アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(294)中村雄二郎「哲学の現在」

岩波新書は赤版、青版、黄版、新赤版とこれまでに4度カラーを変えている。青版を衣替えしての黄版の出発は1977年であった。新装黄版の発刊にあたり、岩波新書編集部は「岩波新書新版の発足に際して」の各冊巻末に収められる文章にて「戦後はすでに終焉を見た」の文言を掲げた。

戦前の赤版では「戦争への抵抗」が岩波新書の暗黙のモチーフをなしていた。戦時体制で国家の戦争遂行の国策を正面から堂々と批判できない言論弾圧の検閲監視下にて当時の赤版の岩波新書には、検閲に引っ掛からない程度の暗に国家を批判する言外の叙述の工夫を読んで見つけ、それとなく慰(なぐさ)められる読書の楽しみがあった。戦後の青版には、敗戦を経ての「日本の再生」という確固たる目標があった。戦後の混乱という書籍と知識の物心両面での絶対的欠乏のなかで、岩波新書の青版には現代の幅広い知識や教養の提供という出版事業者としての社会的使命があったのだ。

そうして1970年代後半から80年代後半にかけての黄版の時代は、もはや「戦時」でも「戦後」でもなくなっていた。まさに「戦後はすでに終焉を見た」のであり、岩波新書の黄版は、一応に戦後を経過して物質的に日本社会は豊かになり、「経済大国」や「政治大国」や「生活大国」の勇ましい現状肯定のかけ声が響き、書籍も知識もあふれかえるなかで、そうした情報の洪水から本当の人間価値や社会の真の豊かさや望ましい国家像の新たな練り直しが潜在的に希求されていた。戦時の赤版での「戦争抵抗」や戦後の青版での「知識・教養啓蒙」の単調さではなくて、より複雑で洗練されたものが黄版の時代には望まれた。

岩波新書の黄版の時代に、岩波新書から外部の文壇・思想評論でも、例えば江藤淳「成熟と喪失」(1967年)や山崎正和「柔らかい個人主義の誕生」(1984年)ら、日本社会での「成熟」や「柔らかい個人主義」の新たな理念が望ましいものと目され、やがて広く議論され始めたのは決して偶然ではない。それは倫理的悪や不正や権力に対する従来の直線的な対抗、各人への普遍的権利の通り一辺倒の保障への希求とは明らかに思考を異にしていた。

岩波新書の黄、中村雄二郎「哲学の現在」(1977年)は新装黄版の第一回配本にあたる。本新書は「黄版・2」のシリアルナンバーである。ゆえに中村「哲学の現在」も、岩波新書の黄版の「戦後はすでに終焉を見た」の宣言を受けて、旧来の赤版や青版のように単に「現時点での最新の哲学の様相を無難に概観する」ような哲学概論ないしは時事的な哲学読み物ではなくて、既存の哲学の解体と新たな哲学の再生の役割記述を強力に担わされた新書であった。

「哲学の現在」を上梓の時点で執筆の中村雄二郎の著述家としてのキャリアはなかなかのものがある。すでに刊行した書籍数も多い。中村は本作の「あとがき」にて以下のように書いている。

「『古い革嚢(かわぶくろ)に新しい酒を盛って欲しい』という難題が、この本を書くにあたって編集部から与えられた。難題であるだけでなく無理難題でもあるように思われた。が、いまになって考えてみると、うまい挑発だったようだ。まことに取組み甲斐のある難題だったからである。新書という枠のなかであるだけに、かえって工夫をこらす愉しみもある」

執筆の1970年代時点での「哲学の現在」を書くにあたり、「古い革嚢(かわぶくろ)に新しい酒を盛る」ような、相当に厳しい注文が新装黄版を新たに始める岩波新書編集部から著書の中村雄二郎に対しあったことが読み取れる。私が本新書を読む限りでは、本書は200ページ強だが、最初の「哲学の現在」の章の40ページほどの小論と、残りの160ページほどの各章との二部構成になっている。

もちろん読み所は新書タイトルと同じ「哲学の現在」の第一章の部分であり、この章はさらに「生きること考えること」と「知識と知恵の分裂」と「ことばの相のもとに」の3つの節からなる。これら3つの節は哲学的真理のドグマ化(秘教的専門化)たる知恵の硬直化と、哲学知識のあまりにも状況的で合理的な実用主義化といった観念的抽象論への凝固と実用的功利化への上滑(うわすべ)りの現状を両端ともに批判する内容である。さらに知識の肥大化(単に「たくさん知っていること」の弊害)の戒(いまし)め、ことばへの配慮の必要性(なぜなら、ことばは哲学の知を現前化させるために不可欠なものであり、「ことばは思考の肉体」であるから)が説かれている。

これら第一章「哲学の現在」の内容こそが、岩波新書の新装黄版を再出発させるにあたり、「古い革嚢(かわぶくろ)に新しい酒を盛って欲しい」とする編集部からの難題に対応し、見事に答えてみせた中村雄二郎による既存の哲学の解体と新たな哲学再生の役割記述の内実であった。続く第二章以降ではデカルトからカント、ヘーゲルとマルクスの近代哲学、さらにはフッサールやハイデッガー、レヴィ・ストロースらの現代思想を哲学の専門用語を使わずに平易な言葉で解説している。

改めて今読み返してみると岩波新書の黄、中村雄二郎「哲学の現在」は、大学受験の現代文の入試問題に採用されそうな「いかにも」な硬質で模範的な哲学文章ではある。そのまま10代の若い学生に読ませたいような(笑)。私は迂闊(うかつ)にも学生時代に気づかなかったが、どうやら中村雄二郎「哲学の現在」の本文は長い間、高校の国語教科書に掲載されていたらしい。

「現代人は知識の巨大な集積に押しつぶされ、それを活用する知恵を失っているのではないだろうか。本書は、生きることとは何か、考えるとはどういうことかを、原点に立ち戻ってとらえ直す。平易な言葉で、現在の哲学が取り組んでいる諸問題を一つずつ吟味していき、知恵と知識の全体的な再統一をめざす試み」(表紙カバー裏解説)