アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(187)奈良本辰也「吉田松陰」

吉田松陰に関する研究や評価は、福沢諭吉に関するそれとどこか似ている。戦前の天皇制ファシズムが華やかなりし頃には、吉田松陰は忠君愛国の志士として称賛され、戦後に大日本帝国が崩壊し戦後民主主義の時代を迎えると、今度は幕末からの先進的な開国論者として、またもや称賛される。ちょうど福沢諭吉が戦中に愛国主義者のナショナリストとして称賛され、戦後には開明的な市民的自由主義者として賛美されるというように。いつの時代でも吉田松陰と福沢諭吉は肯定賛美の的(まと)である。

吉田松陰その人については、

「吉田松陰(1830─59年)は長州藩士。江戸で佐久間象山に師事。君主のもとに万民が結集する一君万民論を説く。1854年ペリー再来の際、下田で海外密航を企てたが失敗し、幽閉中は松下村塾で教える。幕府の対外政策を批判し、安政の大獄により江戸で刑死した」

吉田松陰にある多くの側面のうち、時代状況に合った好ましいものをその時々で恣意的に引用し強調して、結局は、どう転んでもいつの時代にも肯定賛美の結論になってしまう「望ましい人物像」操作の思想家研究や評価への不信からか、以前に藤田省三が吉田松陰に下した「松陰は思想家とは言い難い」とした以下のような松陰評価は誠に傑作であった。

「吉田松陰は古典的な意味では決して『思想家』ではなかった。或る人の作品が独立してどんな時代に対しても一定の普遍的意味を持っている事を『思想家』の要件であるとするならば、松陰は思想家とは言い難い。彼にはそういう作品がないだけでなく、そういう作品を生み出すための精神的基礎が、『世界に対する徹底的な考察態度』が恐らく欠けていたのである…松陰は考察の人ではなくて行動の人であり、構成の人ではなくて気概の人であり、全てのものについて距離を維持することに不得意であって状況の真只中に突入していくことを得意とした人であった」(「松陰の精神史的意味に関する一考察」1978年)

いわば函数(ブラックボックス)としての松陰がいて、時代状況を受けて情報が外部から入力され、松陰の中の箱を通して何らかの判断や決断や行動が出力として出てくるのだけれど、その松陰の肝心の頭の箱の中を明けて調べてみたら、何ら思想らしきものの原則や体系の精密な思考判断精査は皆無なのであった。つまりは松陰においては、「世界に対する徹底的な考察態度が恐らく欠けていた」のであり、「松陰は考察の人ではなくて行動の人であり、構成の人ではなくて気概の人であ」って、ゆえに「吉田松陰は思想家とは言い難い」のであった。

こうした藤田省三による吉田松陰評価は、「行動の人」や「気概の人」など当の藤田は松陰を主観的には褒(ほ)めているのかもしれないけれど、どう読んでもあれは明らかに吉田松陰への中傷である(笑)。せいぜい良くて遠回しの「褒め殺し」でしかない。ある思想家に対して「世界に対する徹底的な考察態度が欠けていた」などというのは絶望的で、もはや救いようがない。「思想家として失格」の駄目な烙印(らくいん)を押されたようなものである。

事実、吉田松陰には「世界に対する徹底的な考察態度が欠けていた」。これはもう致命的な松陰における欠落であった。吉田松陰については、山県太華との論争に着目して、松陰は「天下は一人の天下なり」、かたや山県は「天下は天下の天下なり」と幕末における権力の正統性観念に関し対照的に押さえるのが従来の吉田松陰研究にて定石(じょうせき)である。松陰の「天下は一人の天下なり」は「国家支配の正統性を天皇一人の権力者に集中させる」中央集権的な政治的集中に、山県の「天下は天下の天下なり」は「国家支配の正統性を出来るだけ多くの国家構成員たる国民の同意に拡散させる」政治的底辺に向かう政治的拡大に、対立する二つの作用としてそれぞれに対応するのであった。吉田松陰にて前者の政治的集中(つまりは尊皇論)の志向が強すぎて、後者の政治的拡大(つまりは公議輿論)の契機は果てしなく弱い。

吉田松陰は佐久間象山の弟子であり、一応は儒者である。しかしながら、この人の思考には儒教における普遍的規範の「理」や「道」の原理構成がほとんどない。代わりに特殊的状況からくる危機意識とむき出しの感情にて行動主義で突っ走るだけである。「忠」や「孝」の精神衝動に振り回され終始する。前掲の藤田がいうように、松陰の精神的基礎に「世界に対する徹底的な考察態度」が欠けて普遍的原理への献身がないから、「全てのものについて距離を維持することに不得意であって状況の真只中に突入していく」しかない直情型の行動主義の気概の人であり、いつも突拍子もない非合理的な行動に後先考えず突っ走ってしまう。例えば松陰の「密航」事件、ある種の悲喜劇的なあの突拍子もない行動実践など。

思想とは、自身が思って行動するだけでは不十分だ。その影響を他人に及ぼし、他者や社会全体を巻き込んで機能させなければいけない。そうした意味で、自身にとっての非合理な熱意や衝動突飛な行動ではなくて、他者や社会を理論的に説得し操作して動員する、ある種の普遍性や正統性が思想には必要になる。このことについて吉田松陰は絶望的なまでに思想に無知であったし当然、松陰ファンの信奉者らも思想に関して恐ろしいまでに無知の素人である。いつも自分の行動主義で自己完結し、勝手に自滅して終わる松陰、ないしは、そうした吉田松陰に傾倒して心酔する松陰ファンの信奉者たちなのであった。

この点で、他者や社会全体を巻き込み動員操作する思想構築を時代の中で為し遂げ成果を上げた長州後継の伊藤博文や、ともすれば松陰と同じような称賛評価が下されがちな福沢諭吉とは、吉田松陰は明らかに違う。いつも自分の行動主義で自己完結し勝手に自滅してしまう松陰は、他者や社会全体を幅広く巻き込み動員操作する思想展開ができた伊藤や福沢よりも明白に思想家として劣る。何はともあれ、29歳で刑死で終わる吉田松陰の生涯は短すぎた。

吉田松陰の評伝には徳富蘇峰「吉田松陰」(1893年)が昔からあり、松陰を知るにつけ欠かせない書籍であるといえる。松陰に関し、蘇峰による本書を未読であるのはモグリと言われるほどのものがあると私は思う。蘇峰の「吉田松陰」は、そこまでの必読な古典である。

岩波新書にも松陰についての書籍はあった。青版の奈良本辰也「吉田松陰」(1951年)である。奈良本辰也が吉田松陰と同郷の山口出身であり、また戦前の生まれの人であるためか、一君万民論にて天皇や国家に忠義の限りを尽くし、自らの生命を捨てることも厭(いと)わない吉田松陰に暗に共感して、松陰を手放しで肯定的に書きすぎる。例えば、岩波新書「吉田松陰」にある次のような奈良本による熱の入った文章だ。

「天皇至上主義と…幕府の実力に対する現実的な評価の結びつき…狂信的な理想主義と全く冷静な現実主義の奇妙な取り引き、その結合、これが吉田松陰の火のような行動を規定している政治思想であったといえば、まことに滑稽なようでもある。しかし、松陰においては、それは決して滑稽どころではなかった。彼は、そのために生命さえも惜しいとは思わなかったからである。彼には、外国の圧迫によって生れた祖国愛があるのみであった。天皇に対する狂信的な崇拝は、祖国のために生命を投げ出そうとする、その行動のより所であり、生命の代償であった」(「四・行動の論理」)

正直、私はつまらないと思う。「狂信的な理想主義、冷静な現実主義、火のような行動主義、天皇に対する狂信的な崇拝、祖国のために生命を投げ出そうとする代償行為」など松陰を介しての、天皇や国家や思想に対し自身の生命を投げ出し殉ずる直情型行動主義の宣揚(せんよう)は、くだらない。どんな思想であっても人間主体に命を賭けさせることを勧めて美化する思想自体が、くだらないのである。

私の中では吉田松陰に対する評価は極めて低い。昔、ある人が「最近は松陰をまた読み返しています」と静かに述べたとき、私はあからさまに失笑してしまった。当時から「吉田松陰には積極的に読むべきものも学ぶべきものも何もない」と思っていたからである。そうした松陰評価は現在も一貫して変わっていないが、当時はその人に対し大変な失礼をしたと反省しきり、今でも苦々しい失策の思い出である。そのときの私には吉田松陰を始めとする、だいたいの日本の思想家について誰よりも広く深く精密に読めているという根拠のない自信の全能感があった。当時、私はまだ20代の駆け出しで、世間と自分を知らない、とるに足らない愚か者であった。