アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(226)武田泰淳「政治家の文章」(その4 重光葵)

今回は岩波新書の青、武田泰淳「政治家の文章」(1960年)で取り上げられている重光葵について書いてみたい。

「重光葵(しげみつ・まもる)(1887─1957年)。外交官、政治家。戦前の東条・小磯内閣、戦後の東久邇(ひがしくに)・鳩山内閣の外相。1945年、横浜沖の米戦艦ミズーリ号上で日本政府代表の全権として降伏文書に調印。それから戦犯として服役後、改進党総裁。保守合同後、自民党に入党。日ソ交渉に活躍」

重光葵は元は外交官である。外務省に入省後、ドイツやアメリカの各国にて日本国公使として勤務し、1930年に駐華公使となる。翌31年、日本陸軍の一部が突如満洲を制圧しようと満州事変を引き起こし国際問題となり、これに対し重光は武力衝突よりも外交による協調路線にて事態を収めようと奔走した。その後、駐ソ公使(張鼓峰事件の処理に関与)、駐英大使を歴任。特に日英関係が悪化する中での関係好転や蒋介石政権への援助中止要請に尽力する一方、ヨーロッパ情勢に関して多くの報告を本国に送っており、彼の情報は非常に正確なものであったという。その重光が「欧州戦争に日本は絶対に介入してはならない」と再三、東京に打電したにもかかわらず政府は聞き入れず、1940年、第2次近衛内閣が日独伊三国同盟を締結しアメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまう。翌41年、いよいよ日米開戦となり太平洋戦争が始まる。日本は東南アジアの欧米の植民地を占領。重光はこれに対し、「日本はいやしくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができないから」の旨を後に語り、激怒している。

重光葵の外交政治の立場は、外交官時に付いていた広田弘毅の「協和外交」(広田は1933年の斎藤実内閣の外務大臣に就任時、「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と発言していた)、さらにはその広田が外交官時に付いていた幣原喜重郎の「協調外交」を継承するものであった。そうした意味で、戦前昭和の日本の協調外交の伝統として「幣原喜重郎─広田弘毅─重光葵」の線が、宮中や議会とは別に明白に外務省内にあった。

そもそも「協調外交」とは強硬外交に対立する外交立場であり、日本の大陸進出に際し英米との武力的対立を避け、中国に対しては内政不干渉方針をとる外交政策をさす。その上で経済的には中国市場の拡大と満州の特殊利益の維持をはかる政策立場である。ゆえに武力衝突を回避し、どこまでも宥和政策による外交努力を通して国益成果を挙げようとする協調外交は、大陸にてやたら武力行使の戦争をやりたがる当時の軍部や右翼からは弱腰の軟弱外交と嫌われ、徹底的に攻撃された。

しかし、それとは対照的に戦前の日本の協調(協和)外交は、英米との武力衝突を回避して欧米列強諸国のアジア進出にて相互のルールを守る分別ある、いわゆる「穏健な帝国主義」として戦後に戦争責任を追及する文脈において戦勝国の連合国側、特に英米には印象はよかった。昭和初期に若槻・浜口内閣にて外相を務め協調外交を推進した幣原喜重郎は、戦時の強硬外交のなか「忘れられた昔の人」であったが、それが戦後に返り咲きアメリカの占領統治下にて幣原内閣を組閣できたのは、幣原が「幣原外交」とも称される協調外交を以前に進めたその人だからであった。ただし幣原が終戦直後首相に就任した際には、「幣原さんはまだ生きていたのか」という声もあり(笑)、幣原を米国に強く推した外交官の吉田茂から「次期首相は幣原」と聞かされたマッカーサーは、「えらく年寄りだな、英語は話せるのか?」と言って吉田を苦笑させたという 。

重光葵も幣原外交に準ずる協和外交を推進した外交官、後に外相であり、アメリカの重光に対する評価は決して悪くはなかった。事実、重光葵も、幣原喜重郎が戦後に米国占領統治下にて内閣組閣を命じられたのと同様、敗戦直後の東久邇(ひがしくにのみや)内閣にて外相を務め、日本代表の全権として重光が降伏文書に調印している。

だが他方で、重光葵にも英米主導のアジアの帝国主義的領土分割に対する不信や、白人至上主義によるアジア人差別の問題への不満もあった。またこの人は、日本の国力を冷静に見極めて物量で圧倒的大差のある英米との無駄な武力衝突を避ける外交判断や、人道的見地から無用な戦闘は慎むべきの発言もあり、その点では非合理かつ無計画に強引に戦線拡大をして常に戦争をやりたがる軍人や右翼の活動家とは一線を画し、ある意味、開明的で優秀ではあったけれど、これが戦前生まれの戦前に教育を受けた日本人の限界なのか、伝統的な日本の天皇や国体に尊崇の念を抱いて安易になびいてしまう所もあった。

重光葵は実は右脚がない。駐華公使就任時、上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮独立運動家の爆弾攻撃に遭い、重傷を負ってしまう(上海天長節爆弾事件、1932年)。結果、右脚切断手術に至る。爆弾が投げつけられた際、重光が逃げず、そのことが重症につながったのだが、逃げなかったことに関し「国歌斉唱中だったから」と重光は答えている。爆弾が飛んできても国歌斉唱時に直立不動を貫くというのは、いかにも戦前昭和の昔の日本人らしいと、ある意味、私は感心する。この人は外交官や外相の政務時にはスーツの正装で義足をはめていたので分からなかったが、後の巣鴨拘置所内での写真を見ると確かに重光は片足で松葉杖を常に携えている。

1945年に日本は敗戦を迎え、やがて連合国による極東国際軍事裁判が始まる。前述のように戦時の外交にて英米との協調路線に努めた重光葵は、戦後の東久邇内閣の外相に就任しており、連合国との降伏文書に日本全権として署名の重責を果たしたことからも分かるように、英米の連合国側から印象よく扱いもよかった。敗戦直後のある時期までは、同じく戦前に英米との協調外交を進め、戦後に内閣を組閣した幣原喜重郎と同等の扱いであった。しかし、ソ連の検事が戦時の東条・小磯内閣にて外相を務めていた重光葵をA級戦犯として起訴するよう強硬に要求し、当初GHQは重光を戦犯として起訴する意思は皆無でアメリカ側検事団も強く反対したが、「要求を受け入れられないのなら裁判に参加しない」というソ連側の揺さぶりに屈する形となり、マッカーサーも要求を容認せざるを得なくなった。結局、重光葵は勾留・起訴され有罪、禁錮7年の判決を受けた。A級戦犯28名に対し絞首刑や終身禁錮の判決が多いなか、重光の禁錮7年という判決はA級戦犯の中では最も軽いものであった。

当の重光葵にとっても、戦時は強硬外交の軍部と一線を画して協和外交の推進に努め、戦後の東久邇内閣にて外相に就任し連合国との降伏文書調印の重責を負った自分が、まさかA級戦犯で勾留され起訴されるとは思ってもみなかったに違いない。重光には、まさに青天の霹靂(へきれき)であったはずだ。そのため、巣鴨拘置所にて在留中に執筆された重光葵の「巣鴨日記」を読んでいると、「自分は確かに戦犯として逮捕・拘留・起訴されたが、周りの戦時に好戦的であった戦争指導者、特に軍人らと自分は違う」とする重光のプライドが随所に強く感じられる書きぶりとなっている。同じく勾留・起訴されながらも、「私はお前ら戦争指導者の軍人とは違うのだ」の重光葵の怒りの筆致が「日記」から読み取れるのである。

岩波新書「政治家の文章」にて、重光葵について述べた章は第六章の「A級戦犯の『日記』」である。著者・武田泰淳の「巣鴨日記」を通しての重光葵に対する人物評を、まずは引こう。

「重光は、この在獄中に『巣鴨日記』と『昭和の動乱』を書いている。量、質ともにこれだけの著書を、獄中で書きあげるのは、まことに容易ならざる仕事であって、この二種の著作をよんだ私のいつわらざる印象は、まず重光葵なる著者が、なかなかのしっかり者、意志も体力も強い男であるということであった。途中であきらめたり、投げだしたりしないで、冷静に考えるだけでなく、その考えを持続させて行く人間であるということであった」

そして以下が重光葵「巣鴨日記」にてよく引用紹介される、日本の軍国指導者の拘置所内での奔放な振る舞いである。

「日本人の非社会性は、巣鴨では遺憾なく陳列されて居る。この点では、日本人として考へさせられることが多い。水やパンの事だけではない。何をしても人を押しのけて我れ勝ちで、風呂に入るのもさうだ。共同に使ふ清い上り湯に自分の手拭を突つ込む位は平気で、共同風呂の中で髭(ひげ)をそつたり、石鹸のついた頭を洗つたりして、監視兵に叱られる。不作法に我勝ちに他を排(お)しのけて行く遣り方は、軍人ほどひどい。軍隊生活では斯様に教へてあるのかも知れぬ。廊下でもどこでも、煙草の吸がらを捨てる。ツバキは到る処に吐く。遊歩の時に半裸体になつて妙な服装をするのはまだしも、庭の一隅に代り代り行つて直ぐ小便をやる。監視兵の顔は、軽蔑の表情にみたされる。こちらは平気である。別に心から不作法と云ふ訳ではない。結局、日常生活、習慣の上に社会性がないと云ふ訳である。七、八十になつて最早や如何することも出来ぬ。然(しか)し、更に若いものも大同小異である」

私は昔、この重光葵の「政治家の文章」を読んだ時、にわかに信じられない思いがした。一国の権力者の政治指導者が「共同風呂で不作法に我勝ちに他を排しのけて行く。廊下でもどこでも煙草の吸がらを捨てる。ツバキは到る処に吐く。遊歩の時に庭の一隅に代り代り行つて直ぐ小便をやる」のような小児な行動に出て監視兵に日常的に叱(しか)られているとは、驚愕の嘲笑の軽蔑の思いである。

以前に、丸山眞男「軍国支配者の精神形態」(1949年)という論文があった。ドイツのナチスの戦争指導者と比較して、日本の天皇制ファシズムの軍国支配者は、政治権力者としての個人の自覚や責任意識が何らなく、国家の集団組織の特権の権威の傘の下に隠れて無自覚に権力行使の戦争指導をやるから、事後にその責任を個人として問われ追及された時に狼狽(ろうばい)してしまう。ナチスの戦争指導者のような、「確かに自分は人道的悪の戦争行為に身を染めた」の反省や進んで責任を取ろうとする態度が皆無である。日本の軍国支配者は軍事裁判の法廷にて青ざめたり、突如泣き出したり、果ては互いに責任の擦(なす)り付けをやり法廷で仲間を叩いて喧嘩し出したりする。日本の戦争指導者はいい歳をした大人であるのに、まるで未成熟な小児である。そうした丸山眞男「軍国支配者の精神形態」にて指摘考察されていた日本の戦争指導者の小児性、矮小性の酷さを岩波新書の青、武田泰淳「政治家の文章」にある重光葵「巣鴨日記」を読むたびに私は再確認し、かつての日本の軍国支配者たちと彼らが指導した日本の一連の戦争を馬鹿らしく思ってしまう。