岩波新書の赤、新藤兼人「老人読書日記」(2000年)は八十八歳になる映画監督の著者が、どのように日々書物に接し、これまで何を読んできて、その書籍から何を感じ学んできたのかという私達が知りたい事柄や本書表紙カバー裏解説にあるような「スーパー独居老人の読書三昧」の記録といった編集者が付する世間一般の思惑を遥かに越えて、単なる個人の「読書日記」や書評集にとどまらない、八十八歳の新藤兼人が、現在の自身の老いを前提に誰にでもやがてはくる人間の死に主題を収斂(しゅうれん)させて語る静かな良書だ。
若い人や壮年な者が自身の死をいたずらに語るのは場違いで後ろ向きであり、時に咎(とが)められたりするが、しかし老齢の新藤兼人が自身のことに暗に引きつけて人間の死を語ると、これが実に説得力を持って読み手に伝わるのだから不思議なものだ。私の周りの高齢者を日常的に見ていると分かるが、年をとるにつれて人間は文字を読んだり、文章を書いたり、細かなことを考えたりするのがあからさまに億劫になってきて、作業の手も思考も自然に衰えていくものである。だが、新藤兼人は八十八歳の高齢であっても、実に精密に書物を読み精密に文章を書く。本新書「老人読書日記」を一読して著者に対し誠に失礼ながら、「あの年でここまで書けるとは」の驚きの感慨を率直に私は持った。
その卓越ぶりは新藤兼人の生来的な資質の能力に由来するのはもちろんのことだが、加えて、この人は映画監督でありシナリオライターでもあって、映画仕事のためにこれまで日常的に書籍を読みこなしてきた自己研鑽(けんさん)の成果もあるに違いない。映画監督やシナリオライターは、まず企画の素材探しために日々多くの書物に当たる「多読」を重ね、かつ脚本執筆に際しては時に長い原作を二時間枠の映画にまとめる作品のエッセンスを凝縮させるホン作りにて「精読」も極めている。新藤兼人を始めとして、黒澤明、市川崑、深作欣二ら優秀な映画監督は同時に必ず優秀なシナリオライターの脚本家でもある。彼らは、いずれも大変に頭のキレる読書家である。そういったわけで昔から映画監督や脚本家の書く書評や文芸批評や読書に関するエッセイはハズレが少なく、だいたい面白いと相場は決まっている。
それにしても「老人読書日記」の新藤兼人は、なぜ本書にて「読書」を通しての人間の死ばかり執着して書くのだろうか。西田幾多郎「善の研究」(1911年)、吉川英治「宮本武蔵」(1939年) 、ドストエフスキー「罪と罰」(1866年)、永井荷風「断腸亭日乗」(1980・81年)、夏目漱石「こころ」(1914年)、アンリ・トロワイヤ「チェーホフ伝」(1984年)、マイケル・ギルモア「心臓を貫かれて」(1996年)、澤地久枝「わたしが生きた『昭和』」(1995年)に関する新藤兼人の精密な読みと、それら書籍を介しての新藤の時代の思い出が「老人読書日記」には丁寧に書かれているが、いずれも各章の最後は人間の死、ことごとく人間の死に記述が回収されていくのだ。異性との恋愛や芸術の美、物語の娯楽や自然の驚異、社会正義の遂行など、人生における人間の生の躍動を味わうことも「読書日記」の醍醐味としてあるはずなのに新藤の「老人読書日記」は、人間の死に一点集中である。この辺り、八十八歳の高齢な新藤がおそらくは、間近に来る自身の死を静かに覚悟し自身のことに暗に引きつけて、「老人読書日記」にて人間の死の主題を連続して書き連ねている新藤兼人の心持ちを読者は絶対に決して読み逃すべきではない。
本書に出てくる主な死といえば、溝口健二に師事するために新藤は京都に転居、そこでの溝口夫人の死、永井荷風の孤独な死、ロンドン留学中の夏目漱石が高浜虚子の手紙を介して知る正岡子規の死、チェーホフの病死、殺人犯ゲイリー・ギルモアの死刑執行による死、敗戦で日本の国家に見棄てられた満州開拓団員の大量死、そして乙羽信子と知り合う前に戦中に結核の病にて亡くなった新藤兼人の内妻・孝子の死である。
特に永井荷風の「断腸亭日乗」に関し、新藤兼人は「断腸亭」を繰り返し深く相当に読み込んでいる感触が新藤の語りから紙面を通して強く感じられ、「部分的に鑑賞しながら進んで行こう」の体(てい)で、本書にて荷風の日記文を頻繁に長く引用して読者に読ませる。そして、荷風の死の半年前に行きつけの浅草の食堂・尾張屋の便所で大便の便器に尻を出したまま倒れていた所を板前とおかみに発見されタクシーを呼んでもらって帰宅、そうした荷風にとっての「屈辱」から食堂・尾張屋のことは「断腸亭日乗」には以後、一切書き入れなかった逝去間際の永井荷風のエピソードを紹介し、彼の死の前日の絶筆の一文のみの日記文「四月廿九日。祭日。曇」(「断腸亭日乗」昭和三十四年四月二十九日)を引用した後の、以下のような新藤兼人の記述である。「荷風は、ああ、死ぬ、もうおわりだ、と思いつつ息絶えたのではあるまいか」という永井荷風の死の瞬間の思いを想像する「老人読書日記」の著者たる老齢の新藤兼人の文章が、言葉がとにかく重い。
「翌三十日の朝、通いのお手伝いさんがきたとき、荷風は敷布団の上に伏せて死んでいた。吐血の跡があった。ズボンを脱ごうとした様子が見える。この写真が残ったのは、死因をはっきりさせるために、警察の検死があるまでそのままにされた。そこへ報道陣が駆けつけたからである。アリゾナ食堂で倒れて以来、病臥(びょうが)をつづけていたが、いつも行く近くの大黒屋で食事をしたのち、帰って倒れたようである。ズボンを脱ぎかけていたのは、寝巻に着替えようとしたのか、トイレへ行こうとしたのか、いずれにしてもその最後は荷風らしい。人は、荷風は陋巷(ろうこう)に窮死した、ともいっているが、つねに自分を見つづけて生きてきた荷風は、ああ、死ぬ、もうおわりだ、と思いつつ息絶えたのではあるまいか。荷風は、とうとう、自分というものを貫きとおすことができた」(「荷風の断腸亭日乗」)
結核にて亡くなったチェーホフの死に際する臨終間際の最期の言葉も心に残る。臨終の間際に「空っぽの心臓に氷なんか置いても無駄だよ」「シャンパンを飲むのは久し振りだな」と言ったチェーホフの言葉を他ならぬ「老人読書日記」の著者である老齢の新藤兼人が紹介する文章が、言葉がこれまた重い。
「チェーホフは高熱のためうわ言をいったりした。オリガが彼の胸に氷嚢(ひょうのう)を押し当てようとすると、『空っぽの心臓に氷なんか置いても無駄だよ』といった。…チェーホフは差し出されたグラスを取ってオリガの方を向くと、力なく彼女に笑いかけてこういった。『シャンパンを飲むのは久し振りだな』彼はゆるゆると飲み干すと、左の方に横向きになって寝た。その直後彼は息を引き取った。彼は平素の簡素さをもって、生から死へと移行したのだ。一九0四年七月二日だった。置き時計が午前三時を指していた」(「チェーホフの『私』」)
新藤兼人は間違いなく愛妻家であり、新藤の著書を手に取る人は女優・乙羽信子との愛妻エピソードや、さらには近代映画協会の同胞で新藤兼人の友人、怪優・殿山泰司の破天荒エピソードが出てくることを半(なか)ば期待しながら新藤の著作を読むのだろうけれど(少なくとも私はそうだった)、残念ながら本書「老人読書日記」には乙羽は少しだけ、殿山に至っては全く出てこない(三國連太郎と宇野重吉は登場する)。それは前述のように、この「老人読書日記」が、人間の死に主題を絞って八十八歳の新藤兼人により一心に書き抜かれているからだ。殿山の不在と乙羽の少ない登場の代わりに、乙羽信子と一緒になる以前の新藤の内妻・孝子(新藤の映画「愛妻物語」1951年のヒロインのモデルとされる)、戦中に結核にて若くして病死した彼女の話がよく出てくる。そして「老人読書日記」にて語られる亡くなった愛妻とのエピソードは、やはり彼女の死についてなのであった。
「わたしたちは、よく夕暮れに加茂川の土堤を散歩した。夏のはじめの夕方、歩いている妻が、川下の橋を渡る市電の灯を見て、『電車の灯が寒そう』と言った。それから間もなく、妻は洗面器にいっぱい血を吐いて、結核と診断され、半年寝ついて亡くなった。そのころは、結核にかかれば死を待つほかはないといわれていた。それは昭和十八年八月八日であった。長屋の隣りのかみさんが、妻の枕もとへ駆け寄って、『旅の空でな』と泣いた」(「西田幾多郎からシェイクスピアへ」)
「妻が洗面器にいっぱい血を吐いてたおれた。結核である。そのころは結核になれば死を待つほかなかった。医者が安静にして新鮮な空気を吸いなさいといった。医者はサジを投げているのだ。家の中のすべての襖と障子をとり払い、新鮮な空気を入れたが気休めにすぎなかった。安静を保つために妻は動かなかった。生きるために、暑い夏をじっと耐えた。しかし死んだ。死後敷ぶとんをあげると、妻の胸の下の畳が腐っていた。そしてわたしは戦争へ行った」(「あとがき」)
病床で伏せていた妻の死後、敷き布団の下の畳の腐った跡を見届けて、新藤兼人が「そしてわたしは戦争へ行った」と添える最後の一文は格別に味がある。「そしてわたしは戦争へ行った」。その時に妻と同様、やがては来る直近の戦地での自身の死を予感し、新藤兼人は自らの死を覚悟したに違いない。しかし「そしてわたしは戦争へ行った」が、新藤は死なずに生きて帰ってこれた。それから新藤兼人は戦後を生きて映画を撮り続けたのであった。