アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(347)鄭振鐸「書物を焼くの記」

岩波新書の青、鄭振鐸(てい・しんたく)「書物を焼くの記」(1954年)の概要は以下だ。

「『この本は問題になるだろうか』『この雑誌は、残しておいてもさしつかえないだろうか』…。日本占領下の上海で文化統制は極度に強まり、あらゆる抗日的な書籍・雑誌・新聞が所持者の手によって焼き捨てられる運命に遭(あ)った。占領下で民族を裏切らず良心的に生きた中国の知識人が、その悲痛な体験と民衆の生活を生々しく描いた貴重な記録」(表紙カバー裏解説)

本新書は「わたしたちは、はじめて『占領下』の生活を体験した」の書き出しから始まる。本書の副題は「日本占領下の上海知識人」である。著者の鄭振鐸(1898─1958年)は、中国の作家・文学研究者であり、高い知識と教養を持ち、社会の中で個々の特殊現実的な目先の損得勘定にこだわらず人間の真理や正義の普遍価値を代弁できる、いわゆる「知識人」であった。著者は、日本軍占領地域下の上海で苦難の生活を強いられた「日本占領下の上海知識人」であったのだ。日中戦争(抗日戦争)勃発後、鄭振鐸は中国文芸界救亡協会、中国文芸家協会、中華全国文芸抗敵総会に属して抗日の言論を展開し、「魯迅全集」を刊行して抗日活動をしていたという。時代は満州事変からの日本軍の中国侵攻は激化し、やがて上海や南京が日本の支配下に置かれた。租界のあった上海にも日本の憲兵が乗り込み、抗日運動が潰(つぶ)されていった。

本書タイトルの「書物を焼くの記」は以下のことに由来している。当時の中国・上海では、日本の検閲により反日的な内容記述の書籍の執筆出版は禁じられ、それら書物を所有しているだけで厳しく罰せられた。そのため抗日的な本は持ち主により「自発的に」焼かれて処分を余儀なくされた。日本軍政下の上海の人々は絶望的な気持ちで泣く泣く大切な蔵書を焼く。だから「書物を焼くの記」になる。ないしは反日的内容の書籍は日本人により強制的に没収されて処分される。これは現代の焚書(ふんしょ)である。焚書とは書物を焼却する行為であり、通常は支配者や政府による組織的で大規模な書籍処分を指す。焚書は言論統制、検閲、禁書の一種で、特定の思想、学問、宗教等を政治権力が強制的に排除する思想弾圧のことである。古代中国の秦の始皇帝の時代に行われた焚書が有名である。それが近代の日中戦争時の「日本占領下の上海」にて大々的に行われたのであった。本好きの人は特に分かると思うが、紙の書籍が焼かれ灰に帰して処分されるというのは誠に心が痛む。

中国人であり、民族自決と自国の独立を望んで諸外国の祖国への侵略を不当なものとする、中国文学研究者の鄭振鐸の怒りは実のところ激しい。「書物を焼くの記」の文章は一読、穏(おだ)やかに見えるが、その文章の奥にある中国を蹂躙(じゅうりん)する当時の欧米列強、なかでも特に日本に対する著者の憎しみの怒りは激烈である。本書にて著者の鄭振鐸は「日本」という言葉を使わない。「日本」とか「日帝」とすら、もはや文字にして書きたくないのである。それほどまでの日本国と日本人に対する激しい憎悪と嫌悪である。だから本文のほとんどで「日本」のことは「敵」や「敵兵」と表記されている。例えば以下のように。

「『十二月八日』(註─1941年12月8日のこと。この日に日本は中国の英仏租界への攻撃とマレー半島上陸とアメリカ・ハワイの真珠湾攻撃をやり、アジア・太平洋戦争における太平洋戦争の開戦日となる。翌9日、中華民国(重慶国民政府、蒋介石政権)は日本に宣戦布告した)がきて、敵兵が舊(旧)租界を占領すると、わたしたちは、敵が一軒ごとに、やさがしするといううわさをきいた。一、二冊の本や新聞をもっていたためつかまった、といううわさをきいた。それから無数のおそろしい、奇怪な、悲惨なはなしをきいた。…『やさがしをやられたら、なにかあとで、めんどうなことでもあるのだろうか』…そのころ、わたしは、かかわりのあるような手紙類、かかわりのある記事、幾多の新聞、雑誌と、抗日の書籍─地図さえ、このなかにはいるのだ─を焼くのにいそがしかった」

さらには、

「同時に、各書店や図書館では、抗日書籍・新聞類の捜査がはじまった。あの家から、この家から、車いっぱいつみこまれては、はこびさられた。どこへはこばれたのか、こうした本の運命はどうなったのか、それは知るすべもなかった」

これら文章から当時の日本による中国人への文化統制政策(検閲、禁書)を通しての日本国および日本人に対する、「日本占領下の上海知識人」たる鄭振鐸(てい・しんたく)の怒りと嫌悪の気持ちを、まざまざと感じ取ることができる。さらには「書物を焼く」ことにとどまらず、著者の周りの仲間のある中国人愛国者は日本の文化局に執拗にマークされ、身の危険を感じ逃亡しようとするも日本人に殺害されて「最初の犠牲者」となった。また中国商人のある婦人は日本軍人に財産を没収された上に乱暴され、絶望して白昼に群衆環視のなか高層ビルから飛び降り自死したという。それらのことが岩波新書、鄭振鐸「書物を焼くの記」の中での「最初の犠牲者」と「飛び降り自殺」の項に詳しく書かれてある。これら「日本占領下の上海知識人」による回想は読んで特に印象深く、私の中でいつまでも強く心に残る。

回想を通しての著者の厳しい視線は、占領統治の日本軍だけでなく、日本の言いなりになる傀儡(かいらい)政権を作ったり、進んで積極的に好意的に現地での日本統治に協力したりして、その下で利得を得ようとする同胞の中国人にも向けられていた。また生活苦の打開で生きていくために不本意ながら日本人に協力せざるをえない中国人も当時は少なからずいた。中国人としての愛国の気持ちや民族の誇りを捨てて、現地の日本人にうまく取り入り上手に立ち回れば日本軍閥や日本の役所や日本の国策企業から、それなりの政治的「自由」と経済的利益は得られ、ある程度の「文化的」生活は保障されたのである。実際にそうした中国人は多くいたのだ。だがしかし、「書物を焼くの記」の著者の鄭振鐸(てい・しんたく)は中国文学研究者としての知識人の矜持(きょうじ)からそのように日本人に媚(こび)を売って上手に立ち回らなかった。あえて日本人に弾圧される過酷な中国人の道を選んだのであった。