アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(56)野間宏「親鸞」

親鸞については、すでに多くの研究書や学術論文や評論、評伝、エッセイがあり、今日ではまさに「汗牛充棟ただならぬ」親鸞研究の様相だ。

聞く所によると戦前の昔は「親鸞は実在したのか。伝記上の架空の人物なのでは」と疑う向きもあったらしく、そうした手探りな時代とは雲泥の差の現代の親鸞研究の盛況ぶりである。親鸞については、彼の波乱の生涯(得度、比叡山に修学、法然に入門、念仏弾圧、越後配流、東国布教、関東布教からの帰洛、善鸞義絶など)も、彼の思想の内実(「悪人」「自然」「愚禿」「金剛心」「方便」などの意味考察)も親鸞研究蓄積の充実ぶりにより現在ではほぼ明らかにされているといってよい。親鸞研究において彼の生涯の歩みや彼が考え書いたことを厳密に明確にする、親鸞の生涯なり思想なりを客観的に実証的に検証し明らかにすることは、すでにやられ相当な研究蓄積があるため、今さらながら大した意義を持つものではなく、これから親鸞を扱う際には「研究者が自身の思想を親鸞に託し、自身の思想を間接的に親鸞を通してどれだけ語らせられるか」にあると私には思える。

それは「親鸞をダシにして自身の思想を親鸞に語らせる」ことであり、歴史的考察対象に研究者の現代的立場や自身の思想を過剰に読み込むものに他ならず、思想史研究において戒(いまし)められるべき「悪手」の「禁じ手」ではないか、の批判があるかもしれない。なるほど、親鸞研究において牽強付会(けんきょうふかい)で親鸞が発言し執筆し行動したことのない、親鸞自身に全くの身に覚えがない虚偽の史実を捏造して、それを「親鸞の実像」として語らせることは慎むべきだが、数ある多面体としての親鸞思想の中でどの面に着目し、特に力点を置いて引用し強調するかにより、親鸞に託したその人なりの思想が彼の親鸞研究を通して間接的に自然と明らかになってくる、そのような思想史研究の主体性の仕組みに基づいた「親鸞を元にして自身の思想を親鸞に語らせる」ことは許されるのではないか。一通りの親鸞実証研究の蓄積を経た上での、そうした意味次元での次の段階の新たで多様な親鸞研究の可能性模索の提言である。

ところで親鸞評伝や研究に対し、私は論者の名前を頭に置いて「××親鸞」という呼び方をしている。例えば「親鸞」(2010年)にて鎌倉時代の相次ぐ戦乱や疫病や天災で荒廃した末法の世を、同様に自然災害や不景気で先の見通しが立たない現在の混迷不安の時代に重ね合わせ、新たに親鸞を読み返すことで現代社会の人々の生き方の心の処方箋とする五木寛之による親鸞に関する一連記述を「五木親鸞」。例えば「今に生きる親鸞」(2001年)で強調される、比叡山や鎌倉幕府の、既存の伝統教団や政治権力の庇護を受けずに民衆と共に生き在野の活動を貫いた親鸞を、大学や研究所に生涯属さず、文筆や講演の売文にて学生や労働者の「大衆」と終始向き合った自身に重ね合わせて共感的に描き出す吉本隆明による親鸞論ならば「吉本親鸞」と呼称するというように。

親鸞研究に関しては、真宗系の大学での学科設置の編制からして真宗学と日本仏教史学の二つの方向からの近接が昔から伝統的にあると思われる。岩波書店「日本思想体系11・親鸞」(1971年)の巻末に家永三郎「歴史上の人物としての親鸞」と、星野元豊「『教行信証』の思想と内容」の二つの論文が掲載されてある。家永のものは聖徳太子信仰との関わりや念仏弾圧、親鸞以後の真宗教団の形成発展の歴史総体からのマクロな日本仏教史学の概説となっており、他方、星野のものは「教行信証」の構成や主要概念、仏教用語の子細な説明の、まさに真宗学ともいうべきミクロな細かい文献解説となっている。こうしたタイプの全く異なるアプローチの二論文の巻末掲載形式からしても親鸞研究には、真宗学と日本仏教史学の二つの系があるといえる。

ここで日本仏教史学の系統に属する親鸞研究にて絶対に外せないと思われるものを最低限、三つ挙げておきたい。

まずは服部之総「親鸞ノート」(1948年)、「続・親鸞ノート」(1950年)による「服部親鸞」である。真宗の寺の生まれで、しかし宗教を忌避してマルクス主義に傾倒し、後に「呪はれた宗門の子」として真宗の親鸞の宗教に戻ってきた服部之総である。戦後の親鸞研究は「いわゆる護国思想について」、親鸞の「朝家(ちょうか)の御ため国民のために念仏をまふしあはせたまひさふらはば、めでたふさふらふべし」の言葉の解釈から始まった。親鸞は幕府や朝廷のために念仏する護国論的教えを本当に説いたのか。言葉の表面にのみ捕らわれず文脈全体を押さえて読むと、「朝家や国民のためにせいぜい念仏してやろう」という念仏者の立場を世俗の権力より一次元上げて(なぜなら親鸞においては聖徳太子と同様「世間虚仮、唯仏是真」だから)、その高みの立場から権力者を下に見てあわれんで「朝家の御ため国民のために念仏」する反語的意味であることが分かる。

決して幕府や朝廷の政治権力と妥協し、それに迎合して従属する親鸞の教えではない。世俗の権力やそれにイデオロギー的に奉仕する既成宗教を相対化し批判するような世界宗教的要素を持ち合わせた宗教者は、こうした自身の次元を一段高め、その立ち位置から高踏的・反語的な発言記述をよくやる。「新約聖書」の「福音書」におけるイエスのユダヤ教批判にも、同様な高踏反語な発言エピソードはよく出てくる。親鸞もイエスも世俗の政治権力や既成教団と同じ次元に自らを決して置かないのだ。そうした政治権力の幕府や朝廷や伝統的仏教教団を批判して、領家・地頭・名主から弾圧されていた民衆と共に生きた親鸞像の確立の基調を服部之総の親鸞研究は成した。服部之総「親鸞ノート」は続編と共に今では絶版で入手困難であるのが、いつも私は残念に思う。

次に親鸞研究で必須と思えるのは家永三郎による親鸞研究、「家永親鸞」だ。家永の「日本思想史に於ける否定の論理の発達」(1935年)はタイトルに「親鸞」の文字はないけれども、あれはれっきとした親鸞研究であり日本仏教史概説でもある。家永は、仏陀のインド原始仏教の本来性を「我執の否定」という「否定の論理」に求めて、日本仏教史における仏教の本来性の最高度の体現を聖徳太子の仏教受容と親鸞の浄土真宗の二つに置く。確かに親鸞は聖徳太子を「和国の救主」として信仰していた。そうした聖徳太子と親鸞に仏教の本来性たる「否定の論理」を見出すことで、その他の日本仏教(飛鳥の氏族仏教や奈良の鎮護国家仏教、貴族の欲望充足のための平安仏教や織田信長の自己神格化の仏教)を同時に批判し尽くす内実を家永の「日本思想史に於ける否定の論理」は持つ。

同様に前述の家永「歴史上の人物としての親鸞」(1971年)も親鸞以後の真宗教団の巨大化、いわゆる「寺社勢力」としての真宗教団の「親鸞からの逸脱」を批判して戒める言説を加味しており、親鸞以後の蓮如や近代真宗教団への批判をも内包している。「弟子は一人ももたずさふらふ」とした親鸞からしてみれば、真宗が強大な世俗的権力教団になることは決して望んでいなかったはずだからだ。

最後に、「中世の真実・親鸞・普遍への道」(1982年)や「信に生きる・親鸞・仏教を生きる」(2000年)の著作がある阿満利麿(あま・としまろ)による「阿満親鸞」を絶対に外せない戦後の親鸞研究として挙げておきたい。阿満利麿の親鸞研究は、世俗の政治権力を相対化して超越する世界宗教たる本来的な仏教と、政治権力に奉仕して一体化する民族宗教たる神道との日本的宗教状況の相剋にて、親鸞の真宗が世界宗教たる仏教の本来性を体現するものであるがゆえに、幕府や朝廷や既成の仏教勢力から過酷な念仏弾圧にさらされる、親鸞を取り巻く当時の宗教的現実を押さえて考察されている。親鸞の浄土真宗がその「真宗性」を発揮するのは、政治権力と宗教権威とが癒着(ゆちゃく)し、宗教が体制維持のイデオロギー機能を果たし、政教一体で世俗的寺社勢力として権威的に振る舞う日本の伝統的な宗教のあり様、つまりは祭政一致体制に対する批判としてであった。親鸞の真宗は原則的に神祇不拝である。親鸞の念仏は、鬼神を畏(おそ)れ拝んで呪(まじな)いや祈願の欲望充足を果たす民族宗教たる神道化した伝統的な日本型「仏教」の祈りとは明白に一線を画(かく)する。親鸞の真宗は、世俗権力の相対化と個人の自覚的内的信仰に支えられた世界宗教たる仏教の本来性を有する。そのため親鸞の念仏集団は幕府や朝廷や旧仏教勢力から厳しい弾圧を加えられる。阿満利麿の「阿満親鸞」は、宗教学の世界宗教と民族宗教の概念区分を押さえて、世界宗教たる親鸞の浄土真宗のラディカルさを引き出せている所が骨頂だ。

親鸞研究に絡(から)めて、「宗教は国家を超えられるか」(2005年)や「日本人はなぜ無宗教なのか」(1996年)の、日本風土の宗教問題や日本人の宗教意識のそれにまで広い射程を持ち考察されている所が「阿満利麿、この人は親鸞研究ないしは日本精神史研究にて同時代の他の人よりも頭一つ抜けている」の感慨を私は率直に持つ。

さて、ならば岩波新書の青、野間宏「親鸞」(1973年)の「野間親鸞」はどうであろうか。「数ある多面体としての親鸞思想の中で、どの面に着目し、特に力点を置いて引用し強調するかによって親鸞を元にして自身の思想を親鸞に語らせようとしているのか」、野間宏の親鸞記述の力点は「絶対平等」の理念に尽きる。仏陀の目標としていた平等世界(浄土)の位置づけと、その目標をめざして集団を結んでいた仏教徒の集団「僧伽(さんが)」を野間は、そのまま親鸞思想の徹底した平等の主張と念仏同朋の集団の中に見出だした。

「一切衆生悉有仏性」の万人に仏性具備の大乗の流れを引いて、野間に言わせれば親鸞は「寺院のなかに閉じこめられ、大衆(衆生)の支配のために用いられていた仏教を、寺院から引き離し、大衆(衆生)のただ中に解き放った人」であった。ゆえに「この親鸞のまったく新しい念仏の教えがこの時代の生産を担っている農民・漁民・庶民にひろがり、支配者の維持してきた神仏共存の旧仏教、貴賤の制を確認する旧仏教の徹底的破壊をすすめるものとして、支配者側の必要とする秩序を下から崩すものとして見定められ」た時、親鸞の念仏集団は「弾圧を蒙りつづけなければならない」のであった。また、この絶対平等が志向されるためには場当たり的ではない絶対原理、仏法(ダルマ)の超越真理が必要であった。

このように野間宏が親鸞に絶対平等を読み込み、「親鸞」の著作を通して人間の平等とそれを支える超越的原理たる仏法(ダルマ)を好んで強調したがるのは、野間が一時期、日本共産党に入党したマルクス主義者だからであったに相違ない。文学作品「真空地帯」(1952年)にて軍隊の不平等な人間関係、理不尽で絶対的な縦型上下の階級構造を批判的に描き、実際の政治活動にて全国水平社や部落解放同盟に携わって被差別部落解放運動に尽力した人間の平等な社会を求めていたマルクス主義者の野間宏が、常日頃から人間の平等理念と思想の原理的構成を志向し、そのため親鸞を読む際にも「人間平等の理念」と「原理確立の方法論」の二点を押さえたマルクス主義的な階級の止揚を親鸞その人に読み込んで人間の絶対平等を強調する親鸞論になることは、なるほど合点(がてん)が行って腑(ふ)に落ちる。非常に納得しながら私は本書を読み進めていた。

ただ面白いのは、野間宏が岩波新書「親鸞」の中で一言もマルクスについて全く触れない所だ。自身の思考や発想の直接的影響の出自を明かすと自分の考えに深まりがなくなるから、一般に人は人前でそれをいたずらに開陳し披瀝したりしない。むしろ、そうした思考発想の出自は時に積極的に隠されるものだ。だから、もし相手を侮辱したり貶(おとし)めて人前で恥をかかせたい時には、衆人の面前にて、その人の発想や思考の直接的影響や出自をわざと大袈裟にバラしたり、「どうせ××の影響だろ」と見透かして身も蓋(ふた)もなく、ぞんざいに指摘してやればよい。そうすれば相手の言説に深まりがなくなって確実に人前で恥をかかせ傷つけ侮辱できる。

野間宏は岩波新書「親鸞」を執筆するに当たって、そうした物事の道理をあらかじめよく分かっているのだと思う。だから、野間は時に過剰なまでに親鸞に「絶対平等の理念」を読み込んで読み手に強調し伝えはするが、それが自身のマルクス主義への傾倒に基づくものであることを読者に知られないよう非常に警戒し隠して慎重に書いているフシがある。事実、野間宏は岩波新書「親鸞」の中で全く一切マルクスへの言及は皆無を貫くのであった。この辺りが野間宏による親鸞記述、「野間親鸞」の一つの面白さでもあると私は思う。