡き父、永忠順(えい・ちゅうじゅん)に捧げる」とする本書刊行の意図を顧みて、「確かに人が未だ経験できない自身の死を考えるのに最も参考になるのは、他ならぬ自分の父母の死を見送った、その経験知見による。人は自分の両親の死から自身の死を事前に学ぶのだ」と私は深く納得する次第である。

本書タイトルである「大往生」は、著者・永六輔の友人であり仕事仲間であった作曲家、ジャズピアニストの中村八大と永との最後の共作仕事の歌詞に由来している。永六輔にとっての「大往生」、彼が望む自身の理想的な死とは以下のようなものであった。

「世の中が平和でも 戦争がなくても 人は死にます 必ず死にます その時に 生まれてきてよかった 生きてきてよかったと思いながら 死ぬことができるでしょうか そう思って死ぬことを 大往生といいます」(「永六輔と中村八大の最後の共作の詞」より)

「長寿を全うし長く生きた上で死ぬ」とか、「臨終間際に苦しむことなく安楽のうちに眠るように死ぬ」などではない。死の瞬間に「生まれてきてよかった、生きてきてよかったと思いながら死ぬ」ことこそ、永六輔にとっての「大往生」であったのだ。

岩波新書の赤、永六輔「大往生」は特に優れた内容の書籍でもなく、本書が岩波新書から出されるべき理由も特に見当たらない。むしろ「大往生」は、「現代人の現代的教養を目的」とするような、これまでの学術教養路線の正統硬派な岩波新書からは大きく外れた異質の岩波新書である。しかし、そうした本来の岩波新書カラーではない「異質の岩波新書」たる永六輔「大往生」が、歴代の岩波新書の中で発行部数最多の1位となり、200万部以上の大ヒットで売れに売れてしまうのだから世の中は誠に皮肉なものである。

事実、岩波新書「大往生」には「人間にとって死とは何か」などの実存的な鋭い哲学的問いや精密な宗教学的考察は皆無で、単に著者の永六輔による自身と近親の者や友人仲間の老いや病気や死についての、取り留めもない砕(くだ)けた与太っぽい俗な話と引用が長々と続くだけの内容てある。よくお年寄りが集まると「俺はこういうふうに死にたい」とか、「この前あった、かかりつけ医師との面倒」などを与太話めいて皆がさかんに繰り出したりするけれども、その話芸の話術を傍で長く聞かされている感触に本書の読み味は似ている。

岩波新書「大往生」のベストセラーの要因背景には、本書出版時の1990年代の時点で、すでに相当数のお年寄りがいて急速に高齢化が広がりつつある日本社会の中で、自身の老いや病気、そして自分や同世代の仲間の死に向き合うことを余儀なくされ考えざるを得ない、多くの人々の時代の社会の空気に上手い具合に乗った所に、歴代の岩波新書の中で発行部数最多の1位となり、200万部以上の人気爆発で異常に跳(は)ねた、永六輔「大往生」大ヒットの光景があるように私には思えた。

殊更(ことさら)に書籍そのものの内容が優れた良書の名著ではなくても、その本のテーマや書籍が持つ漠然とした雰囲気が、時代の社会の多くの人々の心持ちと何とはなしに一致していたり同じ方向を向いていたりしていることで予想外の異常人気で、その書籍が跳ねて大ヒットのベストセラーになってしまうことは、いつの時代にもあり得る。おそらく、岩波新書の永六輔「大往生」は、普段あまり読書習慣はないし岩波新書など読まないが、老いや病気や死を意識しだした多くの高齢者が購読し結果、その購買行動が伝播し増幅して売れに売れて大ヒットになったに違いない。そうした私の見立てである。

岩波新書の書評(452)柳父章「翻訳語成立事情」

外国や他地域から異文化の制度、技術、宗教、学問らを輸入摂取する際に、もともと自国の文化にそれに対応した言葉がないために新しく新語を造語したり、これまでにあった自国の言葉に別の意味・用法を加えて改変する必要が生じる、いわゆる「翻訳問題」というのが昔からあった。

しかし、この「翻訳問題」は実のところ、そうした言葉対応の翻訳の次元の問題にのみ、とどまるものではない。もともと翻訳語に対応する言語がないのだから、異文化を摂取する側の人々は、その精神や概念まで本当の意味で正しく理解できているかは果てしなく怪(あや)しい。異文化受容の際に、もともとある受容主体側の文化により、輸入の異国文化に対する理解の誤解や変容をきたす「思想受容の際の変容の問題」もあった。このことから翻訳輸入の言語次元の「翻訳問題」は、異文化理解次元の「思想受容の際の変容の問題」と密接につながっている。ゆえに「翻訳問題」を論ずる際には、「思想受容の際の変容の問題」にまで本質的に掘り下げて論及しなければ不十分といえる。

こういった「翻訳問題」および「思想受容の際の変容の問題」は、日本の歴史において昔から頻繁に現れる現象問題であった。例えば古代日本の仏教受容、近世日本での儒学の発展、近代日本にての近代化や立憲主義の思想の摂取ら、中国や西洋からの日本国内への宗教、学問、思想制度の輸入摂取に際し「翻訳問題」および「思想受容の際の変容の問題」は常にあったのだ。それぞれについて、古代日本が受容し当時の日本の人々が理解した仏教と、日本に伝来する以前のインド・中国の仏教との相違を精査してみるとよい。確かに、古代の日本に伝来して以後長く日本に根付いた仏教は、伝来受容の過程でもともとの日本の文化や日本の風土や慣習らにより大きく変容せられて、元の大陸のインド・中国の仏教とは明らかに似て非なる「日本の仏教」になってしまっているのであった。同様に、古代と宋代の中国・朝鮮の儒教と、日本の近世の江戸時代に様々な学派に分岐し発展した「日本の儒教」、朱子学を始めとする各学派の儒教理解とその教義の展開を比較考察してみれば、儒教も中国・朝鮮の大陸から日本に伝わる過程で日本人の思考の型に合うように大きく改変され理解されていることが分かる。

はたまた明治維新前後の近代化や立憲主義の各種のヨーロッパの近代思想も、日本に輸入後には「近代化」の意味解釈や「立憲主義とは何か」の制度理解は、いかにもな日本的理解の日本人的把握であって元の西洋の伝統的な近代とは明らかに異なっているのである。「日本の近代化」の過程にて、西洋の近代思想は日本的偏向(バイアス)の変容を受けて確実にその内容は変わっていた。これら事例からも日本の歴史において異文化の制度、技術、宗教、学問らの輸入摂取に伴う「翻訳問題」および「思想受容の際の変容の問題」が頻繁にあったことを私達は容易に理解しうる。

柳父章(やなぶ・あきら)は翻訳家であり、比較文化の研究者である。柳父は前から異文化の制度、技術、宗教、学問らを輸入摂取する際に不可避的に生じる「翻訳問題」を取り上げ論じてきた人であった。柳父章の場合、翻訳の問題は、日本の近代、明治維新前後に西洋の近代思想を輸入摂取する際の問題として主に考察され記述された。例えば、西洋近代の人権思想である「ライト」や「ソサイエティ」や「ナチュラル」や「リバティ」ないしは「フリー」に該当する言葉やそもそもの思想概念が明治以前の日本にはなかった。そのため幕末から維新期にかけて当時の日本の啓蒙思想家や学者や政治家らが、それに対応する新たな日本語を造語するわけである。それぞれに「ライト」は「権利」、「ソサイエティ」は「社会」、「ナチュラル」は「自然」、「リバティ」ないしは「フリー」は「自由」と翻訳し以後日本語表記するというように。

それら近代日本の「翻訳問題」をテーマにした一連の書籍を柳父章は前からよく出していた。「翻訳の思想・自然とnature」(1977年)や「ゴッドと上帝」(1986年、後に「ゴッドは神か上帝か」2001年にタイトル変更して復刊)などである。

岩波新書の黄、柳父章「翻訳語成立事情」(1982年)も、そうした日本の近代化に伴う明治維新前後の翻訳語の決定経緯と裏事情、まさに「翻訳語成立(の)事情」について、各言葉ごとにそれぞれ詳しく紹介している。本新書で取り上げられている翻訳語は「社会、個人、近代、美、恋愛、存在、自然、権利、自由、彼・彼女」の全10語である。

これらの中でも「自由」と「社会」の翻訳語が特に重要だと私には思える。

国家ら政治権力の圧力に抗して人民の権利保障を唱える個人の自由の権利概念は、もともと日本の歴史文化になかった。その個人の自由の権利概念を翻訳して輸入する際に、幕末維新期の近代日本では、ヨーロッパ思想の正当な自由の権利は、放埒(ほうらつ・「気ままに振るまうこと」)や放縦(ほうじゅう・「規律や節度がなく、わがままなこと」)の意味で従来、主に使われていた「自由」の日本語に翻訳変換され、内容まで「自由とはやりたい放題やること、勝手気ままに振るまうこと」の負の意味で当初の日本の人々に「思想受容の際の変容の問題」を介して主に理解されたのであった。この点について、明治期の自由民権運動にて、民権運動を進める運動主体側の、例えば板垣退助や中江兆民や植木枝盛、逆に民権運動を抑える明治政府側の伊藤博文や大久保利通ら、彼らが自由民権運動における「自由」とはどういった意味と認識理解していたか、各人ごとに追跡し調べまとめてみるとよい。そこには確かに近代日本の「思想受容の際の変容の問題」の深刻さがあるのである。

同様に「社会」に関しても、もともと日本の歴史文化には、国家(政治権力)とは異なり、時に政治権力の圧政の暴走を外部から押さえる成熟した市民社会はなかった。日本の歴史において市民社会は皆無であった。いつの時代でも政治権力の国家だけであった。ゆえにイギリスの名誉革命やフランス革命のような市民革命の歴史は日本史にはなかった。従来、歴史家が「日本には国家はあるが社会はない」と苦々しく指摘する所以(ゆえん)である。確かに明治維新前後の日本には、西洋のソサイエティに該当する市民社会など何ら成立していなかったのだ。そこで市民社会のソサイエティは「社会」と後に翻訳され日本語になったが、現実の日本にあったのは、国家(政治権力)と異なって時に政治権力の圧政の暴走を外部から押さえる成熟した市民社会であるよりは、国家に親和的であり政治権力支配の末端として、日常の生活場面の隅々に至るまで各人が皆を自発的に相互監視し集団主義の同調圧力で個人を国家に縛りつける「世間」であった。「世間様に顔向けができない」「非国民」といった言い回しや言葉が古くから根強くある日本文化の歴史の問題として、以上のことの実感的理解は容易だ。ここにも翻訳摂取の際に、ヨーロッパ近代の市民社会の概念である「社会」がともすれば大勢にて伝統日本的な「世間」に変容され理解されしまう、近代日本における「思想受容の際の変容の問題」の深さがあった。

私たちは、この「翻訳問題」ならびに「思想受容の際の変容の問題」の日本の歴史を問題史的に見つめ厳しく再考すべきであろう。

岩波新書の書評(451)天畑大輔「〈弱さ〉を〈強み〉に」

岩波新書の赤、天畑大輔「〈弱さ〉を〈強み〉に」(2021年)の表紙カバー裏解説は以下だ。

「四肢マヒ、発話・視覚・嚥下(えんげ)障がい、発話困難。中学の時、突然重度障がい者となった著者は独自のコミュニケーション法を創り、二四時間介助による一人暮らし、大学進学、会社設立、大学院での当事者研究、各地の障がい当事者との繋(つな)がりを、介助者とともに一歩一歩実現。絶望の日々から今までを描き、関連の制度についても述べる」

また著者である天畑大輔(てんばた・だいすけ)については、本書奥付(おくづけ)に次のようにある。

「1981年広島県生まれ。96年若年性急性糖尿病で救急搬送された病院での処置が悪く、心停止を起こす。約3週間の昏睡状態後、後遺症として四肢マヒ、発話障がい、嚥下障がいが残る。2008年ルーテル学院大学総合人間学部社会福祉学科卒業。17年指定障害福祉サービス事業所『(株)Dai−job・high』設立。19年立命館大学大学院先端総合学術研究科一貫制博士課程修了。博士号(学術)習得。同年より日本学術振興会特別研究員(PD)として,中央大学にて研究。20年 『一般社団法人わをん』設立。代表理事就任。世界でもっとも障がいの重い研究者のひとり。専門は、社会福祉学、当事者研究」

本新書のサブタイトルは「突然複数の障がいをもった僕ができること」である。本書は全八章よりなる。冒頭に「この本では僕の中学生のときからの軌跡をまずお伝えしたいと思います」とあって、著者が中学生の時に海外留学よりの帰国後、異常な体重減少と体調悪化から意識朦朧(もうろう)となり、若年性急性糖尿病での緊急入院と手術治療を経て、後に主治医から「残念ながら、今の医学ではあなたを治療する方法はありません」との完治は不可能の説明を受けて、障がい者になってから今日までの自身の軌跡を述べている。その間の退院後のリハビリ施設への入所と在宅生活への移行、養護学校と福祉学科のある大学への進学、大学院進学と博士論文の執筆、介助者との日々のやり取りの日常(主にその葛藤や問題)、自身が介助者派遣サーヴィス事業所を設立起業する現在までが、「1章・『障がい者』になる」から「7章・当事者事業所の設立」の全七章のうちに記述されている。その上で最終章たる「8章・〈弱さ〉と向き合い、当事者になる」にて自身の考えを総括し、まとめる構成になっている。

私が岩波新書「〈弱さ〉を〈強み〉に」を読んで印象に残ったのは例えば、

最初に原因不明で意識朦朧となり、後に若年性急性糖尿病と診断されたが、搬送先の病院での処置が適切でなく、その不適切処置のため後に後遺症の障がいが残ったとして、本人と両親が病院に対し医療裁判を起こしているらしいこと。☆発話困難の著者のために拡大代替コミュニケーションの内の聴覚走査法である「あかさたな話法」(介助者が本人の腕を取り「あ、か、さ、た、な…」と行頭の文字を順番に読みあげ、その声のタイミングに合わせて介助者の腕を引くことで文字選択して単語や文章を相手に伝えていく話法)を日々使用し、意思表示や会話や執筆をしていること。☆大学生活にて、介助ボランティアでは善意の任意参加でシフトが組めず、また善意のボランティアの場合は介助される側の「私」が「可哀想な存在」であることで、ボランティアからの「助けてあげよう」の善意を獲得し初めて自分が介助者を得られる関係であることから、自分にはボランティアに気遣う気苦労が絶えなかったこと。そして、このボランティアの限界や公的介助制度利用上での問題が、後に著者が在宅生活や親元を離れての一人暮らしの際、家族以外で365日24時間付き添い見守る介助者の必要が生じた時に介助者派遣事業を立ち上げ、介助者と雇用契約を結んで著者みずからが事業所運営の乗り出すことに後々つながっていく点。☆著者は自分の「親亡き後」のことも考え、特に母親と元恋人に対し自分の「依存」が重すぎたことを非常に強く反省的に感じている記述の下り

などである。本書を読んで、「書籍を読むことは、読むことを通して著者が置かれた状況やその背後にある現代社会の問題、そして何よりも書籍を書いた著者その人をそのまま知ることだ」の読書にまつわる一つの真理を改めて痛感する次第である。

本書の読み味は、私が昔に読んだ、例えば乙武洋匡「五体不満足」(1998年)や春山満「僕にできないこと。僕にしかできないこと」(2000年)に似ている。本新書の著者・天畠大輔は、乙武洋匡(先天性四肢欠損。東京都教育委員などを歴任。タレント活動も行う)、春山満(24歳より進行性ジストロフィーを発症し、首から下の運動機能を全廃。全国初の福祉のデパートを開業し、介護・医療のオリジナル商品の開発・販売を行う)を思わせる。天畠も乙武も春山も身体に何らかの不自由の困難を抱えながらも、精神は強い。精神的にタフで容易にへこたれず、自身の自立に加え積極的な社会参加を果たし、他者や社会全体への働きかけの影響力も相当にある。

ただ私が岩波新書の天畠大輔「〈弱さ〉を〈強み〉に」を手に取り読んでいて終始疑問であったのは、「著者において一体どこの何が弱さであるのか!?」ということだ。本書の最終章「〈弱さ〉と向き合い、当事者になる」を読むと、どうやら天畑大輔は「身体が自由に動かず、話せず、よく見えず、残された 『考える』ことしか自分を活かす道がない」ことに加え、日々の生活から、研究者を志した自分にとって研究者として不可欠な文章作成に至るまで「介助者の能力に 『依存』していること」が自分の「弱さ」だと感じ考えているようである(203・204ページ)。その上で、この自身の「介助者の能力に 『依存』していること」という「〈弱い〉主体としてのあり方も受け入れる」ことを通して、「〈弱さ〉を〈強み〉に」と天畠はいうのであった。こうした自身における「弱さ」から「強さ」への価値転回の主張は、書き出しから結語まで連続して貫かれる本書での基調の議論である。

だが、例えば「日々の生活にて絶えず介助者の能力に 『依存』していること」は、本当に人間の「弱さ」なのだろうか。そうした介助者に「依存」のあり様は、果たして「弱さ」といえるのか。仮に私が歩行不能で車椅子を使っていたり寝たきりであったり発話困難だったり知的障がいがあって、一人で生活できず他人の介助の助けを借りる「依存」の状態であったとしても、そのことをもって「自分は弱い」「これが私の弱さだ」と思うことはない。自身の身体・精神の障がいに関し、「不便であり、他の人に比べて自分は面倒なことが多く困難を余計に抱えている」と思うだけだ。そういった、特に身体にまつわる不自由の障がい、そしてそのことにより周りの人々の助けを借り「依存」しなければならないことを、私は人間の「弱さ」とは決して考えない。

なるほど、著者の天畠大輔は能力主義に異常にとらわれすぎている。現代社会の病理である所の能力信仰に心酔している。ここでいう「能力主義」とは、本書にて著者の天畠が述べているように、「その人の能力でその人の価値が決まる考え方」(193ページ)程度の意味であり、事実、天畠は、

「大学院への進学を経て、介助者との協働によって博士論文を書く際に、介助者をリクルートする時点で、ある程度文章作成能力にすぐれた人材を意識的に集めていくようになりました。能力主義に翻弄(ほんろう)されながら、僕は能力主義から逃れられないことも同時に知りました。僕は障がいの社会モデルを持っている一方で、能力面においては、個人モデルとして評価されたい自分の欲求も強く自覚することとなったのです」(「『能力』という個人モデルを捨てきれず」193・194ページ)

と書いている。それどころか、「そもそも僕の大学院進学の動機は『もっと誰かに称賛されたい』『もっと目立ちたい』という思いでした」(192ページ)といい、この能力主義を支える、他者に対抗する能力的優越感確保の欲求や社会一般の人々から自身に寄せられる称賛獲得の承認願望が自分の中にあることを正直に認め告白し、「大学院進学と博論(博士論文)執筆の動機は自分の承認願望を満たすにはうってつけのものでした」(192ページ)とさえ、あからさまに本書にて述べるのであった。そうして、この「他者から自分に寄せられる称賛を求めたり、自身の承認願望を満たしたり、能力主義を捨てきれない私」に関し、果たしてこのままでよいのか、 何ら再考や反省や修正を受けずに以前と変わらず私はこの能力主義に傾倒し邁進し続けてよいのか、の議論はない。本論にて皆無である。著者による能力主義への信仰告白は、最終章の「〈弱さ〉と向き合い、当事者になる」にて主に述べられているが、この自身の能力主義への傾倒を認める話題が出た後、能力主義の問題それ自体に対する批判的考察は何ら深められずに、話は著者における自分の「生きづらさ」についての内容にいつの間にか流れてしまう。

ここだけの内緒の小さな声で言えば、「著者は能力主義に傾倒し能力信仰にとらわれ過ぎているために、自身の身体的な不自由の障がいを自分の『弱さ』だと考えてしまっている。しかも、複数の障がいを有する『社会的弱者』の自分が日常的に自身の介助者と接したり、事実、介助者派遣サーヴィス事業を立ち上げる際にも、「事業所をつくって、あなた自身でよい介助者を育てればいいのよ」という障がい当事者先輩のアドバイスを聞いて「自分が有能な介助者を育成する」意図で着手しており(158ページ)、ゆえに例えば博士論文執筆の際の代筆での介助者における文章作成能力の力量や社会常識・一般教養の知識の総量ら、介助者が「介助をやる人」になる以前にもともと備えている人間の各種の卓越能力を集め、その他、有能な介助者適性の見極めのために介助に伴う動作技能の高低や障がい者への気付きの深さや早さの機転配慮の能力具合ら、天畠は時に相手に分からないよう密(ひそ)かに反応動作を試したりの結果、介助者に暗に厳しく能力要求し精査して、能力が足りない人を安易に否定し切り捨てるようなことに、この人は結局なるのでは!?」の不安の危惧が私の中で拭(ぬぐ)えない。

実はこの種の障がい者が、自身の身体的障がいを「弱点」や「難点」と強く否定的にとらえるため、その不自由な身体的「弱点」を他の能力要素で早急に代替回復しようとし(「〈弱さ〉を〈強み〉に」とか「五体不満足でも何ら不幸ではない、むしろ毎日が幸せ」とか「僕にできないこと。僕にしかできないこと」など)、能力信仰にハマって身体以外の精神面で、他者に厳しく能力要求して、時に能力が足りない人を安易に否定したり切り捨てたりする問題は、書籍を読んでいて、岩波新書「〈弱さ〉を〈強み〉に」を出した天畠大輔と性格的・精神的・思想的に類似していると私には思われる、先に挙げた乙武洋匡と春山満にも共通するものだ。

乙武も春山も身体に何らかの不自由の困難を抱えながらも、精神的にタフで強く自身の自立に加え積極的な社会参加を果たし、他者や社会全体への働きかけの影響力が相当にあったが、その反面、不倫を重ね妻に暴言のモラハラを振るったり、裏で介助者に高圧態度で接していたり(乙武洋匡)、福祉事業を利益追求ベースの「福祉介護ビジネス」にのみ乗せるため、高所得で富裕な障がい者とその家族しか眼中になく富裕層に対してだけ熱心に商売する、経済力がない貧困で苦しむ障がい者と家族には無関心で結局は切り捨てている(春山満)など、話題の著書出版や自身が派手に露出するメディア出演の裏側で、彼らは周囲の人々に時に非情で高圧的・権力的に振る舞う問題が指摘された人たちでもあった。

身体的な障がいを「弱さ」と、なぜか負の価値で認識してしまうことで、その心身面の不自由さの「弱さ」は直(ただ)ちに克服され「強さ」へ価値転回されるべきとする強迫的な思考が働く。そうして、そもそも身体的・精神的障がいを「弱さ」と価値づけてしまう背景には、その人の中に能力主義(「能力の有無や優劣で人間の価値は判断される」とする考え)に基づく価値意識の人間観が強固にあって、身体や精神の障がいは能力の不足や欠如のマイナスだと理解されるから、それら障がいが他者や社会に「依存」している「私という人間の弱さ」になってしまうのであった。だから、また余計に自分の中で思われている、不自由で能力の不足・欠如である「弱さ」を、他者よりも優越した有能な別の所での能力発揮の「強み」に変えるべきとする能力主義に余計にのめり込み、自身や特に周囲の人達に対して能力信仰から厳しい能力遂行の過酷要求をしたり、能力が低いと自分が思う相手に対し時に高圧的・権力的に振る舞う羽目になってしまう。

今さら改めて言うまでもないことだが、身体・精神の障がいがあって不自由で何かを出来ないことの能力の不足や欠如、そしてそのことにより周りの人々の助けを借りて「依存」しなければならないことは、何ら人間の「弱さ」ではない。ぞもそも人間は製品や商品の物とは異なり、機能の能力が仮に欠落し劣っていたとしても、そのことを「弱さ」と指摘され責められて排除されたり、他者と社会から軽蔑され人格否定されたりするような軽い存在ではい。具備して発揮できる個人の能力の如何にかかわりなく、人間であるだけで全ての人は平等に尊厳性をもって他者と社会から丁寧に接せられねばならないからだ。

製品・商品の物とは違い、物の性能に当たる当人の能力で判断される能力主義の能力信仰を超えた所に人間はある。ゆえに、自分の身体的な不自由の障がいを「弱さ」と認識して、早急に「〈弱さ〉を〈強み〉に」変えるような価値転回の強迫的な必要性などない。仮に私に何らかの身体的な障がいがあって、一人で生活できず他人の介助の助けを借りる「依存」状態であったとしても、そのことをもって「自分は弱い」「これが私の弱さだ」と思うことはない。自身の身体・精神の障がいに関し、「不便であり、他の人に比べて自分は面倒なことが多く困難を余計に抱えている」と単に思うだけだ。そういった身体や精神にまつわる不自由の障がいを人間の「弱さ」だと安直に考えてはいけない。

岩波新書の書評(450)川島武宜「日本人の法意識」

1945年8月15日の日本の敗戦に伴う大日本帝国の崩壊に際して、これまでの狂信的な天皇制ファシズムの軍国主義を批判し、さらには明治維新にまでさかのぼり近代日本全体を反省的に総括して、その上で今後の日本社会の民主化を新たに進めようとした戦後日本の知識人たちの中心に一時期「戦後民主主義」の人々がいた。彼らは、「戦後」の日本国憲法の「民主主義」を支持して日本国家の戦争責任を糾弾する左派的心情の持ち主ではあったが、日本共産党らマルクス主義の思想的上の硬直した公式主義や運動組織の凝固した全体主義の問題に対し十分すぎるほどに警戒して懐疑的であったし、同様に日本国の戦争責任議論を回避して戦後に再び天皇制護持を叫び出したり、国家主義に回帰しようとする日本の右派保守に対しても当然のごとく批判的であった。

「戦後民主主義」は、敗戦後に国民への啓蒙主義的姿勢を有して主に東京大学の若い研究者らにより、その発言・執筆は担われた。戦後の彼らは、西洋の理念的「近代」から現実日本の近代化の不足を指摘して「前近代」な日本の遅れの問題を人々に広く啓蒙的に説いた。そうした「前近代」的な日本社会の遅れこそが、今般の軍国主義の日本の無謀な戦争を構造的に招いたと否定的に分析したからであった。

同じ旧帝国大学で東京大学と対抗する京都大学は、戦時に哲学者の西田幾多郎ら、いわゆる「京都学派」が主流で、総力戦体制下の時の政府と結びつき「戦時動員の哲学」を供給していたが、敗戦を迎えて京都学派の哲学者ら「知識人の戦争責任」追及により、かつてあれほどまでに社会を席巻し隆盛を極めて東京大学を圧倒していた京都大学の面々が失脚してしまい、戦後に東大所属の若い社会学者らが新たな戦後世論のオピニオンリーダとして注目され一躍、戦後社会に躍り出たのであった。彼らの政治的思想的立場は一般に「戦後民主主義」と言われる。また、この「戦後民主主義」の発言・執筆は東京大学の若手の研究者を中心になされたが、それら言説は朝日新聞と岩波書店のマスメディアと出版社を主に通じて発表されたので「戦後民主主義」は「朝日岩波文化」とも時に呼ばれる。

「戦後民主主義」の当時の若い担い手であった東大所属の社会学者として、政治学の丸山眞男(1914─96年)、経済学の大塚久雄(1907─96年)、法律学の川島武宜(1909─92年)の三人はその中心にいて外せない。日本の敗戦時の1945年に彼らがいずれも30代の壮年期であったことに留意してもらいたい。終戦のこの時期、30代の中堅で研究者としてある程度の実績もあり、しかし学界の重鎮の大家にはまだなっておらず、戦時の若い頃には「敵国の」西洋の学問をやろうとして指導教授や大学当局に暗に咎(とが)められたり、戦争遂行の国策に反する国家批判の研究学問が時局の統制のせいで出来なかったりで、丸山と大塚と川島のいずれもが少なからずの「苦い青春」の持ち主であったのだ。

なるほど、「戦後民主主義」は「朝日岩波文化」と言われるだけあって、戦後は特に岩波書店と東京大学は関係が深い。そうして彼ら東大の社会学者の著作は後の岩波新書にもれなくあるのであった。すなわち、岩波新書の丸山眞男「日本の思想」(1961年)、大塚久雄「社会科学の方法」(1966年)、川島武宜「日本人の法意識」(1967年)である。

以下では「戦後民主主義」の東大出身の主な三人の担い手の中で、法律学の川島武宜について書いてみる。

川島武宜(かわしま・たけよし)は、東京帝国大学法学部出身。専攻は民法、法社会学である。川島法学の良さは、法の実在(法の制定・改正・廃止)や法の運用解釈(過去の判例)など即物的な法律そのものだけでなく、法律を取り扱う人間の法意識の側にまで踏み込んで考察する点にあった。川島武宜において、法学は対象即物的な法律そのものだけでなく、その法律を実際に取り扱い運用する人間主体の法意識までがあって初めて一つの完成した法律学となるのであった。

川島法学には、(1)法律を制定し運用する人間主体の法意識についての問題指摘と、(2)近代日本に根強くある家族主義的国家観への批判の2つの柱があった。

(1)に関しては、川島による以下のような伝統的な日本人の法意識についての問題指摘である。これまでの近代日本の社会において、法律は常に国家による上からの強制であって必ず従わねばならず、「法を守らなければ人々は厳しく罰せられる」と馴致されていた。厳格に遵守すべき規範としてのみの法律であって、国民の服従義務ではなく逆に国家の政治権力を国民の側から制限したり、個人の権利を保障するような法律の制定と運用の法意識が日本人は希薄である。また、こうした人間の権利保障のために法を用いる意識が乏しいため、かつ正当厳密な「法の支配」ではなく、非合理で馴れ合いによる「人による支配」が実際の社会場面で多くを占めるために、伝統的な日本社会では個人の権利を主張すると、単なる「わがまま」とか「逆張りの天の邪鬼」などと不特定多数の周囲から集団的に攻撃される。法に基づいて訴訟を起こした場合でも、「変わり者」「喧嘩好き」「集団の和を乱すエゴ」などと否定的に目されイジメや仲間はずれの報復攻撃を受けることが多々ある、とする。これらの問題指摘については、例えば川島武宜「日本人の法意識」(1967年)に詳しい。

(2)については、川島による日本に伝統的な家族主義的国家観に対する批判である。「家族主義的国家観」とは、明治以来の日本の近代天皇制国家において、天皇を絶対的に君臨する家長の「父」とし、国民一般を天皇の「赤子」の子と見なして、国家を一つの情緒的て有機的な家族に見立てるような国家観のことである。各々の国民は、子が父に従うように、家長の天皇に絶対的に服従しなければならない。国民は臣下(家来、下僕)の「臣民」であるから常に恭順を貫き、主君の天皇に謀反があってはならないのである。家族主義的国家は公的な国家への忠誠支持を、「家族」という極めて私的な最小集団単位の人間の根源的心情より調達してくるものであるから、このことは逆に言えば、公的な政治権力の近代国家が各国民の心の内面の私的領域にどこまでも侵入して結果、個人をコントロールする人間の内面収奪に他ならない。そうして下部にて擬似家族主義的な天皇制国家を支え、公的国家への忠誠支持を情緒的に下から提供し続ける実際の私的家族も、戦前の民法らを参照すれば明白であるが、父たる家長の強権の下で家族構成員には恭順な上下支配の封建的人間関係が貫徹され、家族主義的国家観は公私に渡り一貫して強力に存在したのだった。

ここでは、各人が独立してあって内面の自由の権利が保障される近代的な個人主義的人間成立の余地はない。事実、明治維新から1945年の敗戦に伴う大日本帝国の崩壊に至るまで、いつの時代でも日本の近代天皇制国家下では、集団主義の家族主義的国家の思想が強固にあって、近代日本には各人の権利が保障された近代的な個人主義的主体は、ほとんど成立の余地はなかった。そのため、昔から日本人には人権や私的所有などの人間個人の権利に関する法意識は希薄であり続けたのだった。これらの問題指摘については、川島武宜の「日本社会の家族的構成」(1948年)や「イデオロギーとしての家族制度」(1957年)にて主に述べられている。

最後に、岩波新書の川島武宜の書籍として青版の「日本人の法意識」は、上記の(1)の「伝統的な日本人の法意識についての問題指摘」と、(2)の「日本に伝統的な家族主義的国家観に対する批判」を一冊の中で共に概論的に述べているので川島の数ある著作の中で非常にお勧めである。本書は川島武宜の代表作と言ってよく、世間的にもよく読まれている。あと川島武宜の弟子に渡辺洋三がいる。渡辺は川島の「日本人の法意識」に関する批判的考察を継承する法学者であり、川島法学の正統な後継者といえる。渡辺洋三も岩波新書から多くの自著を出している。「法とは何か」(1979年)、「日本社会はどこへ行く」(1990年)辺りが渡辺洋三の岩波新書の秀作であり、お勧めである。

岩波新書の書評(449)江川紹子「『カルト』はすぐ隣に」

過去に私自身や私の家族や親族や知り合いで、いわゆる「カルト」の新興宗教や詐欺的グループや過激派政治団体に入信したり加入した人はいない。これは自分にとって誠に幸運なことであって、逆にそういった「カルト」に身近な人が入信・加入した人はとても気の毒に思う。私としては自分が直接に「カルト」に入信・加入することはほとんどありえないから、仮に私の周囲の人(家族や親族ら)が「カルト」に入信・加入したとして、その人に脱退を勧めたり、相手組織との交渉を通して結果として間接的にそうした「カルト」と関わりをもつことは、自分の人生にとって相当な無駄であり、心身の消耗と時間の損失以外の何物でもないと思えるからだ。

試しに、現代日本の「カルト」の典型たる「オウム真理教」による一連の社会事件を振り返ってみると、オウムにより殺害されたり傷害を受けた直接の被害者は入信した当人であるよりは、彼らを教団から脱退させようとした家族・親族やオウム教団の社会的問題を追及したマスコミ、法曹(弁護士や検事)の関係者の方が圧倒的に多いのである。このことは例えぱ、

坂本弁護士一家殺害事件(1989年11月、信者の親の依頼で教団と交渉していた坂本堤弁護士の家に押し入り、妻と長男と共に殺害した)

松本サリン事件(1994年6月、当時オウム真理教に対する訴訟を担当していた長野地方裁判所松本支部の裁判所宿舎を狙って住宅街にサリンを噴霧。8人が死亡、約600人が重軽傷を負った)

目黒公証役場事務長拉致監禁致死事件(1995年2月、在家信者の資産家女性が連絡を断ったため、居所を聞き出そうと兄を拉致し、薬物を使って監禁中に死亡させた)

ら実際の事件を参照するとよく分かる。オウムに入信した当人は自身の意思で入って主観的に「幸せ」で良いかもしれないが、それをいさめた信者以外の全くの第三者の方が、オウム教団の加害の標的となって殺害されたり暴力の直接被害を受けたりするのは、非常に馬鹿らしい思いがする。

このことからして、オウム真理教など、いわゆる「カルト」に私は一貫して関わり合いになりたくないのである。残念なことに「カルト」の集団組織は昔から今日に至るまで、いつの時代でも存在する。「カルト」は人間社会から容易になくなることはない。そして確かに「カルト」に入って、結果的にだまされていたり、現に苦しんだりしている当人は気の毒に思うけれど、とにかく私は「カルト」とは一切関わりを持ちたくないので、自分の身の回りの人々が「カルト」に入信・加入したりしないことを切に祈るのみである。家族や親族の脱退の説得や交渉などを通してさえ、「カルト」には一切関わりたくないのだ。

岩波ジュニア新書の江川紹子「『カルト』はすぐ隣に」(2019年)は、「とりあえず如何なる形であれカルトとは一切、関わりを持ちたくない」と常日頃から切に願っている私のような読者には、極めて実用的な書籍である。本書はジュヴナイル(10代の少年少女向けの読み物)の岩波ジュニア新書であるから、岩波ジュニアの読者層として想定されている若い人達がオウム真理教など「カルト」に安易に入信・加入しないよう注意を促したり説き伏せたりする、若者に向けて「カルト」を予防する内容に結果的になっている。本新書のサブタイトルは「オウムに引き寄せられた若者たち」である。本書は、オウム真理教の社会犯罪の実態から教団幹部らの逮捕と裁判を受けて彼らの死刑執行までの帰結、その他、裁判での教団幹部らの発言や獄中からの手紙、かつてオウムに入信していた元信者の手記などで構成される。

岩波ジュニア新書「『カルト』はすぐ隣に」を通して私達は、「カルト」は遠い世界にあり自分とは関係がないと一見思いがちであるが、オウム真理教のような「カルト」がまさに「(あなたの)すぐ隣に」もある注意の意識を持って、学校や地域やネットなどを介して勧誘され結果、安易に入信・加入してしまわないよう学ぶべきであろう。繰り返し何度も言うが、「カルト」と関わりをもつことは自分の人生にとって相当な無駄であり、心身の消耗と時間の損失以外の何物でもないからだ。

本新書の著者は、オウム真理教関連で一時期、メディアに頻繁に露出していた江川紹子である。江川は本書以外にもオウム関連の書籍を多数執筆している。彼女はもともと新宗教や災害や冤罪や若者の問題などを幅広く扱うフリーのジャーナリストであったが、ある時期からオウム真理教の問題を集中して追及するようになり、オウム教団を追跡して教団の実態に詳しかったことから「オウム・ウオッチャー」として後に広く世に知られたのであった。

その江川紹子が岩波ジュニア新書「『カルト』はすぐ隣に」の中で、「カルト」の定義をしている。本新書にてまず読むべき所、決して読み逃してはいけない所は著者の江川による「カルトとは何か」の定義であろう。その概要は以下である。

「オウム真理教のような団体を、しばしば『カルト』と呼ぶ。『カルト』の語源は儀式、儀礼、崇拝などを意味するラテン語で、そこから派生して宗教に限らず、何らかの強固な信念(教義、思想、価値観)を共有し、それを熱烈に支持し行動する集団を『カルト』と総称する。中でも自分たちの目的のために手段を選ばず、社会のルールや人間関係、人の命や人権などを破壊したり損なうことも厭(いと)わない集団を特に『破壊的カルト』と呼ぶ」(「カルトとは何か」192ページ)

その上で江川紹子は次のように続ける、

「(『カルト』の)問題は、その信念を絶対視し、他人の心を支配したり、他の考えを敵視したりして、人権を害する行為があるかどうかです。一人静かに、時折鰯(いわし)の頭を拝んでいるだけなら、『カルト』とされるいわれはないでしょう。けれども、勉強や仕事をしなくなって四六時中拝み続け、他人の悩みや弱味につけ込んで仲間に引き入れたり、『これを拝まないと地獄に墜(お)ちるぞ』などと脅してお金をとったりすれば、これは『カルト』と批判されても仕方がありません」(「カルトとは何か」192ページ)

岩波ジュニア新書「『カルト』はすぐ隣に」の中での、著者の江川紹子による「カルトに人生を奪われない生き方」という言葉が印象的だ。「カルトに自分の人生を奪われない」ために、自身や周囲の親しい大切な人達が熱狂的で反社会的な「カルト」に安易に入信・加入してしまわないような防御を私達は講じる必要があるだろう。オウムの教団幹部に医師や弁護士や特に理系大学・大学院の出身者が多くいたことから、知識があって勉強ができて学歴がある、世間で俗にいう「頭がよい」ことはカルトにだまされないことの要素にはならない。知識があって勉強ができて学歴がある世間で俗にいう「頭がよい」人であっても、オウム教団のカルトに引っかかり時に入信してしまう。

知識の総量や学歴云々以外のところで、本新書にあるオウム真理教の教団幹部らの裁判での発言や獄中よりの手紙、オウムに実際に入信していた元信者の手記から、本文に直接的には書かれざる、しかし一般化して読み取ることが出来る教訓になりうる「オウム真理教のような『カルト』にはまりやすい人の性格資質や精神傾向」について、最後に私なりにまとめておく。

これらは、岩波ジュニア新書「『カルト』はすぐ隣に」を読んで私が気付いた、オウム真理教ら「カルト」にハマりやすい人達の共通傾向であり、以下のような性格資質や精神傾向を有する人は特に「カルト」に警戒した方がよい。こういう人は「カルト」に引き込まれる危険性が相当に高い。また、このような性格資質や精神傾向のある人が自分の家族や親族や知り合いにいる場合、その人が「カルト」に引き込まれないよう周囲の者は警戒し、前もって充分に関心を払っておくべきである。自分の大切な人が「カルトに人生を奪われない」ために。

☆両親や家族との不和、学校や職場での孤立やイジメなどで「自分の居場所がない」疎外感・孤独感を持っている。家族や親族や友人ら親しい者の突然の死や事故や難病などで人生の不幸や不条理の深い苦しみを抱えている(そのため「カルト」への勧誘の際には、この疎外感・孤独感・不幸感の弱味につけ込まれてしまう)。☆自身の健康や容姿や能力や出自や社会的地位に不満や劣等感(コンプレックス)が強烈にある。もっとも多くの人が、この手の不満・劣等感は少なからず持ち合わせているものだが、「カルト」にハマりやすい人は、それら負の感情を自分の中で納得して合理化の処理ができていない。結果、無気力、投げやり、短絡的、極端な思い込み、優越感の調達、自己自慢の間違った自愛感情、他者と社会に対する否定憎悪の攻撃に安易に走る衝動傾向がある。

☆断食不眠や回峰や喜捨・献金や教義研究など、極端苛烈な苦行へのあこがれがあり、苦行の達成を通して自分自身が向上すると素朴に信じている(ないしは信じたがる)。自己への厳しい研鑽・修行が自分に何らかの見返りをもたらすと信じる応報主義(「これほどの厳しい研鑽・修行をしたのだから、その努力の見返りとして自己の魂が必ず向上する」などの根拠のない激しい思い込み)にとらわれている。☆真理を享受して自分のものにしたり、絶対的正義を求める求道心が強すぎる。ゆえに真面目、努力家、完璧主義者である。何事にも集中しすぎて視野狭窄(しやきょうさく)でハマりやすい性格資質であり、良い意味での融通の効く「いい加減さ」がない。

☆虚(むな)しさを感じないで済むような完全で万能な、人間にとっての「絶対的真理」や「生きる意味」や「完全幸福」を安易に欲したがる。☆「死後の世界」や「人間の前世の因縁」や「将来的な人類の滅亡」など、万人が知り得ない平等に不可知な事柄に対し、なぜか明確に断定して、やたらと語りたがる。もしくは皆が分からない不可知なことを自信を持って、あたかも自分だけが「真理」を手にしているかのように特権的に語る人物(教祖や指導者ら)に容易にあこがれてしまう。ある種の不可知(人間には誰もが知り得ないことがあること)に耐えられない。

☆現代社会に対する批判意識が強く、ある程度の知識があり、その批判的言説は一見、正しく思えるが、あまりにも過剰過ぎる批判意識から、不特定の他者や社会全体を傷つけたり現国家を転覆させても「やむを得ないし、場合によっては構わないし許される」といった反社会的で破壊的な行動を最終的に肯定する極端な思考を持つ。正当な目的の達成のためには、非人道的な非道な手段をあえて取ることも時に許されるとする「目的のためには手段を選ばず」の精神傾向がある。

岩波新書の書評(448)多木浩二「戦争論」

今にして思えば、岩波新書の多木浩二「天皇の肖像」(1988年)は、さすがに名著であった。

視覚上位の近代の時代において「見る・見られる」の人的関係に「支配・被支配」の権力支配の構造を見切って、しかもその視覚にまつわる権力現象を、近代日本の天皇制国家成立期での明治天皇の肖像写真たる「御真影」(ごしんえい)の各学校への下付という具体的歴史事実に落とし込み、「御真影」に託された政治的意味を「権力の視覚化」という観点から実に見事に読み解いてみせたのだった。明治天皇の肖像写真たる「御真影」の各学校への下付や、明治天皇の各地への行幸にて天皇を国民に広く、しかも荘厳や神聖さを演出しあえて見せるといった「権力の視覚化」というテーマは、近代日本史研究や通常の政治学にて現在でこそ一般的なものとなり誰もが思い至ることであるが、当時1980年代には、それなりに新たな視点というか、「天皇の肖像」たる「御真影」から「権力の視覚化」という近代の政治権力の問題を見事に摘出してみせた多木浩二の着眼と力量に、少なくとも私は非常に驚き感心したのだった。

そうした名著の「天皇の肖像」を以前に岩波新書から出していた多木浩二による、同じく岩波新書から出された今般の「戦争論」(1999年)である。本書の概要は以下だ。

「すさまじい暴力と破壊の爪痕を人類の歴史にのこした2つの世界大戦。そして今なおつづく内戦、民族紛争…。二0世紀とはまさに戦争の世紀だった。世界はなぜ戦争になるのか?われわれは戦争という暴力をどのように認識し、いかなる言葉で語るべきなのか?新たな思想的枠組みを探り、二0世紀をとらえかえす歴史哲学の探究」(表紙カバー裏解説)

本新書は「戦争論」の大雑把なタイトルではあるが、帯を見ると「暴力と破壊の20世紀をいかにとらえかえすか」とあり、本書は「戦争論」とは言っても20世紀の「近代の戦争」に限定集中した、特に本書の刊行が1999年という世紀末の節目に当たることから1901年から2000年までの100年の間に起こった20世紀の戦争(「第一次世界大戦からユーゴ空爆まで」)に関する論考である。しかも、各戦争についての個別具体的な詳細記述ではなく、それら20世紀の戦争群から「近代の戦争」の新たな傾向や戦争の本質問題を考えるような政治哲学的考察になっている。

私が読む限り、本新書は「近代の戦争」における、例えば総力戦体制や全体主義や排他的な自民族中心主義(「民族浄化」の思想)の問題、兵士や軍事的対象のみならず、非戦闘員である都市の一般市民らに空爆ら無差別攻撃を加え一掃殲滅(いっそう・せんめつ)しようとする「あらたなタイプの戦争」だとか、生物化学兵器と核兵器ら非人道的な大量殺戮兵器使用へのエスカレートや、帝国主義的覇権をめぐって大国が自身は非戦闘地の安全地帯に居ながら、進出の各地域で現地の小国に暗に仕向けて前線で戦争をやらせる「代理戦争」や、自国民への愛国心の喚起と国民徴兵、と同時に敵対国に向けての憎悪の形成といった近代国家による政治的扇動らの各話題に本論にて幅広く触れている。

かつての近代以前の戦争では、どこか遠方にて勝手に軍隊同士の軍事衝突が始まり、やがては終結して一般の人々は戦争に対し無関心でいられたが、「近代の戦争」において人々は、もはや戦争に無関心であることは許されない。空爆ら非戦闘員をも巻き込む無差別的な都市爆撃、生物化学兵器と核兵器の使用、「民族浄化」などの名のもとに地域住民に直接に加えられる戦時暴力、国民徴兵の実施や、メディア・公的教育を介し人々は自国の戦争経過に一喜一憂して、自分の国が戦勝した際にはまるで「自分自身が勝った」かのように喜ばなければいけないのであった。戦争の暴力が一般の人々にまで広く深く露出し、人々は決して戦争から逃れることは出来ない。そういった「20世紀の戦争の世紀」に私達は生きているのだ。

岩波新書の赤、多木浩二「戦争論」は、考察内容は「それなり」の妥当なものだが、以前の「天皇の肖像」とは異なり、読んで私が多少不満に思うのは、著者の書きぶりが私的なエッセイ風文章であり、厳密な政治哲学的考察や筋道立てた概論的な硬派な学術的文章とはなっておらず、ゆえに真っ当な論述考察から逸脱した「反戦平和への思い」や「アメリカ帝国主義批判」や「先のアジア・太平洋戦争での日本の戦争責任」に関する書き手の多木浩二の過剰な思い込みと主観的希望を時に読まされる箇所も多い。これも、そもそもの著者の多木浩二その人が東京大学文学部美学美術史学科出身の美術史専攻の人であって、美術評論や写真論を主に手掛け、政治学そのものや国際政治や世界史を専門にやってきた人ではない問題に由来しているように私には思えた。

なるほど、以前に多木浩二が「天皇の肖像」を執筆し、天皇の肖像写真たる「御真影」の政治的道具の即物や、全国各地を天皇が視察してまわる「行幸」という政治行為のイベントに「権力の視覚化」の近代政治の問題を鋭く見出せたのは、写真論ら人間の視覚や現象学の哲学についての問題意識と美術史の前仕事の蓄積が氏の中にあったからであった。多木浩二は必ずしも政治学や国際政治や世界史を専門に本格的に学んだ人ではない。その辺りの欠落が、岩波新書「戦争論」での私的エッセイ風で取りとめのない、ややもすれば漠然とした著者の書きぶりとなって出ており、そこが以前の多木浩二の岩波新書「天皇の肖像」と比べ、本作「戦争論」が一読して「あまり出来が良くない」と私には感じられてしまう理由である気もする。

岩波新書の書評(447)安岡章太郎「アメリカ感情旅行」

岩波新書の青、安岡章太郎「アメリカ感情旅行」(1962年)の書き出しはこうだ。

「私は一昨年(一九六0年)ロックフェラー財団の留学生として十一月二十六日に羽田をたち、翌年五月十七日にかえってきた。その間ほとんどテネシー州のナッシュヴィルにおり、ニューヨーク、メンフィス、ニューオリヤンズ、アイオワ・シティー、サンフランシスコ、ハワイ等に二、三日から十日間程度の滞在をしただけで、他の場所をみる機会はまったくなかった。だから本当はこれはナッシュヴィルとその周辺の半年間の見聞記であるにすぎない。一枚の朝鮮アザミの葉を食うことは朝鮮アザミを食うことになるとしても、私のアメリカでの体験がいかに幅が狭く、浅薄なものかは、明白なことであって、私自身この旅行でアメリカを理解したとは万々もおもってはいない」(「はしがき」)

本書は、作家である安岡章太郎による1960年11月から翌61年5月にかけての約半年間(六ヶ月)に渡るアメリカ旅行の滞在記である。その間、著者の安岡は「ほとんどテネシー州のナッシュヴィルにおり、…他の場所をみる機会はまったくなかった」という。そうして「私のアメリカでの体験がいかに幅が狭く、浅薄なものかは、明白なことであって、私自身この旅行でアメリカを理解したとは万々もおもってはいない」と書いて、つまりは「アメリカ旅行の滞在記とはいっても私の場合、ほとんどナッシュヴィルにいて動かず、アメリカの他地域は見聞してはいないので、この旅行記を介しての私のアメリカ理解は相当に幅が狭く深さも浅薄なものだから、本書を読む読者はそのことを認識しておいてもらいたい」旨の弁明を最初にするのであった。つまるところ岩波新書「アメリカ感情旅行」を読んで、「安岡のアメリカ理解は偏(かたよ)りがあって一面的すぎる。アメリカの負の陰のマイナスの部分、犯罪多発の治安の悪さや人種差別や貧困格差の悲壮な問題ばかりを恣意的に取り上げて強調している」などの感想や書評はするな、「読者よ、絶対にそれはするなよ!」の予防線を書き出しの冒頭からあらかじめ周到に張っているわけである。私は本新書を初読の時から、安岡「アメリカ感情旅行」の冒頭の書き出し文を読んだだけで以後も再読の度に毎回、爆笑してしまう。いかにも書き手の安岡章太郎の気弱な性格が現れた書き出しではないか。これは著者の人柄が最初に如実に示された、ある意味「名文の名書き出し」ではある(苦笑)。

岩波新書「アメリカ感情旅行」における「感情」とは、楽しみや喜びや希望の陽の明るいプラスの感情ではない。むしろ悲しみや怒りや絶望の陰に満ちた暗い憂鬱(ゆううつ)なマイナス感情よりなる「アメリカ感情旅行」の記録である。このことは、例えば今回のアメリカへの旅についての著者による総括のまとめに当たる最終章「旅行者の見たハエについて」のタイトル付けからして明白だ。著者の安岡章太郎は「旅行者の見たハエについて」いう、

「私自身は、こんどのアメリカ旅行で何びきかのハエを発見した。真冬のニューヨークのカフェテリアのテーブルの上をあえぎ這(は)いまわっているハエを発見したし、ナッシュヴィルのアパートのうらのゴミ鑵(かん)のまわりをウナリながら飛びまわっている胴の太いガッシリとした体つきのハエを見た。そうした何びきかのハエを、私は『アメリカのハエ』として記憶した部分がないとは言えない。…むしろ私はハエの性質を、それを自分自身のこととして考えたい。私が、たとい何処ですごそうと結局、私は私なのだから…」(「ⅩⅣ・旅行者の見たハエについて」)

この人はわざわざアメリカまで行って、なにゆえに「ニューヨークのカフェテリアのテーブルの上をあえぎ這(は)いまわっているハエ」や「ナッシュヴィルのアパートのうらのゴミ鑵(かん)のまわりをウナリながら飛びまわっている胴の太いガッシリとした体つきのハエ」など、アメリカのハエの話ばかり、今回の旅の最後の締めくくりにてするのか。

思えば、著者の安岡が主に行って滞在していたのは、黒人に対する人種差別と貧困格差が厳しい過酷なアメリカ南部のナッシュヴィルなのであった。そして、そこからほとんど移動していない。ずっと動かずにアメリカ南部のナッシュヴィルに安岡章太郎はいる。ニューヨークとかサンフランシスコとかハワイなど、当時のアメリカの最新都市や観光地のリゾートに行けば、裏通りや場末のアメリカのハエなど目にせず、それなりに楽しく喜びや希望に満ちた「アメリカ感情旅行」にもなったであろうに。そして、著者がアメリカ南部のナッシュヴィルに滞在した1960年から翌年61年は公民権法制定(1964年)の直前に当たり、この時期はアメリカ各地にて公民権運動(アメリカの黒人に参政権や市民権ら公民権の適用と、人種差別の解消を求める大衆運動)が最も激しい時代なのであった。

最終章での「旅行者のみたハエ」における「アメリカのハエ」とは、著者が実際にアメリカ滞在中に目にした実物のハエのことでもあるが、同時にこの「ハエ」は「アメリカ感情旅行」に際して著者が見つめて感じた現実の病(や)めるアメリカ社会の暗部の比喩(ひゆ)にもなっている。その上で著者の安岡章太郎は、「むしろ私はハエの性質を、それを自分自身のこととして考えたい。私が、たとい何処ですごそうと結局、私は私なのだから…」とさえ述べて、「アメリカのハエ」に例えられるアメリカ社会の暗部の差別や貧困の問題を自分自身のこととして自身の身に引き付けて、より深く考えようとするのであった。

また、この「アメリカで見たハエ」の記述の前には、「中共にはハエが一ぴきもいない。旅行中に中国でハエを一ぴきも見なかった」という中国旅行者の話がある。その他人の中国旅行と今回の自身のアメリカ旅行とを暗に対比して、かの中国への旅では中国共産党により外国の旅行者に自国の不名誉になるような不潔な所や現実の中国社会の暗部(「中国のハエ」)は前もって見せないよう隠され、常に監視され管理されて「中国の旅」演出が巧妙になされているが、今回の自身の「アメリカ感情旅行」には、外国の旅行者があまり精力的に見ることのない現実のアメリカ社会の暗部(つまりは「アメリカのハエ」)まで、自分はごまかすことなく自由に真実をしっかり見てきた、の著者・安岡章太郎の「アメリカ感情旅行」の旅への並々ならぬ自信の自負も、確かに感じられるのである。

岩波新書の書評(446)田中克彦「ことばと国家」

岩波新書の黄、田中克彦「ことばと国家」(1981年)は、歴代の岩波新書の中での名著としてよく推薦され、学生が読むべき必須の課題図書に定番で指定されるような昔から有名な書籍である。本書の概要は以下だ。

「だれしも母を選ぶことができないように、生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はない。その母語が、あるものは野卑な方言とされ、あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか。国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかにし、ユダヤ人や植民地住民など、無国籍の雑種言語を母語とする人びとのたたかいを描き出す」(表紙カバー裏解説)

本書には言語学に関する原理的考察や言語の生成発展に関する概説などなく、「ことばと国家」という言語の時代的あり様と国家の政治権力との関係を比較的独立したいくつかのエッセイ的文章にて記し、それらを各章にして一冊の新書にまとめている。よって、文献資料(史料)や言語理論に基づく厳密な学術考証は本新書にはない。まさに「ことばと国家」の関係に関するエッセイとして、いくぶん楽に、しかし「ことばと国家」の問題の本質論点を押さえながら読み進めることが出来る。そこが本書の良さだと思える。

岩波新書「ことばと国家」には一つの太い幹(みき)となる基調の読み味がある。

近代の国民国家の国内での成立と、続く海外覇権の帝国主義支配の植民地化に当たり、中央集権的な公的国家がそれまで各地域の地方にそれぞれに多様にあった言語(違った言語、同じ言語であっても方言の相違、話し言葉と書き言葉との言文のズレ、各種様々な記述言葉の文字・凡例の表記表現など)を排斥し、一つの公的言語(国語、母国語、公用語、標準語、常用文字などとして)を掲げて強引に単一化してしまう文化統制的暴力とでもいうものに対する著者の強い批判意識である。著者により一貫してなされる「ことばと国家」に関するこの問題指摘は、先の表紙カバー裏解説の文章でいえば「その母語が、あるものは野卑な方言とされ、あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか。国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかに(する)」の部分に当たる。この点は岩波新書「ことばと国家」の全編を貫く強い論調として決して読み逃していけない、本書の基調をなす中心の読み味だ。

近代世界以降の海外覇権にて、帝国主義支配の植民地化や民俗浄化の強国の抑圧により、支配地域の人々が制圧され「文化保護政策」の名のもとに従来使ってきた伝統的な言語を禁止され剥奪(はくだつ)されて、代わりに別の特定言語の使用を強要されてしまう「ことばと国家」の問題が昔からあった。

また近代の市民革命を経ての国民国家成立は旧来の絶対王政の封建的支配体制を打破する革命であり、一般に市民革命は近代化の指標として安易に賞賛されがちである。確かに、ある種の市民革命を経た近代の国民国家は多くの封建的特権の身分制度を「前近代なもの」として否定し、おおよそ排除して人民の権利の不平等を改善するけれども、他方で公的政府の中央集権化とその強権政府による国民の平準化にて、国内の人民は等しく一律に支配され、国民国家における均一な「国民」創出に伴い、かつて前近代の封建的割拠下で各地域に様々に多様に存在し継承されてきた言語文化が、近代国家の中央政府により規制され中絶破棄されて、代わりに「母国語」や「国語」や「標準語」が押し付けられ正統な「国民文化」として統一的に不自然なまでに強引に鋳直(いなお)されてしまうことはよくある。そうして、この正統な「国民文化」とは異なる、これまであった多様な言語文化は国家により後々まで抑圧や差別の危害を被(こうむ)り続ける。

前述のように、本新書は「ことばと国家」という言語の時代的あり様と国家の政治権力との関係を、比較的独立したいくつかのエッセイ的文章にて記し、それらを各章にして一冊の新書にまとめている。よって文献資料(史料)や言語理論に基づく厳密な学術考証は本書にはないけれど、これら近代の国民国家の成立に当たり、中央集権的な公的国家がそれまで各地域の地方にそれぞれに多様にあった言語を排斥し、一つの公的言語を掲げて強引に単一化してしまう文化統制的暴力について、本書では第4章に当たる「四・フランス革命と言語」と第5章に当たる「五・母語から国家語へ」の章にて、フランス革命に象徴される近代ヨーロッパでの公的国民国家形成に伴う事例と、近代日本における明治維新を経ての明治政府による事例とで「ことばと国家」をめぐる文化的統制暴力の概要を大まかではあるが素描している。本新書は全八つの章よりなるが、特に注目の読み所は「四・フランス革命と言語」と「五・母語から国家語へ」の二つの章だと私には思えた。これら二つの章は、言語文化のあり方の問題を介しての広い意味での近代批判(ポストモダン論議)にも実はなっているのだ。それほどの広い問題射程を有する本質議論の問題提起である。

本書の奥付(おくづけ)を見ると、著者の田中克彦は「1963年・一橋大学大学院社会学研究科修了、専攻・言語学、モンゴル学、現在・一橋大学教授」とある。著者は一橋大学社会学部出身であり、本新書執筆時には一橋大学教授の役職にある人であった。なるほど、一橋大学社会学部は、戦時のファシズム下で治安維持法で検挙されて当時の日本の国家に弾圧され、大学追放された経済学者の大塚金之助、そしてその大塚の弟子に当たる経済学者の高島善哉が戦後に尽力し創設設置した学部であった。ゆえに本学部出身者には「一橋社会学派」として、政治権力(国家)の介入統制を危険視して問題視する反権力で反国家主義を信条とする学問姿勢が昔から伝統的にあった。そのため政治権力たる国家が各地域に多様にあった言語を排斥し、一つの公的言語に強引に単一化してしまう文化抑圧統制という「ことばと国家」の問題について、「一橋社会学派」に属する著者の田中克彦が本新書のような書籍を上梓するのに私は非常に納得の思いがする。

また本書を読んで「ことばと国家」をめぐる政治権力による言語文化統制の暴力に対して、著者同様に相当に強い危機感を私は持つのである。