アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(110)岡義武「山県有朋」

政治学者である岡義武による近代日本の政治家の評伝仕事には「山県有朋」(1958年)と、「近代日本の政治家」(1960年)での伊藤博文、大隈重信、原敬、犬養毅、西園寺公望と、「近衛文麿」(1972年)があった。

「近代日本の政治家」の書評に、岡義武の弟子である萩原延壽(はぎはら・のぶとし)による「岡義武『近代日本の政治家』を読む」がある(萩原「自由の精神」2003年に所収)。萩原延壽は「遠い崖・アーネスト・サトウ日記抄」(1980─2001年)を朝日新聞に長期連載した偉大な人だ。大作「遠い崖」全14巻を休載をはさみ14年かけて書ききった。萩原延壽も偉大だか、萩原に「遠い崖」の連載を継続してやらせた朝日新聞も偉(えら)かった。萩原延壽「遠い崖」ほどの壮大なスケールと綿密さを兼ね備えた近代日本の研究読み物は今後もう出ないのでは、と私には思えるほどだ。

岡の「近代日本の政治家」は、後に英訳され海外でも刊行されている。萩原延壽「岡義武『近代日本の政治家』を読む」の中で、英訳者のフレーザーが岡と対談した際に「『近代日本の政治家』で扱っている五人の政治家のうち、岡さんが一番好いているのは西園寺公望ではないか」のフレーザーの憶測披露に対し、「先生は微笑するだけで、これを肯定しませんでした」。当の岡義武はフレーザーの憶測を「肯定」しなかった(しかし「否定」もしなかった)エピソードが紹介されている。

私も岡義武が一番好いていた「近代日本の政治家」は西園寺公望だったのでは、と推測する。西園寺公望は、公家出身で立憲政友会総裁となり、明治末からいわゆる「桂園時代」を牽引し度々組閣した。西園寺は宮中グループに属し昭和史にて、ただ一人の元老として立憲政治の保持に尽力した。「最後の元老」として昭和史で唯一の「内閣製造者」の役割を果たした。戦前の日本では首相の決定は、まず元老からの後継首班の奏薦を内々に受け、後に正式に天皇より組閣の勅命が下るシステムであったのだ。

公家出身で日本の政党政治確立に尽力し、後継首班の奏薦に「憲政の常道」(大日本帝国憲法下で運用されていた政党政治の政界の慣例で、天皇による内閣総理大臣の任命にて、衆議院での第一党の政党の党首が内閣総理大臣となり組閣すること)を守った西園寺は、右派や軍部の暴走を抑えたい天皇側近の宮中グループの中心人物であった。事実、西園寺は昭和に入って軍人が政治に介入し、陸軍大臣が属している内閣の意向を無視して現場にて暴走する右派や軍部の連中を忌避し嫌悪していた。そのため、内閣の後継指名にも軍部を押さえるような牽制(けんせい)の組閣人事を度々なした。だが、西園寺が期待の五摂家筆頭の近衛文麿による組閣を始めとして、軍部の封じ込めは上手く行かなかった。そうして元老の西園寺の失望、近代日本の政治についての西園寺公望の以下のような総括のボヤキである。

「今にして思えば、木戸、大久保、伊藤、或は加藤高明、やや落ちるが原敬など、いずれもひとかどの人物だったが、…種々やって見たけれど、結局人民の程度しかいかないものだね。どうもなんと言っても、国民のレヴェルがこれなんだから…まず国民の政治教育を徹底させて結局国民のレヴェルを上げるよりしようがあるまい」

詰まるところ岡義武の「近代日本の政治家」を始めとする政治家評伝を貫いているのも、西園寺の「種々やって見たけれど、結局人民の程度しかいかないものだね」云々と同様な、岡義武のボヤキであったように思う。岡の評伝の筆致の随所に、その手の生々しい感情が読み取れる。確かに岡義武は西園寺公望ら元老・重臣の宮中グループに対し非常に同情的に良イメージで書いている。その分、軍部や軍を取り巻きの右派や政党政治を否定する軍閥グループに対しては否定的で厳しく痛烈に書いていた。

山県有朋についての岡義武の評伝は西園寺公望に関するそれと比べて、あまり面白くない。ただ岡義武の名誉のために付け加えておきたいのは、山県についての岡の書き方が良くないわけでは全くなく、そもそも山県有朋という人物が面白くないのだ。山県有朋に関しては、誰が執筆しても面白いものにはならないだろうと私は思う。自由民権運動に押され国会開設を承認し、さらに初期議会にて民党に圧倒されて政権運営が困難になると、日本に政党政治を根付かせる熱意など全くないのに政略で立憲政友会を結成するような伊藤博文の老獪(ろうかい)な柔軟さも、自由民権を経ての国民人気で隈板内閣を組閣し、後の大正デモクラシー時に、かつてのリバイバル人気で第二次内閣を組閣するような大隈重信の国民的人気も山県有朋にはなかった。

その代わり山県有朋には幸運があった。幕末から明治維新を迎え、軍政で先頭指導に立っていた同郷の長州の大村益次郎が若くして亡くなった。その後を山県が継承し、明治国家の近代的軍隊創設に手腕を発揮して結果、山県は藩閥政府の長州閥として、かつ「国軍の父」の軍閥として隠然たる影響力を長く発揮するに至った。山県有朋は誠に幸運な人であった。その後、組閣して初期議会における「朝鮮半島は日本の利益線」とする山県による「外交政略」演説(いわゆる「穏健な帝国主義」)は、東アジア大陸侵出の膨張拡大路線、後々まで続く近代日本の対外政策の基調の雛型(ひながた)となった。国内政治では、長州閥であり軍閥であるため彼は一貫して政党政治を憎悪し敵視していた。だから、軍部に対する政党の影響力を阻止する目的で軍部大臣現役武官制を彼は第二次山県内閣で法制化したし、政党の影響が官僚に及ばないよう文官任用令改正も山県はやった。ゆえに最後まで残った元老の山県有朋と松方正義と西園寺公望の中で、反政党で軍閥の山県有朋と反軍部で政党政治を志向した西園寺公望は互いにタイプが違っていた。二人はあまり相性が合わなかった。

おそらく山県有朋は、ぶれない一貫性の政治姿勢の点において「政治家としては優秀」だったに違いない。山県有朋は「超然主義」(藩閥と官僚からなる内閣が主にとった政治的立場で、内閣は議会や政党の意思に制約されず行動するべきという主張)であった。明治新政府にて軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いた山県有朋は「近代日本の政治家」の中で最右に位置する軍閥グループの首領(ドン)であったのだ。明治から大正を経て昭和へ、山県のグループに属する山県の意向をくむ後継の政治家たちは、常に日本の政治の中心にいた。明治から昭和に至るまで長州軍閥の「山県有朋─桂太郎─寺内正毅─田中義一」のラインは実に強力であった。

現実には残された元老のうち山県有朋が先に亡くなり、次に松方正義が亡くなり、西園寺公望が長く生きて一人残った「最後の元老」となった。そして「憲政の常道」を守る政党政治に沿った後継首班の奏薦を西園寺は、ある程度やり続けた。だが、もし仮に西園寺公望が早くに亡くなり山県有朋が残って「最後の元老」になっていたら、西園寺のような「憲政の常道」の慣例に従った後継首班の奏薦を山県はしなかっただろう。つまりは、五・一五事件にて軍部の暴力の前に犬養内閣が倒れる遥か以前に早く近代日本の政党政治は終わっていたであろう。

岩波新書「山県有朋」を書き上げた後、山県についての感想を聞かれ、岡義武は次のように答えたという。「あの本を書いてゆくうちに、だんだん山県がいやになりました。だが短歌は立派なものです」。

「幕末に尊皇派志士、日本陸軍の建設者・大御所として、また総理大臣・元老として政界に君臨した山県有朋の姿こそ、戦前における天皇制的な『政治的人間』の一典型である。『閥族・官僚・軍国主義の権化』として憎まれ、怖れられたこの軍人政治家の生涯の照し出す日本近代史の過程と構造は、現代政治の課題に今なお深く、つながるものである」(表紙カバー裏解説)