アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(273)原彬久「吉田茂」

岩波新書の赤、原彬久(はら・よしひさ)「吉田茂」(2005年)は、同赤版の「岸信介」(1995年)に続く著者による戦後日本の政治家評伝である。最初に吉田茂の概要を確認しておくと、

「吉田茂(1878─1967年)。東京生まれ。武内家から吉田家へ入る。戦前は外交官。鳩山一郎追放のあとを受け、1946年5月から54年12月まで日本自由党・民主自由党・自由党総裁。その間、延べ7年間政権を握り対米協調政策を堅持。平和条約締結で独立を回復」

私は、戦後日本の政治家の中では吉田茂は好きな方である。この人は出自がしっかりしていて家柄もよく、経済的に裕福であって、ゆえに学識教養もあり高踏余裕な所があった。吉田茂には三人の「父親」がいる。実父の竹内綱(つな)、養父の吉田健三、岳父(妻の父のこと。つまりは義父)の牧野伸顕(のぶあき)である。

竹内家は元は土佐藩重臣の伊賀家の家臣で明治藩閥政府と密接なつながりを持ち、竹内綱は明治維新を経て炭坑事業や鉄道経営に乗り出し「政商」として、同郷・土佐で三菱財閥創始者の岩崎弥太郎とともに実業家の成功を収めた。他方、吉田家は福井出身で吉田健三はヨーロッパ留学を経て、国内にて学校や新聞社経営、生糸買い付けから兵器輸入まで手広く扱う輸入商社など、各種事業を多くこなして莫大な利益をあげた。吉田健三が子宝に恵まれなかったため、懇意であった竹内は吉田に対し前々からの「次に生まれる赤ん坊が男子であれば養子にあげる」の約束を守って、3歳になる直前に竹内綱の五男・茂は吉田健三の戸籍に移り、吉田家の養子となった。そうして茂が11歳の時に養父の吉田健三は40歳の若さで早世してしまう。そのとき養父の吉田家の財産を茂は相続した。当時で50万円、現在の貨幣価値にして数十億円に相当する。それから吉田茂は経済的に裕福な環境下にて学を修め、幾つかの学校遍歴を経て学習院大学科に進学し卒業して外交官になった。

昔は日本社会全体が貧しかったから相対的に、裕福な人はどこまでも飛び抜けて裕福なのである。吉田茂は戦後の首相就任時には、ふくよかな容姿で葉巻をくわえ、欧米メディアから「和製チャーチル」と評されることもあった。この人は大の葉巻好きで知られ、戦中・戦後の輸入自体が不自由な時代にも戦前に大量に買い溜めしておいた本場物のハバナを吸っていたほどである。また吉田は自家用車でも貴族趣味を極め、駐英大使時代の愛車、ロールス・ロイスを帰国時に日本に持ち帰り戦時中も外車を手離さずに所有した。晩年に吉田が過ごした神奈川の大磯の吉田邸は豪荘な居構えで知られる(吉田邸は2009年に火災で全焼したが、寄付金により再建され2017年大磯町郷土資料館別館として公開されている)。

昔の資産家は今の成り上がりの金持ちと比べて金銭的にはるかに豊かだが、生まれながらの家系の資質で精神的にも余裕があり高踏である。それゆえ時に不遜(ふそん)で一般大衆や労働者を「庶民」としてあからさまに見下す愚民観も持ち合わせていた。吉田茂もこの点で例外ではなかった。吉田には横柄で不遜な所があった。戦後の労働組合のストライキ、二・二一ゼネスト(1947年)の際には、労働者に対し「かかる不逞(ふてい)の輩(やから)」と言い放った。サンフランシスコ講和会議(1951年)の前には、「学者風情に何がわかる」とばかりに全面講和を主張する学者に「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒が」と発言した。ある演説会に際してカメラマンのしつこい撮影に激怒し、壇上からコップの水をかけた。国会審議で質問者に「バカヤロー」と言い、その暴言が衆議院解散につながった(「バカヤロー解散」1953年)。

ところで、敗戦直後から主権回復までの占領統治下の日本の内閣は連合国軍最高指令官総司令部(GHQ)の、なかでもアメリカの意向を大きく汲(く)んだものだった。戦敗直後に首相となり内閣を主宰し組閣できる条件は、

(1)戦前に反軍国主義の姿勢をとり、軍部に抵抗した実績があること。(2)戦後に天皇制護持と反共の立場に立ち、冷戦体制下にて共産主義国陣営のソ連ではなく、資本主義国陣営のアメリカに追従する日米同盟体制の施政が取れること。

以上の2つであった。思えば敗戦直後に幣原喜重郎が幣原内閣(1945─46年)を組閣できたのも、戦前の昭和初期に幣原は「幣原外交」と呼ばれる協調外交路線での反軍部の外交政策を、戦後の米英の連合国側に高く評価されての政界への返り咲きであった。戦時には各地での戦線拡大を強引に進める強硬政策の軍部の台頭により、大陸での米英との武力衝突を避ける幣原の協調外交は軟弱の弱腰外交と見なされ、幣原は冷遇され国政から遠ざかっていたのである。

同様に吉田茂も、戦前には外交官として日本の大陸侵出の膨張政策に加勢したが、この人にも「戦時に軍部に抵抗した」実績があった。前述のように吉田茂の岳父は、「維新の三傑」の大久保利通の子で政治家の牧野伸顕であり当時、親米英派の代表格と目されていた牧野は二・二六事件(1936年)にて軍の青年将校らに襲撃されるも、すんでのところで一命を取り止めた経験があった。このことから牧野も吉田も一応は「軍人嫌い」であったのだ。また、太平洋戦争開戦前夜に米国のジョセフ・グルー駐日大使と吉田は頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、その後、日本の敗戦が濃くなると天皇へ戦争終結を進言する「近衛上奏文」(1945年)の終戦画策の実績も吉田にはあった。

こうした「戦時に反軍部であった」勲章要件に加えて、敗戦直後に組閣できるもう一つの条件も吉田茂は備えていた。吉田はその政治的立場からして反共の親米であり、保守で天皇制護持論者で天皇への戦争責任追及を回避し昭和天皇の退位をどこまでも阻止しようとした。終戦後の米ソ冷戦対立下にて、天皇制を温存させながら自国の西側陣営に日本を引き入れようとするアメリカの外交政略の思惑に、そうした吉田茂の政治の立ち位置は見事に見合っていた。だから、戦後日本の吉田内閣はアメリカにとって誠に都合がよかった。ゆえに長期の政権運営を結果的に吉田茂はできた。

もともと吉田茂は戦後に首相の座につくつもりはなかった。幣原内閣が総辞職の際、幣原は参内し鳩山一郎を後継首班に奏請。鳩山はただちに組閣準備に入ったが、しかし、ロンドン海軍軍縮条約調印をめぐる統帥権干犯問題(1930年)と言論弾圧の滝川事件(1933年)での、戦前の軍国主義台頭への鳩山の協力が連合国側に問題視され、突如GHQから鳩山一郎を公職追放する旨の指令が送付される。そのため鳩山は組閣できず、最初の鳩山内閣は成立直前で流産した。つまりは先の「戦敗直後に首相となり内閣を主宰し組閣できる条件」にての、(1)の「戦前に反軍国主義の姿勢をとり、軍部に抵抗した実績があること」の項目を鳩山一郎は満たしていなかったのである。

それで鳩山から直々に吉田が後継指名を受けて、当初は固辞していた吉田茂が組閣することになった。その際、吉田は「辞めたくなったらいつでも辞める」の宣言をして総理の座を引き受けたという。吉田茂は中途に退陣をはさみ第1次から第5次まで(1946─54年)組閣し、延べ7年間政権を握り対米協調政策を堅持。第3次吉田内閣下でのサンフランシスコ平和条約締結(1951年)にて日本は主権を回復した。

岩波新書の赤、原彬久「吉田茂」を始めとして吉田に関する評伝や研究を読んでいつも私が痛感するのは、GHQ草案を踏まえた日本国憲法の制定・施行(1946年)から日米間の軍事同盟である日米安全保障条約の締結(1951年)から、朝鮮戦争を経てのMSA協定での自衛隊設置(1954年)の反動の再軍備、いわゆる「逆コース」に至るまで、連合国側の特にアメリカの意向を汲んで実に見事なまでに対米追従を歴代の吉田内閣が貫いたことである。「吉田茂の吉田内閣は、アメリカにとって誠に使い勝手のよい敗戦後の日本の総理であり、長期政権であった」という感慨に尽きる。また、鳩山内閣が流産したことで吉田自身が強く望まない中での戦後に第1次吉田内閣を組閣したのは、吉田茂が68歳の時であった。その後75歳まで吉田は総理の重責を務めた。敗戦の時点で60代後半とは吉田茂は年を取りすぎである。「この人は早くに生まれすぎた。戦後の初組閣時にもう少し壮年で若ければ」と吉田茂に対し、いつも私は思わずにいられない。

最後に吉田茂に関し、森繁久彌が吉田茂に扮して主演した映画「小説吉田学校」(1983年)を私は強く推薦する。何よりも森繁久彌の容姿が実際の吉田茂にそっくりだし、高踏余裕で時に横柄不遜な吉田の精神も森繁は劇中にて見事に体現しており、圧巻である。