アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(26)大内兵衛「マルクス・エンゲルス小伝」

岩波新書の青、大内兵衛「マルクス・エンゲルス小伝」(1964年)は、著者の大内が「マルクスとエンゲルスに対し、どれだけ惚’(ほ)れ込んでいるか」、そして「惚れてこそ分かるマルクスとエンゲルスの良さを読み手に伝える自身の役割にどれだけ自覚的であるか」といった評伝にて好著たる条件要素を見事に満たす。

ある人物に関する評伝にて、その記述の良さというのは「書く人が対象人物に対し、どれだけ惚れ込んでいるか」、そして「惚れてこそ分かるその人物の良さを読み手に伝える自身の役割に、どれだけ自覚的であるか」にかかっているとする往年の丸山眞男、福沢諭吉論にての台詞(せりふ)は誠に至言だ。確かに「評伝にて標題人物に惚れすぎると『あばたもエクボ』で正確・公正に記述できなくなる」「人物の難点や限界を指摘せず故意に隠蔽する紹介記述になってしまう」の反論があるとしても、そういった欠点隠蔽の難点より、時に牽強付会(けんきょうふかい)ではあるが「惚れたが故に強調し力説できる、その著者ならではの筆の魔力」というのも、なるほどある。記述が正確・公正でないだけで、その評伝を全否定して切り捨てるのは実にもったいない。そういうのは読み手の側に心の余裕がない。

また今日、共産主義に関しては「マルクス、エンゲルスの共産主義理論の誤謬(ごびゅう)」で「経済学批判や唯物史観の誤り、革命理論の過激さ、ついでかつての旧ソ連や東欧共産国の行く末、現在の中国や北朝鮮の状況の共産主義国の惨状を見ろ!」とヒステリックに言うのだろう。「マルクス主義はもう古い(断定)」と。マルクス主義にも誤謬はある。例えば小泉信三「共産主義批判の常識」(1949年)は昔からある古典の名著で、その「批判常識」は傾聴に値するし首肯すべきものがある。しかし、資本主義社会にてある労働問題や貧困・格差や失業・恐慌や戦争や環境問題は、どうするのか。経済領域に止まらない人間疎外や帝国主義など、資本主義体制下の包摂的支配の問題に根本から取り組んで、だが理論と実践で失敗し破産するマルクスを始めとするマルクス主義者に対し、それら現代社会における人間疎外や帝国主義への問題意識が初めから全くない、解決姿勢の皆無な人達が、超越的立場からマルクス主義の欠点を指摘攻撃しているだけの反共理論な「常識」的共産主義「批判」が多いのも事実である。

資本主義の包摂支配に端を発する現代社会の諸々の歪(ひず)みを悲壮感を持って問題にし何とかしようとするが、失敗し破綻して現実に敗北する共産主義者の理論実践と、最初からそうした問題意識が皆無で、楽天的に資本主義社会の現状を肯定する反共主義者によるマルクス主義への超越的批判とがあるなら、間違いなく私は前者の共産主義者の方に加担して貧しい自分の人生の全財産を賭(か)ける。ある問題に対し、やってみたけれど失敗し結果、何も変わらなかった場合と、初めから何もせず、やって失敗した人を端から超越批判して結果、何も変わらなかった場合とでは「何も変わらなかった」結果は同じでも、そこに至るまでの過程が異なる。実質で両者は全くの別物なのである。

小泉信三「共産主義批判の常識」は、日本の戦後の数ある反共言説の中では、労資対立での資本家の立場からする労働者への憎悪、保守や右派、天皇論者や国家主義者の立場からするところの「国家の死滅」を志向する共産主義者への憎悪を主とする感情的すぎて思考が足りない「反共」とは、さすがに毛色が違い、冷静理知的でそれなりの正当な「批判常識」であるとは思うが、やはり「共産主義批判の常識」での小泉の物言いも資本主義下の包摂的支配に端を発する現代社会の諸々の歪みを何ら問題にせず、そんな問題意識が希薄で、むしろ資本主義社会と戦後の日本の国家主義とを楽天的に礼賛肯定する立場からの反共主義者によるマルクス主義への超越的批判の感は免れないの結論だ。なるほどマルクスの「搾取論」、労働価値説に対する小泉の批判は部分的に正当な批判ではあるが、小泉の思想の背景に「資本主義や国家主義の問題にいかに向き合い、どう取り組むか」の葛藤の意識や実践が全くない。マルクスの理論と実践は人間疎外や帝国主義の資本主義体制下の問題がいまだ継続してある今日にて有効であり、マルクスにはなお読まれるべき、読むべきものがある。

「これは勉強をして書いた本でない。一老人の若い世代に対する茶話である。…今日までマルクス・エンゲルスについての読みまたは考えた分量は相当にのぼるが、伝記を書こうなど思ったことはなかった。この人々は、富士山のようなもので、登るにしても、描くにしても、わたくしなどの手におえないものと思っていた。…こんなものでも、書いて見る気になったのには多少の理由がある。それは、ちかごろ、アメリカでもそうであるように、マルクスはもうふるいという声が日本でも高く、それがまずく常識化して、マルクシズムスはもうくずれ去ったかのように早合点する人もある。しかし、わたくしの身辺の事実は全く反対で、マルクシズムの研究はこの半世紀のうちでいまがいちばんさかんで、…いまの若い世代の人々はどう手をつけたらいいか、迷うだろう、誰かがそういうことについてガイド・ブックを書いてくれるといいと思っていた。…わたくしはこんな高い山を極めてはいないのであり、マルクシストなどいえる柄でないが、長い間、この山に登った人の話を聞いたり、その写真を見たりしているので、それについての茶話でも、この山を志す若い人には何かの役に立ちはしないかと思ったのである」

以上は本書冒頭にある大内兵衛による「はしがき」の書き出し部分であり、前述のような、ある人物に関する評伝にて「書く人が対象人物に対し、どれだけ惚れ込んでいるか」、そして「惚れてこそ分かるその人の良さを読み手に伝える自身の役割にどれだけ自覚的であるか」の好著たる条件要素を見事に満たす。特に読者を「若い世代」に設定して、若者に説き伝えようとする著者の自身の役割に忠実な使命感にも似た姿勢がよい。

岩波新書の青「マルクス・エンゲルス小伝」は前半が「カール・マルクス」、後半が「フリードリヒ・エンゲルス」の構成で彼らの生涯を時系列で描きながら便宜、主要著書の内容紹介や基本概念の解説を行うかたちになっている。その他、巻末「付録」での「マルクス・エンゲルスの年譜」や「マルクス・エンゲルスについての学習」(参考文献紹介)も簡略便利で有用である。

マルクスに関し私が感心するのは、この人は政治権力や論敵との数多くの論争批判を積み重ね、ある意味それを糧(かて)にして自身の思想を構築して「生涯に渡って勝ち続けてきた人」ということである。マルクスの時代には西洋哲学史における、いわゆる「ヘーゲル以後」で、もう体系的で普遍的な世界観の哲学はなく、イデオロギー派閥のセクト主義的な論争哲学の時代であった。西洋哲学史で歴代人物の著作を連続して読んでいると、マルクスは論敵からの反論を非常に警戒し、かつ相手への論争批判を常に意識した書き方で、ある意味、神経質に構えて書いている。「ヘーゲル以前」のデカルトやカント、そして当のヘーゲルら時代的に争論がそこまで激烈になく、案外「独我」で自身の世界観構築のために奔放自由にのびのびと書き連ねている筆の傾きがあり、そういった「ヘーゲル以前」のものとは、常に他者を意識した緊張感あるマルクスの書きぶりは対照的だ。明らかに時代の針が一つ進んでいる。

そして先の「超越批判」の話に絡(から)めるなら、「マルクスを内在的に読む」ということは、前時代の先人や同時代の論敵に対しマルクスの思想がどのように異なるのか、どういった思想の射程まで含意しているのか、当時の時代状況に即した「新しさ」を読み取るべきであって、共産主義理論と現実との齟齬(そご)や後々の共産主義国の没落の全ての責任をマルクス個人に全転嫁し共産主義を超越的に否定攻撃することでは決してないはずだ。

マルクスは「ヘーゲル以後」のイデオロギー、セクトの派閥党派の論争にて負け知らずで、ほとんど勝ち続けてきた。ブルジョアジーや封建勢力のみならず、同じプロレタリアートに対しても空想的社会主義者、無政府主義者、改良社会主義者らに果敢に論争をしかけ対決し批判し反論して自身を研鑽(けんさん)し思想構築をしてきた。ヘーゲル、フォイエルバッハ、プルードン、バクーニン、デューリングらに対するマルクスの痛烈な批判があった。

確かにドイツ三月革命(1848年)は失敗してマルクスはイギリス亡命を余儀なくされる。しかし、そこで大英博物館図書館に連日通いつめ、朝から晩まで文献を読んでノートを作成し理論形成をする。この時代、1818年生まれのマルクスは30代の壮年期にあった。30代の働き盛りの壮年期に当たるマルクスの1850年代は、現実の政治から離れた理論研鑽の内的蓄えの時代であった。ドイツを追われ政治に敗北しても、それを引きずらず今度は内部に沈潜し、その不遇も自身の糧にできた。政治的敗北を理論形成の「勝ち」に転化できた。そして亡命先のイギリスにて、大英図書館に通いつめ猛勉強のこの時代が後の「経済学批判」(1859年)や「資本論」(1867年)の執筆、第一インターナショナルの結成(1864年)につながっていくわけで、マルクスの生涯の中で1850年代の内的沈潜の理論研鑽の時代エピソードが私は相当に好きだ。

同様にエンゲルスも素晴らしい。この人は友人マルクスにずっと同伴して、マルクスの理論形成の鋭さの才能に気付く。それで自身は一歩退いて、物心両面からマルクスをサポートの裏方にまわる。いわば「才能あるマルクスに主旋の第一バイオリンを弾かせ、自分は伴奏の第二バイオリンに徹する」。この人は裕福な資本家の家の出身だが、「洪水は我れ亡きあとに来たれ」式に労働者を過酷に使い倒して利潤をあげる工場経営を内心「馬鹿らしい」と思いながら、しかし自身の生活とマルクスへの経済援助のために家業の紡績事業の経営仕事をやり抜いた。「搾取」や「疎外」の様々な人間的問題を含みつつ、自分らの都合のいいように稼ぎまくって利潤をあげ、それで無邪気に喜んでいる凡百(ぼんぴゃく)の「人格化された資本」な資本家とは違い、実に馬鹿馬鹿しいと思いながら醒(さ)めた意識でエンゲルスは家業の工場経営をやる。それでマルクスが亡くなった後も、彼の意思を継いで「資本論」の続編をエンゲルスが刊行する。

マルクスとエンゲルスの無二な友情が美しい。「マルクス・エンゲルス小伝」の中で大内兵衛は「労農派」同志の向坂逸郎のことや彼の著作にしばしば言及しており、本書を読むと私はマルクスとエンゲルスの信頼友情関係が大内と向坂のそれに重なって見えてしまう。

岩波新書の大内兵衛「マルクス・エンゲルス小伝」は一般的な「自伝・評伝の良条件」を備え、かつ彼らの生涯と主要な著作、マルクス主義の基本概念をコンパクトにまとめ解説した良書だ。「マルクス主義はもう古い(断定)」などと言わずに未読な方がおられたら是非。私は本書を強く推(お)す。