アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(348)藤原保信「自由主義の再検討」

岩波新書の赤、藤原保信「自由主義の再検討」(1993年)は、「自由主義」を資本主義の経済と議会制民主主義の政治とひとまず規定し、それらに功利主義哲学の道徳も加えた上で、タイトル通りその「自由主義」を「再検討」しようとするものである。

「資本主義の経済、議会制民主主義の政治を軸とする『自由主義』─それは社会主義体制の崩壊によって勝利したといえるのだろうか。むしろ今こそ、その自己克服・修正が求められているのではないか。近代の思想史を見直しながら、自由主義の本質と限界を明らかにし,二十一世紀にむけた新しい思想『コミュニタリアニズム』への展望を語る」(表紙カバー裏解説)

本書は、そのタイトルから「自由主義の再検討」という「自由主義」についての思想的考察の原理論のみかと思いきや、この解説文からも明白であるが、1991年の社会主義体制国家のソビエトの崩壊を受けてソ連の社会主義体制が頓挫し共産主義思想が現実的に破綻を見せ、「共産主義vs資本主義」の冷戦下の世界対立にて「あたかも資本主義陣営の自由主義が一人勝ちしたように思われるけれども本当にそうなのか。共産主義陣営のソ連の崩壊を目の当たりにした現在、このままポスト冷戦下の世界は資本主義陣営の自由主義の一人勝ちの勝ち逃げで、楽観的な自由主義礼賛の謳歌(おうか)で本当によいのか!?」こうした著者の時事的な強い思いが何よりも本書にはある。確かに岩波新書「自由主義の再検討」は、ソビエト崩壊の1991年直後の1993年に出されている。「『自由主義』─それは社会主義体制の崩壊によって勝利したといえるのだろうか。むしろ今こそ、その自己克服・修正が求められているのではないか」の本新書の解説文の文句が効いている。

つまりは、岩波新書「自由主義の再検討」は「自由主義」についての思想的考察の原理論であると同時に、共産主義陣営のソ連崩壊という直近の世界史の大事件を受けて、資本主義陣営の「自由主義の再検討」を早急に行おうとする時事論でもあるのだ。この原理論と時事論の双方に立脚しているのが、まずは本書の優れた所である。

ここで本書の目次を見よう。本書は序章と終章を含め全5章よりなる。

「序章・自由主義は勝利したか。第Ⅰ章・自由主義はどのようにして正当化されたか。第Ⅱ章・社会主義の挑戦は何であったか。第Ⅲ章・自由主義のどこに問題があるか。終章・コミュニタリアニズムに向けて」

「序章・自由主義は勝利したか」は、既述の通り、直近の1991年の社会主義体制国家のソ連の崩壊を受けて「あたかも資本主義陣営の自由主義が一人勝ちしたように思われるけれども本当にそうなのか。共産主義陣営のソ連崩壊を目の当たりにした現在、このままポスト冷戦下の世界は資本主義陣営の自由主義の勝ち逃げで本当によいのか!?」の著者の本書執筆時での時事的な強い思いから書き出されている。続く「第Ⅰ章・自由主義はどのようにして正当化されたか」は、時代を近代初頭にまで遡(さかのぼ)り、「自由主義はどのように正当化され社会に定着していったか」を「1・資本主義の正当化、2・議会制民主主義の正当化、3・功利主義の正当化」の三点から、ホッブズ、ロック、スミス、ベンサムら近代黎明期(れいめいき)の思想家たちを紹介しながら自由主義の正統性の出自を概説していく。

それから「第Ⅱ章・社会主義の挑戦は何であったか」では、ソ連崩壊の社会主義体制失敗の事実を踏まえた上で、改めて「社会主義とは何であったか」「社会主義は自由主義のどこに問題があると見て、自由主義の何を改良しようとしたのか」の「社会主義の挑戦」を総括し明らかにしていく。この章では当然、マルクスの思想解説が主となっている。

その上で「第Ⅲ章・自由主義のどこに問題があるか」にて、ソ連崩壊の歴史的大事件を受けて共産主義陣営の社会主義国家が世界史から退場し、資本主義陣営の自由主義があたかも一人勝ちで残ったようにも思えるポスト冷戦下の情勢の中で、自由主義の問題を再検討する。この第Ⅲ章こそが本書タイトル「自由主義の再検討」にそのまま対応する部分であり、よって本新書にての一番の読み所であるといえる。この章では「自由主義の陥穽(かんせい)」として、特に経済における資本主義下での労働者の搾取と人間疎外、南北問題と地球規模での環境破壊問題に象徴される先進国の開発途上国に対する帝国主義的な横暴の振舞い、さらにはそれら経済制度の問題に由来する自由主義体制下の人間における「利潤への限りなき人狼的渇望」「貨幣崇拝の物神的倒錯」の傾向たる物質主義、利己主義という道徳的問題を厳しく指摘する。そうして、それら特に経済と道徳における「自由主義の陥穽」の問題について批判的に考えてきたウォーラーステイン、ロールズ、ノズィック、ドゥオーキンら「功利主義批判の論理」を展開した現代思想の人々を取り上げ、彼らの思想を紹介していく。ウォーラーステインやロールズらの自由主義社会への批判、すなわち功利主義批判の哲学は一般に、自由主義の放任下で市民社会や人々の間での「公共性」や「倫理的正義」の回復を志向する、いわゆる「公共哲学」とも称されるものであるが、その公共哲学が追及する問題は、今日の2010年代以降の現代社会においても依然として深刻な問題である、グローバル経済の浸透に伴う各国の各地域にての新自由主義(ネオリベラリズム)のそれを俎上(そじょう)に載せるものであった。

本書のように、専門の学術書や学術論文ではない、岩波新書のような一般書に新自由主義批判の言説を紹介し解説するのが1993年というのは相当に早いと思う。現在の2010年代以降、日本でも一般書籍や新聞・ニュースのマスメディアにて普通に新自由主義(ネオリベラリズム)批判は幅広く一般的に行われているけれども、グローバル経済の浸透に伴う本格的な新自由主義社会の到来予測とネオリベラリズム批判を1993年の時点で「自由主義の再検討」と称して一般書籍にて出来ているのは、さすがに早い。当時90年代の日本ではまだ大多数の人は新自由主義のトピックを知らなかったし、自由主義の問題や弊害にほとんどの人が気付いていなかったから。この点でも岩波新書「自由主義の再検討」は時代を先取りして非常に優れている。

さて、新自由主義(ネオリベラリズム)とは、国家・政府の役割を極力縮小して「小さな政府」をめざし、個人の自由を確保しようとする思想を指す。一般にはそのように定義されている。しかしながら、特に経済面において今日の新自由主義政策下での政府が「平等」よりも「公正」を重視し「個人の努力や工夫が報われる市場の競争原理に基づく活力ある社会を!」のネオリベ的かけ声にて、各分野の規制緩和を進め、公的福祉政策を半ば放棄して「小さな政府」の市場万能主義風潮の結果、社会保障のケアなく、市場万能原理により過酷な生存競争にさらされ、大多数の人々が使い捨てられて自己責任論にて現在の貧困格差は合理化され放置される現状となってしまった(「貧困で底辺にいるのは本人の怠惰のせいで自己責任」という現代日本における短絡議論の横行など)。今日の新自由主義(ネオリベラリズム)政策推進下の先進国にて、多くの人が非正規雇用を余儀なくされ社会的保障のケアなく「自由な」個人として市場に放り出され結果、低賃金・長時間・仕事の安定供給なく使い捨てにされる「ワーキングプア」(正社員並みに働いているのに生活保護水準にも満たない収入しか得られない就労社会層。「働く貧困層」ともいわれる)の貧困問題はアメリカや日本を始めとしてどの国でも共通して広く指摘される深刻な社会問題である。特に2000年代以降、日本を含め急速に各国地域へ広まっていったネオリベラリズムのグローバル経済の世界の中で人々の貧富の格差は広がり、一握り少数の富裕層と圧倒的大多数の貧困層との二極化が進行している。

しかも、経済的格差の貧困から各人が機会の格差の選択不自由性の貧困へさらに滑り落ちる悪循環に加えて、「平等」よりも「公正」を重視して「個人の努力や工夫が報われる市場の競争原理に基づく活力ある社会を!」の一聴、聞こえの感触は大変によいけれど、だが明らかに新自由主義(ネオリベラリズム)的かけ声の欺瞞の問題もあった。すなわち、規制緩和や社会保障制度縮小の「小さな政府」と言いながらグローバル化の新自由主義的政策下にて格差が拡大し貧困者や弱者の増大にて治安悪化の社会不安が増すため、社会福祉政策から個人の監視管理へ単に国家が財政支出の軸足を移しているだけであり、何ら「小さな政府」になっていない。治安強化や国民の一大監視管理社会の到来にて、むしろ前よりも「大きな政府」の招来をきたすネオリベラリズム政策の欺瞞である。

その他、ネオリベラリズム政策下にて「小さな政府」が志向され国家の公的部門が民間に切り売りされると、医療や福祉や教育や生活インフラの公的サーヴィスは本来は人間生存にとって最低限度の大変に必要で重要であり、本来それらは資本による利益追求の論理で到底はかれるものではないはずなのに、公的部門にも市場万能原理が貫徹の結果、それに基づく民間企業による利益回収優先の価格設定により、貧困層に属する経済弱者が医療や福祉や教育や生活インフラ利用の社会的な公共サーヴィスを享受できなくなったり、コストがかかり採算が見込めない公共部門は、人々の生活に欠かせない必要なものであるにもかかわらず、市場の論理であからさまなサーヴィス提供の質的低下を招いたり、経営効率の観点から不採算部門が安易に切り捨てられ縮小・廃止されたりする。そうした新自由主義社会がもたらす新たな問題も今日では指摘できる。

総じて18世紀からのロックやスミスにおける古典的自由主義(リベラリズム)は、単に不合理な封建的拘束(身分、特権、因習)からの個人の解放の「自由」であったが、20世紀以降の現代社会の新自由主義(ネオリベラリズム)では、多くの人に正当な労働報酬や所得配分がなされず、各人は公的福祉らの権利保障のケアなく何も後ろだてがない「自由な」個人として市場に放り出され結果、大多数の人間が資本や少数の富裕層に過酷に使い倒される人間疎外を招いた。古典的自由主義(リベラリズム)における「自由」と、新自由主義(ネオリベラリズム)における「自由」とは明らかにその「自由」の内実が異なるのである。

ところで、この双方の自由主義における「自由」の相違を、本格的な新自由主義社会が到来する以前の時代に早くも指摘していたマルクスの慧眼(せいがん)、「資本論」(1867年)の中での以下のような旨のマルクスによる「自由(フリー、フライ)」の二面性についての言及は実に見事だという他ない。マルクスのいう前者の労働者の「自由」は自由主義における好ましいそれであり、後者の労働者の「自由」は新自由主義にての早急に改善されるべき不適切な「自由」である。

「自由(フライ)には二重の意味がこめられている。一つは労働者が自由(フライ)な人間として、封建的身分や因習に何ら捕らわれることなく自分の労働力を自分の商品として自由に処理できるという意味での『自由』である。もう一つは、彼が自身の労働力以外に売るべき商品を持たず、労働力を現実化するために必要な一切合切を持ちあわせていない、人間としての権利保障の後ろだてを何ら持たずに市場に放り出される自由(フライ)な個人を余儀なくされているという意味での『自由』である」

岩波新書「自由主義の再検討」は、第Ⅲ章にて「自由主義の陥穽」の問題を指摘し批判的に考えてきたウォーラーステイン、ロールズ、ノズィック、ドゥオーキンら「功利主義批判の論理」を展開した現代思想でのいわゆる「公共哲学」の人々を取り上げ、彼らの思想を紹介していくことで、今日の2010年代以降における世界のグローバル経済化と各国・各地域にての新自由主義の問題をも射程に入れることができた。そのため1993年発行の新書であるのに内容が古びて色褪(あ)せることなく、現在でも本新書を読んでそこから学ぶべきものは実に多い。しかも古典のホッブズ、ロックから定番のマルクスを経て、現代のウォーラーステイン、ロールズらを新書のわずか200ページの限られた紙数であるのに時系列で網羅的に取り上げ概説しており、コンパクトで非常によくできた「近現代哲学史」にもなっている。岩波新書の藤原保信「自由主義の再検討」が大学生の推薦図書にしばしば推(お)され、レポート提出の課題図書に頻繁に選定されるのも納得だ。本書はそれほどまでの良心的な良書であり、かつ名著である。

それにしても近年、岩波新書「自由主義の再検討」を読み返してみて、そこにサンデルが出てきて、しかも本書の結論として「終章・コミュニタリアニズムに向けて」にて、サンデルに代表される「コミュニタリアニズム(共同体主義)」の公共哲学をリバタリアニズム(自由至上主義)とネオリベラリズム(新自由主義)に対抗できる批判的乗り越えとして著者の藤原保信が熱烈に推していることに私は驚きであった。私は本新書は初版に比較的近い1990年代に既に読んで知っていた。当時の90年代の日本では正直言ってサンデルは、そこまで知られていなかったし、あまり熱心に読まれていなかった。功利主義哲学批判の公共哲学の「正義論」として、私の周りではサンデルよりはレヴィナスやロールズの方がはるかに人気があってよく読まれていた。私もサンデルよりかはロールズを読んで、ロールズの「正義論」の方に昔から断然シビれていたのである。昔はサンデルは日本ではどちらかといえば、あまり目立たない端役のような地味な扱いであった。少なくとも当時の私の周りでは。

ところが近年、サンデル「これからの『正義』の話をしよう」(2010年)が売れ世評人気で一躍有名となり、サンデルその人が異常に跳(は)ねたことに非常に驚いた。まさか、2010年代の日本でサンデルがここまで有名人気でブームになるとは思ってもみなかったな。今やサンデル当人とは全く関係のない所で、サンデルの「ハーバード白熱教室講義録」の書籍タイトルを借用した「ハーバード教室」やら「白熱講義」やらの名がついた怪しい類似書が、やたら量産される日本におけるサンデル・ブーム過熱の様相なのである(笑)。

昔からのサンデルの著作を読む限り、コミュニタリアニズムの共同体基盤の立場に立ち、リバタリアニズムやネオリベラリズム批判をやって、市場原理とは無縁の各コミュニティにおける共通善の研ぎ澄ましを目するサンデルの公共哲学の思想は、確かに妥当であり今日にて見るべきものがある。サンデルのコミュニタリアニズムの思想は、昨今のリバニタリズムやネオリベラリズムへの有効な対抗理論となりうる。しかしながら、グローバル経済浸透のネオリベ言説が吹き荒れる現代社会にて、いよいよ教育部門の大学も市場原理にのみ込まれ、もはや大学も一つの独立した経営体として利益を出さなければならない、政府や地方自治体の補助金に頼らず市場原理に沿った、金銭的に破綻しない独立法人でやっていける「稼げる学問」をやる「稼げる大学」にならなければいけない、そうした新自由主義政策下の強迫的な社会風潮の中で、昨今のサンデル人気のサンデルの世上での扱われ方というのは、サンデル関連の書籍が異常に売れサンデルの講義映像が大人気で多くの人々に視聴されてサンデル本人の出張講義や講演会に多数の人が押し寄せるというように、多くの学生や社会人の聴講生を呼べて大学の稼ぎ頭になって市場原理の「稼げる学問」「稼げる大学」の新自由主義的理念に合致することからサンデルその人が重宝され、また世上人気の評判が高いようにしか私には見えない。実のところサンデル自身は、市場万能主義たるネオリベ批判の急先鋒な人であるにもかかわらず、サンデルその人の世間認知の人気の扱われ方が市場原理の旨味に乗っかって、いかにもネオリベ的である。

そもそも「ハーバード白熱教室講義録」(2012年)のような大教室に多くの学生を集めて講義を行い、学生を前に呼び教壇に上げてインタビューする、まるでラスベガスのマジックショーのような、あのような楽しげなエンターテイメントな雰囲気で和気あいあいと大学の講義はやってはいけない。本来、大学講義は少人数で教員も学生も互いに切磋琢磨し、エンターテイメントの娯楽は抜きにして真剣に真面目にやらなければいけない。少なくとも私はそう思う。サンデル当人やサンデルの同僚の研究者やサンデルの弟子筋に当たる人達、また昔からのサンデルの著書の愛読者は、若者人気で多くの学生を集めることができ、メディアにも頻繁に露出し金が稼げて大学に富をもたらす、「稼げる学問」「稼げる大学」のいかにもなネオリベ的市場原理の波に乗った昨今のサンデル・ブームのサンデルの消費のされ方、今日のサンデルの世評人気をどのように思っているのだろうか。