アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(281)茂木清夫「地震予知を考える」

「地震予知」とは、地震の発生を予(あらかじ)め知ることだ。より厳密に学術的に言えば次のようになる。

「地震予知とは、科学的方法により地震発生の時期・場所・規模の三要素を論理立てて『予測』することである」

この「地震予知」定義にて特に重要なのが「地震発生の時期の予測」と「論理立てて『予測』すること」の二つであり、後者の「論理立てた予測」については、その通り「厳格な科学的な知見や方法」に依拠して論理的でなければならない。例えば、地震発生前に見られるとされる動物の異常行動だとか地震雲の発生ら、それら「地震の前兆現象らしきもの」は、その現象発生のメカニズムが後の地震の発生と科学的に結び付き十分に説明されるものではないので、大地震の前日に「家の飼い犬の奇声を聞いた」や「カラスの大群の異常飛翔を目撃した」や「典型的な地震雲とされる異常な雲を見た」云々は、それらを地震の前兆現象として正当な地震予知に繰り込み活用することはできない。

今日、地震予知に使える「論理立てて『予測』すること」の前兆現象としては、(1)前震の頻発、(2)地球科学的前兆(地下水位の減変、わき水の枯渇、地面の隆起など)、(3)地殻の歪み蓄積の測定分析くらいしかない。

同様に「地震の時期の予測」も地震予知においては非常に重要な要素で、これは地震予知の三要素の内で場所や規模の他の要素よりも比較的重要度を持つ。私達の日頃の実感からして地震予知がなされた場合、地震の規模よりも「一体いつ起こるのか!?」の時期を真っ先に知りたくなるものだ。

ところで、近代科学は空間や時間や観察対象を全て数値化する。しかも、その際の数値はあくまでも観察主体たる人間にとって使い勝手のよい目安の測量把握であって、時間の数値化でも、そのものの生成変化が観察の主体である人間にとって計測しやすい便宜的なものでしかない。決して科学的真理や科学の厳密さに支えられた目盛の数値ではないのである。例えば、人間が体感認知できない程の細かな時間の区切り設定は微小すぎて測量目安の役に立たないし、逆に大雑把で大きい時間区切りも広大すぎて非限定数値なため測量目安の意味をなさないのだから、両方とも人間にとって「科学的ではない」。

このことは地震予知における「地震の発生時期の予測」にても同様で、「いつ発生するか」の時間の予測については「数日前から発生の前兆がある」の直前予知、ないしは「今後数週間から数ヵ月の間の期間での発生確率が高い」の短期予測が妥当である。というのも、私たち人間の現在の平均寿命80歳前後、長寿で長く生きても100歳くらいまでの生涯時間の基準と、その他の現代社会の世代交代の変化のサイクルや避難対策の準備から逆算して、予知の時間射程は、発生の数日前から数週間前か数ヵ月前、長くても1年前程度の目安の時間間隔でなければ地震予知の意味はなさない。もはやいうまでもなく、地震予知の科学においても科学の数値はあくまでも観察主体たる人間にとって使い勝手のよい目安の便宜的な測量把握であるべきだからだ。

あまりに極小すぎて短期で直近な時間予測の地震予知、「×月×日に地震が発生する」といった超短期的かつ決定論的な地震予知は、科学的に当然不可能であるし、逆に大雑把で大きすぎる時間想定の予知は漠然として非限定なため、地震予知の意味をなさない。事実、「少なくとも30年以内に同地域で大規模地震が発生する」としたあまりに長期的な予測は「地震予知」としてナンセンスである。そうした10年以上30年以内の長期間での地震発生の見通しは、もはや「地震予知」とは言わず、一般に「地震の長期予測」という。この「長期予測」は、例えば「30年以内に××パーセントの確率で当該地域で地震が起こる」の地震発生の恒常リスクの確率論的予測である。 

このように科学としての地震予知は人間本位の時間措定の「予知」なのであって、地震発生の数日前から予測する「直前予知」や、数週間前から数ヵ月前に予測の「短期予知」を内実とする地震予知は、数百年から数千年、果ては数万年単位の活動サイクルの射程を持つ地学現象としての地震発生を「予知」して言い当てることは原理的にできない。

そうした数百年から数千年、数万年の長いサイクルにあり時に地震をもたらす地殻活動にとって、数日から数週間や数ヵ月、数年の時間単位は相対的に見てほんの一瞬の一刹那(いちせつな)に過ぎないからてある。ゆえに地震発生の日時は様々な要因にて、今日起こるかもしれないし、はたまた100年後かもしれない。私たち人間の尺度では100年の間隔は相当に長い年月に思えるけれど、地球の地殻活動での時間経過の尺度からすれば、仮に100年の間隔の長さなど、ほんの一瞬でしかない。普通に数百年から数万年単位の射程を持つ地殻の地震活動に対し、たかだか100年程度しか生きられない人間が、人間本位な時間措定の近代科学をして、数日から数週間、数ヵ月、数年の極小の時間単位にてピンポイントで地震の発生日時を「地震予知」にて言い当てようとすることが、そもそも無理といえる。

加えて、「地震予知が原理的に無理なこと」については以下のようにも導ける。内陸型地震は活断層の動き、海溝型地震はプレート沈み込み圧力の歪みがたまると蓄積した歪み解放のために地殻が割れ破壊されて、それぞれに地殻変動が起こり地震が発生する。一応このように「地震発生のメカニズム」は解明されているけれども、内陸に活断層があり海溝に歪みが蓄積すれば当該地域にて地震はいつかは発生するのだろうが、しかし、それら地殻の急激な破壊(つまりは地震)が「いつ・どこで・どれくらいの規模で起こるか」の予知は困難である。

例えば、脆弱性のある物質に両端から徐々に圧力を加えていく破壊実験をやるとして、「何秒後に破壊の現象が起こるか・どの部分から亀裂の破壊が生ずるか・その破壊は部分的なものにとどまるか、それとも全体的な破壊にまで及ぶか」は毎実験ごとにムラがあり一様でなく、ゆえに予測は困難である。これらは地震予知でいえば、地殻の急激破壊である地震に関して、「いつ発生するか・どこで発生するか・どのくらいの規模で発生するか」にそれぞれ対応する。確かに破壊実験を繰り返せば、統計見本(サンプル)が取れて破壊の確率や傾向はある程度、把握できるかもしれない。だが、次回の破壊実験にて「何秒後に・どこから・どの程度の規模で」破壊が進行するかは、確定的に予測できない。地殻の急激な破壊現象たる地震についても、その地殻破壊における地盤の割れ始めの時期や場所や割れ方のパターンと規模は毎回各地震ごとに異なり一様ではないのだから、事前に言い当てることは不可能だ。「やはり地震予知は原理的に困難ではないか」の感慨を私は持つ。

岩波新書の赤、茂木清夫「地震予知を考える」(1998年)は、1995年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の直後の出版である。本書執筆時に著者の茂木清夫は日本大学教授であり、地震予知連絡会会長の役職にあった。阪神・淡路大震災をもたらした兵庫県南部地震について地震学者や各研究会や地震予知連絡会は短期予知ができず、結果として「突然に」発生し、未曾有(みぞう)の大災害をもたらした。

当時、地震予知連絡会会長であった著者は、阪神・淡路大震災の事後に「地震学者による地震予知は困難であり、実際に役に立たないのではないか」の直接の批判・中傷と間接的な嫌味や皮肉に相当にさらされ、傷ついて精神的にかなり追い込まれ疲弊したに違いない。本書の中でも阪神・淡路大震災が起こった後に「地震予知が実際に不可能だったのだし、今後も見込みがないのだから、そのために税金を使うのをやめて、地震がおこった直後に、その情報を迅速に生かして災害の軽減をはかる方策に転換すべきだ」という厳しい意見が著者の周辺にて実際にあったという(28ページ)。

しかしながら、そうした意見に強硬に反論する形で本新書は、「目先の予知の成果や極端な悲観論に流されることなく、今後も着実に地震予知の研究や観測体制の強化をはかっていくべきだ」の行間からの悲壮感が漂う著者による痛切な書きぶりになっている。より露骨に言って「確かに阪神・淡路で地震の直前予知や短期予知はできなかったけれど、だからといって政府や国は地震予知研究への公的予算を即削減したり、予知のための地震観測体制強化の現方針を安易に断念するべきではない」旨の地震学者と地震予知連絡会からする強い懇願である。地震予知の学会・業界の発言力維持と利権への思惑も透けて見えて、そこが岩波新書の赤、茂木清夫「地震予知を考える」を一読し、地震学会とは無関係で部外者である私からして誠に気の毒に思えたし、また笑い所でもあった。

「30年におよぶ地震予知の取り組みの成果をどう見ればいいのだろうか。過去の地震データの解析から予知の可能性を探り、極端な楽観や悲観に流されることなく、今後も着実につづけていくことの大切さを具体的に論じる。長期予測・短期予知の方法をしめし、さらに東海地震の予想、警戒宣言一本やりでない注意報の必要性についても提言」(表紙カバー裏解説)