岩波新書の青、武田泰淳「政治家の文章」(1960年)で取り上げられている近衛文麿の概要はこうだ。
「近衛文麿(1891─1945年)。五摂家筆頭、公爵。貴族院議長から首相に就任。組閣3回。後藤隆之介を中心とする学者・官僚の昭和研究会の支持を受け、東亜新秩序建設・新体制運動を推進。大政翼賛会を創設。戦後、戦犯指名を受け自殺した」
近衛文麿の評伝や研究を読む限り、「近衛は誠に無能で駄目な政治家だ」とよく評される。確かに近衛文麿は出自のしっかりした由緒ある正統高貴な家柄と貴族のプライドを兼ね備えたエリートであり、それゆえ得体の知れぬ世評の大衆人気があったけれど、しかし当の近衛は思いつき、悪物食い(異色の人物を好む)、目立ちたがり、移り気、八方美人、優柔不断、無責任、飽きっぽい、中途の投げ出しなど、政治家としての胆力とリーダーシップが決定的に欠けていたといわれる。だが、そうした世間一般の近衛評価を抜きにして近衛文麿に関する史料を偏見なく無心に読んでみると、「政治家として実はそこまで無能で駄目な人物でなかったのでは」の感慨も率直に私は持つ。
日米開戦直前の1941年10月、近衛の手記に次のような記述がある。対米開戦の決定を強硬に迫る陸相・東条英機との会談にて、東条が「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と言ったのに対し、首相の近衛は「個人としてはそういう場合も一生に一度や二度はあるかも知れないが、二千六百年の国体と、一億の国民のことを考えるならば責任の地位にあるものとして出来るものではない」と答えたという。
太平洋戦争末期の1945年2月、戦争の早期終結と終戦工作の緊急性を進言した「近衛上奏文」に際し、昭和天皇が「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と発言したのに対し、近衛は「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか」と天皇をたしなめた。近衛の時局認識では、もはや日本の敗戦は必至で、さらに軍内部での共産化の不穏な動きがあることを近衛は憂慮していた。それでも昭和天皇は戦局に楽天的かつ強気で直近の沖縄戦も非常にやる気であり、近衛上奏文を受けて昭和天皇は、「近衛は極端な悲観論で、戦を直ぐ止めたが良いと云う意見を述べたが、私は陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦を止めるのは適当ではないと答えた」と後に回想している。
これらの話からしても近衛文麿は、そこまで無能で駄目ではない。むしろ救われない程に無能なのは、日米開戦の政治決定にあたり「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りる覚悟で」云々の出たとこ勝負の無責任極まりない東条英機、そしてサイパン陥落後の沖縄戦間近の日本の敗戦が濃厚な事態で、この期に及んで「もう一度、戦果を挙げてからでないと」と戦争継続を言い張る昭和天皇の方であったと強く思える。ところが世間の人は案外いい加減で、東条英機や昭和天皇に対し「立派な」軍人や「尊敬すべき」君主の高評価の擁護がある一方、近衛文麿に対しては「無能で駄目な政治家」という低評価が衆人の世評にて一致する所なのであった。確かに近衛文麿に関しては、彼を評価し褒(ほ)めるよりは毀損(きそん)し落とす方が、近衛文麿の評伝や研究にて記述の安定感が出ることは否(いな)めない。私は「案外、近衛は有能である、少なくとも東条や昭和天皇よりはまともだ」と思うが、近衛の本当の姿はともかく、なぜか近衛文麿は「いかにも無能で駄目な政治家」の烙印(らくいん)記述が似合ってしまう誠に気の毒な人物なのである。
由緒正しい五摂家筆頭の家柄に生まれた近衛文麿は若き貴族政治家として政界に登場し、昭和に入って三度組閣し政局を担当した。近衛文麿は、父・篤麿が日英同盟締結後に対露同志会の会長を務めて対露強硬の主戦論、日露戦争の開戦を煽(あお)った父親のナショナリスト気質を継承し、「米英本位の平和主義を排す」として第一次世界大戦後の米英による東アジア・太平洋地域の集団安全保障体制に自国の日本の利益を憂慮する立場から不満を抱いていた。そういった「心情右翼」の側面から近衛は右派や軍部につけ込まれ利用されていく。軍部は近衛の世上人気が高いのを利用して、彼を政権につけ彼を傀儡(かいらい)にして軍の欲するところを得ようと考えていた。
他方、そうした右派や軍事の暴走を抑えたい天皇側近の宮中グループからも近衛は同様に政界の「新星」として期待をかけられていた。かねてより近衛の政界進出を期待し、彼の大成を強く望んでいたものに元老の西園寺公望がいた。公家出身で立憲政友会総裁となり、明治末からいわゆる「桂園時代」を牽引(けんいん)し度々組閣した西園寺公望は宮中グループに属し、大正後期以降はただ一人の元老として立憲政治の保持に尽力した。大正から昭和の時代にかけて、まず「最後の元老」たる西園寺からの後継首班の奏薦を内々に受け、後に正式に天皇より内閣組閣の勅命が下る(大命降下)システムにあって、軍部の暴走を抑えるための「切り札」として、血筋の点でも容姿の面でも知性の面でも国民人気の点でも優れている近衛を西園寺は首相に推さざるを得なくなっていた。もう近衛文麿以外に、軍部の政治介入を抑制しうる適当な人物がいなかったのである。
文字通り、近衛は「担(かつ)がれる神輿(みこし)」であった。近衛は右派・国粋主義の軍部と立憲リベラルの宮中グループの両陣営から「誠に使い勝手よく」利用されることになる。
内閣組閣後の近衛は、陸軍をほとんど抑制出来ず、軍内部の対外強硬論に同調・加担して不拡大方針は段々と崩れるに至り、大陸での日本軍の挑発姿勢は強まり戦火の拡大は止まることを知らず、当の近衛自身も「どうもまるで自分のような者はほとんどマネキンガールみたいなようなもので、軍部から何も知らされないで引張って行かれるんでございますから、どうも困ったもんで、まことに申訳ない次第でごさいます」と天皇に奏上したり、「陸軍部内の意見というものは一体何処から生れて来るものであるかは余も判らず、正体無き統帥の影に内閣もまた操られ、…もうロボット稼業はホトホト嫌になりましたよ」と周囲に漏(も)らすあり様であった。彼は、もはや自らを「マネキンガール」や「ロボット」と卑下する他なかった。首相の近衛は軍部の前で全くのお手上げ状態であった。
近衛に軍部暴走の抑制の役割を期待して組閣の奏薦をした元老の西園寺からも、近衛の軍部への弱腰同調に対し「問題にならんじゃないか。とにかく困ったもんだ。一体近衛には相当な見識があると自分は思っておったが、何にも自分自身に考がないような風に見える。それは困る」だとか、「ああいう人物でああいう家柄に生れて実に惜しいことだと思う。なんとか近衛をもう少し地道に導く方法はないだろうか。…近衛のやり方をみると、なにか使用人みたような気持ちで働いているようだ。もう少し国政にみずから任ずる自信を持って欲しい。いかにも奉公人のような気でやっているようでは、とても駄目じゃないか」。首相となった近衛は西園寺を失望させた。近衛は西園寺から散々な言われようであり、半(なか)ば匙(さじ)を投げられた形であった。
これら近衛自身の「どうも自分のような者はほとんどマネキンガールみたいなようなもので」「もうロボット稼業はホトホト嫌になりましたよ」の自虐的発言や、西園寺の近衛に対する「問題にならんじゃないか。とにかく困ったもんだ。一体近衛には相当な見識があると自分は思っておったが」云々のボヤきは、近衛文麿の評伝や研究にて昔から定番引用されるものである。近衛文麿の本当の姿はともかく気の毒ながら、やはり、この人は「いかにも無能で駄目な政治家」の烙印記述が似合ってしまう所がある。戦中の近衛の三度の組閣を経て日本が敗戦を迎えると、近衛文麿の戦犯問題が持ち上がってきた。戦時の近衛人気とは逆に、世上にて近衛の戦争責任を問う議論が活発になっていった。近衛は日中事変の責任者、日米戦争の参画者と見なされ、彼は連合国側から戦争犯罪人容疑者に指定された。近衛は、しかし極東軍事法廷に被告人として裁かれることをこの上なき屈辱とし、拘留前夜に毒を仰いで自決した。
岩波新書「政治家の文章」にて、近衛文麿について述べた章は第四章の「ある不思議な『遺書』」と第五章の「近衛の『平和論』」である。本書に掲載されている「ある不思議な『遺書』」とされる近衛文麿の絶筆が書かれた前後の様子はこうだ。
1945年12月6日にGHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが最終的に決定した。巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日の拘留前夜、近衛の自殺の気配を察した夫人や長女は15日の夜遅くまで寝室に出入りしており、次男の通隆だけは最後まで退室せず16日の午前2時頃まで父と話し合っていた。次男・近衛通隆の手記によると、
「夜半を過ぎていた。深閑と寝静まった雰囲気の中で、私は父と対談する機会を得た。…『明日は(巣鴨へ)行って下さいますね』と父に問いかけた。だが父は黙っている。沈鬱な、そしてなかば私を非難するような、一種異様な面持ちであった。私は、いまだかって、父がこんな厭な顔をしたのを、見たことがなかった。…『なにか書くものを』と父が言葉少なに言った。私の差し出した用箋の上に、父は淀みないペンを走らせた。『字句の整ったものではないが、僕の今の気持ちはこうだ』と言いながら、私に示した文字が、私にとってもまた家人にとっても、最後の書置きらしい父の言葉となったのである」
そうして16日未明、近衛文麿は青酸カリを服毒し自殺した。近衛の死が発覚したのが午前6時、絶筆のいわゆる「遺書」を次男の前で書いて手渡したのは、おそらく16日の午前1時頃とされる。以下、近衛文麿の絶筆である「政治家の文章」を引こう。なお近衛の文章には句読点が打たれていなかった。
「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した 之に対して深く責任を感じて居るが 所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪へ難い(事である) 殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ此事変解決を最大の使命とした そして此解決の唯一の途は米国との諒解(の外なし)にありとの結論に達し日米交渉に全力を尽したのである その米国から今犯罪人として指名を受ける事は誠に残念に思ふ しかし僕の志は知る人ぞ知る 僕は米国に於てさへそこに多少の知己が存することを確信する 戦争に伴ふ昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語と是等一切の所謂與論なるものもいつかは冷静を取り戻し(正)常に復する時も来やう 其時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されやう」
この近衛文麿の文章について、岩波新書「政治家の文章」にて著者の武田泰淳は「ある不思議な『遺書』」として様々に分析評価して書いている。私は武田の評論とは別に、近衛文麿の絶筆の「政治家の文章」は駄目なものだと思う。「支那事変の解決を最大の使命とした」とか「日米交渉に全力を尽した」とか、「自分としてはこれほど戦線拡大の防止に努め工作努力したのに、なぜ私が巣鴨拘置所に出頭し極東軍事裁判で戦犯として裁かれなければならないのか」拘留前夜の近衛文麿の必死の私怨の恨み節である。
ここにはもう自分の事しかない。「戦時に内閣を組閣して戦争指導し多くの国民を戦禍に巻き込み非常に申し訳なかった」旨の一国の政治家としての公的態度の責任や反省は微塵(みじん)もない。皆無である。「支那事変も解決しようとしたし日米交渉にも全力を尽くしたのに、なぜその僕が米国から戦争犯罪人として裁かれなければならないのか。これは誤解と中傷に基づく裁判である。果たして、これが神の正義の法廷か!?」の近衛文麿の私怨しかない。私は読んで誠につらい、お粗末な「政治家の文章」である。