アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(109)ハリス「新・ガンの知識」

先日、岩波新書の黄、ハリス「新・ガンの知識」(1977年)を読んだ。本書は「新・ガンの知識」とあることから、以前に著者による旧版「ガンの知識」もあるわけだ。確かに旧版「ガンの知識・本能と対策」も、同じく岩波新書から日本語訳版が1963年に出ている。私は現在もまた過去にも、がんに罹患(りかん)したことはない。しかし、これから先は分からない。そうした立場から本書「新・ガンの知識」を読んだ上での感想書評を書いてみる。

著者のハリスは化学畑出身の英国の学者で、長く抗がん剤の合成や核酸・がんウイルス関係の仕事を手がけてきた人である。本書の大まかな概要はこうだ。

「ガンはなぜ、どのようにしてできるのか。どう防ぎ、どう治したらよいものか。要するに、ガンとはいったい何なのか。必要な注意を怠らず、無用の恐怖をさけるために必要な最新・正確なガンの知識を英国のガン研究の第一人者が平易に説く」(表紙カバー裏解説)

本書は全部で10のパートからなる。最初の2つ、「1・細胞とその分裂」と「2・正常な増殖と異常な増殖」が「がんの定義」に関する記述であり、その定義の前提として、人間の身体の細胞レベルの基本の構造(核とか細胞膜とかミトコンドリアとか少胞体とか)の基本の解説から始まり、母胎の妊娠期間にたった1個の細胞であったものが後の天文学的な人間の細胞生成にまで至る様を論ずる、まさに「人体という宇宙の神秘」の科学な話である。しかもイラスト図解や顕微鏡の実物拡大写真付きで、細胞分裂の概要や損傷を受け失われた細胞を補うために基層細胞が盛んに分裂を繰り返す過程を非常に詳細に説明している。その上で「がん」とは何か、以下のように定義する。

「ガンという過程は要するに有害な因子に対する一種の反応であると考えるのだが、…損害を受けた細胞、少なくともその中の一部の細胞が増殖してくるという形の反応を、体が起こすのだと思われる。この増殖の結果として、襲撃を受けた細胞を見ると、形や大きさが変わり、生物学的な性格も変わり、そのほか化学的な成分も変わってきているらしいことがわかる。とりわけこの異常細胞は、生体の需要とはまったく関係なしに、急速で常軌を逸した、また執拗で無目的な、増殖をする能力を獲得してしまっている」(「2・正常な増殖と異常な増殖」)

著者による「がんの定義」は、現在一般的に流布・共有されているそれと見事に見合っている。すなわち、がんとは「悪性腫瘍」と同義である。生体細胞の遺伝子に異常が生じることによる「がんの発生機序」と、その変異が生体の自然治癒の免疫統制を越えて急速に増殖する「がんの異常代謝」の内分泌の結果、正常な生体維持を妨げ、全身に転移することで多臓器不全に陥れ、やがては生体を死に至らしめる。このように「悪性腫瘍」である「がんの発生機序」と「がんの異常代謝」とを押さえて定義されている。

こうした細胞レベルの細かで基本な話から堅実に始めて、「がんの定義」にまで至る最初の2つのパートが本書のまずは読み所といえる。それにしても、著者のハリスが化学専攻の化学分野からのがん研究の第一人者であるためか、「新・がんの知識」に関し本書では、もっぱら化学的観点から非常に偏(かたよ)って解説したがる。化学を介しての見地から化学式を記載して、正常細胞が、がん化する仕組みを1970年代当時のがん研究の最新知見紹介の形でかなり細かに語る。化学の知識があり化学式を正確に読める読者には、本書は相当に面白いに違いない。

例えば「5・実験でガンを作る」のパートは非常に興味深い。著者は、がん研究推進のために実験でがんを人工的に作る「発ガンに関する実験の重要性」を説いて、「芳香族アミンによる発ガン」(人間の膀胱がん、動物の肝がんの原因とされる)のメカニズムを、これまた化学式を用いて詳細に述べている。こうした化学的見地からの発がんのメカニズムには詳しいが、その他、化学的なもの以外でのがんの原因や治療については記述が少なく、「化学的発ガン」と「ウイルスによるがん」以外での、本書にてわずかにしか触れられていない「助発ガン」や「放射線による発ガン」や「体細胞の突然変異によるガン」について、「読み足りない」「もっと知りたい」の正直な感想だ。よって「8・ガンの治療」のパートにても、「外科的療法」や「放射線療法」や「免疫療法」に関する記述は異常に少ないが、その分「化学療法」にて化学的薬剤の使用、いわゆる「抗がん剤」を用いた「ガンの化学療法」については、一つのパートを新たに設け多くの紙数を割(さ)いて非常に詳しく解説している。本書の「9・ガンの化学療法」にて、抗がん剤についての説明は「アルキル化剤」と「代謝拮抗物質」と「その他の抗ガン剤」の3つの節からなる。「アルキル化剤」の節で、「この種の薬品の原型は窒素マスタード(HN2)で、すでに発ガン物質としてお目にかかったものである(註─本文の前の記述「化学的発ガン」の節にて窒素マスタードががんを引き起こすことを、すでに読者に指摘しておいたの意)」の解説文が、あえてさりげなく書き入れられている。

本書は1977年の発行だが、早くも本新書で「抗がん剤の原型が化学兵器のマスタードガスであること」を長く抗がん剤の合成や核酸・がんウイルス関係の仕事を手がけてきた当時のがん研究の第一人者である著者が、一般向けの書籍にて公的に書いて認めているのを確認できたのは、今回「新・がんの知識」を読んでの私の大きな収穫であった。

そして著者のハリスは化学兵器の窒素マスタードを原材とする抗がん剤を用いた、がんの化学治療について、本書にて特に賞賛して奨励しているわけでもないが、また格別に反対の問題視もしていない。しかし結果的には、抗がん剤によるがん寛解の成果を見極めたいフシは、彼の言外の意として本書の書きぶりから至る箇所で一貫して強く感じられる。著者は化学療法の抗がん剤の使用に全体に肯定的である。それは著者のハリスが化学専攻の学者で、長く抗がん剤の合成・開発に携わってきたので、彼が抗がん剤を用いたがん治療に全く否定的でないのは当然といえば当然ではあるが。

今日のがん治療の是非で抗がん剤の治療について、「ある種の抗がん剤は原材の起源が化学兵器のマスタードガスであること」は、よく指摘され問題にされる。人体に破壊をもたらし人間を悲惨な死に至らしめる化学兵器を、がん治療という「平和」目的にして、たとえ人が死なない少量の投薬コントロール下であれ、そうした毒物の化学兵器を人体に注入してよいのかという倫理的な問題がまずある。それから抗がん剤はがん細胞に本当に効くのか、という薬剤効果に対する疑いの議論も昔から根強くある。何よりも、抗がん剤は人体殺傷のために戦争で用いられる化学兵器と同じなのだから、がん細胞以外の正常細胞も傷つけ破壊する。事実、抗がん剤を継続的に投与された患者は、吐き気、嘔吐(おうと)、食欲不振、下痢、脱毛などの副作用に苦しめられる。

その一方で抗がん剤使用に肯定的な医師ら医療従事者や製薬開発・販売に携わる人達は、がん治療に際し「毒(がん)には毒(抗がん剤)をもって処するべき」と主張する。また「最近は、白血球減少、吐き気の副作用を軽減する支持療法が進歩したため、抗がん剤の副作用で苦しむことは以前に比べて少なくなった」とも言う。そうすると、さらに抗がん剤に否定的な人達(一部の医療従事者や患者グループや医療ジャーナリストら)が、「抗がん剤は細胞を無差別に損傷する強力作用がある。がんはDNA損傷、破壊、切断によって発生する。つまり抗がん剤は、まざれもない発がん物質である。実際に抗がん剤の副作用情報を確認してみると、二次発癌と書いてある」などと切り返す。最後には「総じて非常に高額である抗がん剤の治療は、金儲けに走る医療関係者と製薬会社の陰謀」説まで飛び出してくる。

がん治療における抗がん剤使用の是非について、私は判断できない。確かに抗がん剤が化学兵器の窒素マスタードを原型にしていることも本書を通し再認識し今では知っているし、抗がん剤の副作用に苦しんで亡くなった患者もいるが、その反面、抗がん剤を用いた化学治療で、がんが寛解した患者が少なからずいることも知っているからだ。

本書を読んでも、抗がん剤使用の是非について私は明確に判断できない。もし私や私の家族ががんになり、抗がん剤による化学治療を薦められた場合、私ならどう回答するか、現時点では分からない。そうしたことも含め岩波新書の黄、ハリス「新・がんの知識」は読了後も、がんの病気そのものやがん治療について、あれこれと継続的に考えさせられる複雑な読み味である。