まずは近衛文麿の生涯の概略を記しておこう。
「近衛文麿(1891─1945年)が生まれたのは明治二四年、わが国に初めて立憲政が実施された翌年にあたる。五摂家筆頭の家柄に生まれた彼は、若き貴族政治家として政界に登場し、昭和に入ってやがてひらかれるわが国外交・政治の疾風怒濤(しっぷうどとう)の時代を背景に前後三たびにわたって内閣を組閣して政局を担当した。当時の彼は、正に時代の脚光を浴びつつ世の衆望をその一身に集めた観があった。昭和一0年代のこの時期は、その後の歴史の激動の結果今日では実際よりもはるかに遠い昔のように感じられる。さて、太平洋戦争における敗戦後、人心は全く一変した。近衛の戦争責任を糾弾する論議が世上に喧(やかま)しい中で、彼は連合国側から戦争犯罪人容疑者に指定された。近衛は、しかし極東軍事法廷に被告人として裁かれることをこの上なき屈辱とし、毒を仰いで自決した。彼は貴族としてのその誇りを死をもって守ろうとしたのであった」
私は昔から近衛文麿のことが気になっていた。率直に言って「近衛はいかにも気の毒で可哀想」という同情からくる親近の思いがあった。「敗戦後、…近衛の戦争責任を糾弾する論議が世上に喧しい中で、彼は連合国側から戦争犯罪人容疑者に指定された。近衛は、しかし極東軍事法廷に被告人として裁かれることをこの上なき屈辱とし、毒を仰いで自決した」。そうした近衛自決の最期を聞いて、昭和天皇は「近衛は弱いね」の旨の感慨を漏(も)らしたという。私は内心、昭和天皇に激怒した。
戦前の大日本帝国において、戦後社会と同様、天皇は物理的権力行使の権力主体ではなくて、どこまでも精神的権威の「神聖な」国体価値源泉の「象徴」であった。天皇みずから内閣を組閣して政局に乗り出したり、天皇みずから陣頭指揮をとって近衛師団以外の軍を直に動かすことは、まずない。実際に天皇を政治社会の政局や軍事の作戦指揮に関わらせることは、場合によっては天皇に政治的失策の責任を負わせる事態につながるからだ。天皇には政治的過失の誤謬(ごびゅう)があっては絶対にならない。だから、昭和天皇は内閣を組閣して政治に直接的に関与することはない。その代わり、五摂家筆頭という正統な家柄出自の近衛が実際に組閣して政局に当たった。貴族の正統な家柄を持つ近衛文麿の当時の国民的人気は、目を見張るものがあった。人々は天皇家近接の近衛文麿を昭和天皇と重ねて見ていたのであり、そこに当時の近衛人気の一因があった。近衛文麿は、その血筋のエリート性からいって天皇と立場は近い。しかも天皇とは違って内閣組閣も出来るし対国民宣伝にも直に気軽に利用しうる。国民一般からも軍部からも天皇側近の宮中グループからしても「誠に使い勝手がよい」近衛は、いわば昭和天皇のミニチュアのような存在であった。
敗戦後の連合国側の戦争責任追及の際も、アメリカを始めとする諸外国は昭和天皇のミニチュア的存在たる近衛文麿の「使い勝手のよさ」を踏襲した。日本国の戦争責任に関し、昭和天皇への追及を回避して、天皇を呼び出す代わりに近衛に戦後裁判の出廷を迫った。戦時の国内政治の組閣において、昭和天皇と近しい皇族地位イメージにあって、その上で天皇の代わりに内閣人事にて組閣ができる「誠に使い勝手のよい」近衛は、終戦後の敗戦処理にあっても天皇の代わりに「誠に使い勝手よく」最期まで便利に使い倒されたのであった。
戦前・戦中から昭和天皇は一貫して政局の矢面(やおもて)には立たず、終始大切に保護されて同様に敗戦後の戦争責任追及でも自身は体(てい)よく免責された。その代わりに天皇のミニチュアたる近衛が天皇の身代わりとなり戦中実務政治の方々の調停や試練、敗戦後の戦犯問題の後始末までした。そうした常に忖度(そんたく)され、後生大事に保護されて全ての責任を回避されていた自身の状況に昭和天皇は全く気づいていない。自分のスケープゴート(身代わり・いけにえ)であり、多大な被害を被(こうむ)る自身のミニチュア的存在たる近衛文麿へのすまなさ、後ろめたさ、配慮の気持ちも昭和天皇には皆無であった。ゆえに、近衛自決の最期を聞いて「近衛は弱いね」の感慨を漏らした昭和天皇に内心、私は激怒した。昭和天皇の「近衛は弱いね」の一言が残酷に思えた。そして「近衛はいかにも気の毒で可哀想」という同情からくる親近の思いが、近衛文麿その人に対し強く残った。
岩波新書「近衛文麿」の評伝を読むと分かるが、確かに近衛は出自のしっかりした由緒ある正統高貴な家柄と貴族のプライドを兼ね備えたエリートであり、それゆえ得体の知れぬ世上の大衆人気があった。しかし当の近衛は思いつき、悪物食い(異色の人物を好む)、目立ちたがり、移り気、八方美人、優柔不断、無責任、飽きっぽい、中途の投げ出しで政治家としての胆力とリーダーシップが決定的に欠けていた。これは近衛自身の悪癖や悪性でも何でもなく、単に近衛は人前に出て皆を指導したり、各所の要望を聞き調停して事態を前に進める対人的な交渉能力に欠けていただけのことである。彼の性格や資質からして、一国の首相を務めるリーダーの政治家に向いていなかった、本人気質と職種選択との不適合(ミスマッチ)の問題でしかない。
近衛文麿は若くして父を亡くし、すると父の生前にはあれほど近衛家に出入りしてチヤホヤし父の世話の恩義を受けた人達が、金銭問題で掌(てのひら)を返すように一変して近衛家に冷たく当たる姿を目の当たりにし、社会に対する反抗心が培(つちか)われた。また「学校に行っていても(友人たちは)表面は当り前に付き合っていても、自分が公爵だというので、どうも隔(へだ)てを置き、教授なども然り」といった深い孤独感、対人の不信の思いを終生抱いていた。だから近衛は後に京都帝大に進学、将来は栄爵を辞し、哲学を専攻して学者になりたいと考えていた。若き日の近衛は「其当時、世の中で一番俗悪なものは政治家、一番高尚なものは哲学者だと思い込んでいた」のでさえあった。やはり、この人は人間的資質や幼少時よりの成育環境からして元から政治家には向いていないのである。
しかし近衛文麿は、父・篤麿が日英同盟締結後に対露同志会の会長を務めて対露強硬の主戦論、日露戦争の開戦を煽(あお)った父親のナショナリスト気質を継承し、「米英本位の平和主義を排す」として第一次世界大戦後の米英による東アジア・太平洋地域の集団安全保障体制に自国の日本の利益を憂慮する立場から不満を抱いていた。そういった「心情右翼」の側面から近衛は右派や軍部につけ込まれ、利用されていく。軍部は近衛の世上人気が高いのを利用して、彼を政権につけ彼を傀儡(かいらい)にして軍の欲するところを得ようと考えていた。
他方、そうした右派や軍事の暴走を抑えたい天皇側近の宮中グループからも近衛は同様に政界の「新星」として期待をかけられていた。かねてより近衛の政界進出を期待し、彼の大成を強く望んでいたものに元老の西園寺公望がいた。公家出身で立憲政友会総裁となり、明治末からいわゆる「桂園時代」を牽引(けんいん)し度々組閣した西園寺公望は宮中グループに属し、大正後期以降はただ一人の元老として立憲政治の保持に尽力した。大正から昭和の時代にかけて、まず「最後の元老」たる西園寺からの後継首班の奏薦を内々に受け、後に正式に天皇より内閣組閣の勅命が下る(大命降下)システムにあって、軍部の暴走を抑えるための「切り札」として、血筋の点でも容姿の面でも知性の面でも国民人気の点でも優れている近衛を西園寺は首相に推さざるを得なくなっていた。もう近衛文麿以外に軍部の政治介入を抑制しうる適当な人物がいなかったのである。この期に及んで軍部の暴走抑制の対抗として近衛を推す以外にないとは、明らかに政治的人材の枯渇であった。
ここでも近衛は「担(かつ)がれる神輿(みこし)」であった。自身は政治に向いていないし、政治など本気でやる気は当人にはないのに、政界に引っ張り出されて右派・国粋主義の軍部と立憲リベラルの宮中グループの両陣営から「誠に使い勝手よく」利用されることになる。前者の右派・国粋主義の軍部では、二・二六事件以前の凋落する前の陸軍内部の皇道派や枢密院の平沼騏一郎らと親交があった。後者の立憲リベラルの宮中グループでは元老の西園寺公望が近衛の後見人となり、彼に組閣を求めた。
内閣組閣後の近衛は陸軍をほとんど抑制出来ず、軍内部の対外強硬論に同調・加担して不拡大方針は段々と崩れるに至り、大陸での日本軍の挑発姿勢は強まり戦火の拡大は止まることを知らず、当の近衛自身も「どうもまるで自分のような者はほとんどマネキンガールみたいなようなもので、軍部から何も知らされないで引張って行かれるんでございますから、どうも困ったもんで、まことに申訳ない次第でごさいます」と天皇に奏上したり、「陸軍部内の意見というものは一体何処から生れて来るものであるかは余も判らず、正体無き統帥の影に内閣もまた操られ、…もうロボット稼業はホトホト嫌になりましたよ」と周囲に漏らすあり様であった。彼は、もはや自らを「マネキンガール」や「ロボット」と卑下する他なかった。首相の近衛は軍部の前で全くのお手上げ状態であった。
近衛に軍部暴走の抑制の役割を期待し組閣の奏薦をした元老の西園寺からも、近衛の軍部への弱腰同調に対し「問題にならんじゃないか。とにかく困ったもんだ。一体近衛には相当な見識があると自分は思っておったが、何にも自分自身に考がないような風に見える。それは困る」だとか、「ああいう人物でああいう家柄に生れて実に惜しいことだと思う。なんとか近衛をもう少し地道に導く方法はないだろうか。…近衛のやり方をみると、なにか使用人みたような気持ちで働いているようだ。もう少し国政にみずから任ずる自信を持って欲しい。いかにも奉公人のような気でやっているようでは、とても駄目じゃないか」とか、「近衛公爵はこの際よくない。結局やっぱりロボットに終るようでは面白くない。当分誰が出ても結局ロボットかもしらんが、とにかく近衛はなお自重さした方がいい」。首相となった近衛は西園寺を失望させた。近衛は西園寺から散々な言われようであり、半(なか)ば匙(さじ)を投げられた形であった。
岩波新書「近衛文麿」を読むと「第5章・破局への道」にて、国内では近衛を始め駐米大使の野村吉三郎がアメリカ国務長官のハルとの日米交渉で開戦阻止に必死に尽力しているのに、すでに国際連盟脱退の協調外交破棄の強硬策に出て陸軍から一目置かれ、さらに欧州外遊にて日ソ中立条約を締結し、ヨーロッパでのナチス・ドイツの勢いに感化されて好戦衝動にて日米開戦にやる気満々の、近衛内閣下での外相の松岡洋右が帰国し、日本での日米開戦阻止の外交工作を前に松岡が、あからさまに不機嫌になる。そうした好戦的な松岡外相に内閣主宰の近衛が非常に戸惑い、松岡に気遣って遠慮する場面記述がある。この一連の記述を読んで、戦時の非常の緊急時によりによって近衛文麿という男を一国の首相を選んでしまった日本国の不運、ならびに明らかに自身の能力を越えた一国指導者の首相の重責を強いられる近衛文麿の不幸な境遇を考えると、余りに滑稽(こっけい)すぎて逆に笑ってしまうほどだ。岩波新書「近衛文麿」を未読な方は是非とも本新書を一度手にとって、近衛と松岡の間の微妙な空気が漂うやり取り記述を実際に読んでもらいたい。
戦中の三度の組閣を経て近衛文麿は敗戦を迎えた。近衛は対米戦争開戦後に日本の敗北を確信していたため、被害拡大を食い止めるために早期の戦争終結を昭和天皇に上奏、いわゆる「近衛上奏文」を出していた。そのため終戦当初は連合国側も近衛に対し好意的であった。敗戦直後は近衛も新党結成を決意し、「マアいよいよやりますかなァ」とか、「サー君にいよいよ引張られるか、誰に引張り出されるか、何れにしても出なければならん時期が来たねぇ」と親しい者に言ってニヤリと笑い、近衛は戦後政治への出馬に大変に乗り気であったという。ところが後にアメリカの連合国側の態度と世論が一気に変わり、近衛の戦犯問題が持ち上がってきた。世上での近衛の戦争責任を問う議論が活発になっていった。近衛は日中事変の責任者、日米戦争の参画者と見なされ、アメリカ合衆国戦略爆撃調査団から呼び出しを受け喚問される。「取り調べは、ひどいものでしたよ。全く検事が犯罪人の調書を取るようなものだった。アメリカも愈々(いよいよ)腹を決めたらしい。私も戦犯で引張られますね」。当初の楽観的態度は消え、自身の戦犯問題について近衛は全く悲観的になっていた。
近衛文麿は戦中に内閣を三度組閣した。しかし、その際の組閣は、いずれも自身の本意ではなかった。軍部や天皇や元老・重臣や国民の後押しにより、不本意ながら渋々の政界デビューであり首相就任であった。自身の性格や資質からして、自分が人前に立ちリーダーシップを発揮する政治家の器(うつわ)でないことは近衛本人が一番よく分かっていたからだ。ところが、日本が敗戦を迎え新たに戦後政治が始まる段になると、戦時にはあれほど政治家を嫌がっていた近衛が、今度は自ら進んで政治のやる気を前面に出すようになる。「マアいよいよやりますかなァ」「サー君にいよいよ引張られるか、誰に引張り出されるか、何れにしても出なければならん時期が来たねぇ」といった具合である。だが、近衛当人がそのように政治家のやる気をやっと出した時には、彼は戦時の戦争責任追及の戦犯問題にて戦後に政治家として活躍する道は断たれてしまうのである。すなわち「彼は連合国側から戦争犯罪人容疑者に指定された。近衛は、しかし極東軍事法廷に被告人として裁かれることをこの上なき屈辱とし、毒を仰いで自決した」。
何と、ちぐはくな不運な人間の人生の残酷さ薄情さであることか。岩波新書の青、岡義武「近衛文麿」(1972年)を始めとして近衛の評伝や研究を読むたび私は、そうした思いを禁じえない。
(※岩波新書の青、岡義武「近衛文麿」は近年、岩波新書評伝選から改訂版(1994年)が復刻・復刊されています。)