アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(448)多木浩二「戦争論」

今にして思えば、岩波新書の多木浩二「天皇の肖像」(1988年)は、さすがに名著であった。

視覚上位の近代の時代において「見る・見られる」の人的関係に「支配・被支配」の権力支配の構造を見切って、しかもその視覚にまつわる権力現象を、近代日本の天皇制国家成立期での明治天皇の肖像写真たる「御真影」(ごしんえい)の各学校への下付という具体的歴史事実に落とし込み、「御真影」に託された政治的意味を「権力の視覚化」という観点から実に見事に読み解いてみせたのだった。明治天皇の肖像写真たる「御真影」の各学校への下付や、明治天皇の各地への行幸にて天皇を国民に広く、しかも荘厳や神聖さを演出しあえて見せるといった「権力の視覚化」というテーマは、近代日本史研究や通常の政治学にて現在でこそ一般的なものとなり誰もが思い至ることであるが、当時1980年代には、それなりに新たな視点というか、「天皇の肖像」たる「御真影」から「権力の視覚化」という近代の政治権力の問題を見事に摘出してみせた多木浩二の着眼と力量に、少なくとも私は非常に驚き感心したのだった。

そうした名著の「天皇の肖像」を以前に岩波新書から出していた多木浩二による、同じく岩波新書から出された今般の「戦争論」(1999年)である。本書の概要は以下だ。

「すさまじい暴力と破壊の爪痕を人類の歴史にのこした2つの世界大戦。そして今なおつづく内戦、民族紛争…。二0世紀とはまさに戦争の世紀だった。世界はなぜ戦争になるのか?われわれは戦争という暴力をどのように認識し、いかなる言葉で語るべきなのか?新たな思想的枠組みを探り、二0世紀をとらえかえす歴史哲学の探究」(表紙カバー裏解説)

本新書は「戦争論」の大雑把なタイトルではあるが、帯を見ると「暴力と破壊の20世紀をいかにとらえかえすか」とあり、本書は「戦争論」とは言っても20世紀の「近代の戦争」に限定集中した、特に本書の刊行が1999年という世紀末の節目に当たることから1901年から2000年までの100年の間に起こった20世紀の戦争(「第一次世界大戦からユーゴ空爆まで」)に関する論考である。しかも、各戦争についての個別具体的な詳細記述ではなく、それら20世紀の戦争群から「近代の戦争」の新たな傾向や戦争の本質問題を考えるような政治哲学的考察になっている。

私が読む限り、本新書は「近代の戦争」における、例えば総力戦体制や全体主義や排他的な自民族中心主義(「民族浄化」の思想)の問題、兵士や軍事的対象のみならず、非戦闘員である都市の一般市民らに空爆ら無差別攻撃を加え一掃殲滅(いっそう・せんめつ)しようとする「あらたなタイプの戦争」だとか、生物化学兵器と核兵器ら非人道的な大量殺戮兵器使用へのエスカレートや、帝国主義的覇権をめぐって大国が自身は非戦闘地の安全地帯に居ながら、進出の各地域で現地の小国に暗に仕向けて前線で戦争をやらせる「代理戦争」や、自国民への愛国心の喚起と国民徴兵、と同時に敵対国に向けての憎悪の形成といった近代国家による政治的扇動らの各話題に本論にて幅広く触れている。

かつての近代以前の戦争では、どこか遠方にて勝手に軍隊同士の軍事衝突が始まり、やがては終結して一般の人々は戦争に対し無関心でいられたが、「近代の戦争」において人々は、もはや戦争に無関心であることは許されない。空爆ら非戦闘員をも巻き込む無差別的な都市爆撃、生物化学兵器と核兵器の使用、「民族浄化」などの名のもとに地域住民に直接に加えられる戦時暴力、国民徴兵の実施や、メディア・公的教育を介し人々は自国の戦争経過に一喜一憂して、自分の国が戦勝した際にはまるで「自分自身が勝った」かのように喜ばなければいけないのであった。戦争の暴力が一般の人々にまで広く深く露出し、人々は決して戦争から逃れることは出来ない。そういった「20世紀の戦争の世紀」に私達は生きているのだ。

岩波新書の赤、多木浩二「戦争論」は、考察内容は「それなり」の妥当なものだが、以前の「天皇の肖像」とは異なり、読んで私が多少不満に思うのは、著者の書きぶりが私的なエッセイ風文章であり、厳密な政治哲学的考察や筋道立てた概論的な硬派な学術的文章とはなっておらず、ゆえに真っ当な論述考察から逸脱した「反戦平和への思い」や「アメリカ帝国主義批判」や「先のアジア・太平洋戦争での日本の戦争責任」に関する書き手の多木浩二の過剰な思い込みと主観的希望を時に読まされる箇所も多い。これも、そもそもの著者の多木浩二その人が東京大学文学部美学美術史学科出身の美術史専攻の人であって、美術評論や写真論を主に手掛け、政治学そのものや国際政治や世界史を専門にやってきた人ではない問題に由来しているように私には思えた。

なるほど、以前に多木浩二が「天皇の肖像」を執筆し、天皇の肖像写真たる「御真影」の政治的道具の即物や、全国各地を天皇が視察してまわる「行幸」という政治行為のイベントに「権力の視覚化」の近代政治の問題を鋭く見出せたのは、写真論ら人間の視覚や現象学の哲学についての問題意識と美術史の前仕事の蓄積が氏の中にあったからであった。多木浩二は必ずしも政治学や国際政治や世界史を専門に本格的に学んだ人ではない。その辺りの欠落が、岩波新書「戦争論」での私的エッセイ風で取りとめのない、ややもすれば漠然とした著者の書きぶりとなって出ており、そこが以前の多木浩二の岩波新書「天皇の肖像」と比べ、本作「戦争論」が一読して「あまり出来が良くない」と私には感じられてしまう理由である気もする。