アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(410)田中彰「明治維新と西洋文明」

岩波新書の赤、田中彰「明治維新と西洋文明」(2003年)の概要はこうだ。

「男⼥の⾵俗、議会、⼯場、公園に博物館─ 明治初年、近代化の課題を背負って⼆年近い欧⽶視察の旅を続けた『岩倉使節団』にとって、⻄洋⽂明との出合いは衝撃の連続だった。その公的な報告書である『⽶欧回覧実記』を丹念に読み解き、『大国』への道を選んだ近代⽇本がその経験から何を受け⽌め、何を排除していったのかを浮き彫りにする」(表紙カバー裏解説)

本書の副題は「岩倉使節団は何を見たか」である。本新書のテーマとなっている「岩倉使節団」については、

「岩倉使節団とは、明治維新期の明治4年(1871年)11月10日から明治6年(1873年)9⽉13⽇まで⽇本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視を全権とし、政府⾸脳陣や留学⽣を含む総勢107名で構成された。1871年11⽉10⽇(陰暦)に蒸気船で横浜港を出発し、太平洋を⼀路カリフォルニア州サンフランシスコに向った。アメリカ⼤陸を横断しワシントンを訪問。アメリカには約8か⽉の⻑期滞在となる。その後、使節団一行は⼤⻄洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した」

明治維新を経て、開国の文明開化政策を取り、幕末に欧米列強との間で交わされた日本の不平等条約改正のために自国の近代化を早急に果たさなければならない課題を抱えた明治新政府において、欧米主要国との接触交渉と西洋文明の見聞視察が早々に求められていた。その役割を担うべく維新から4年後の1871年に、かつて薩長倒幕派と結んで王政復古を果たし、近代天皇制国家の成立に尽力した急進派公家の岩倉具視を全権とした岩倉使節団は海外派遣された。岩倉具視を大使とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳を副使としてアメリカ・ヨーロッパを巡遊。もともと岩倉使節団は、条約改正の予備交渉の意図を持って派遣されていた。だが、当初の目的とは異なり、制度・文物の視察にとどまり、条約改正の予備交渉は出来ずに1873年に帰国している。

なお岩倉使節団の外遊中は太政大臣の三条実美、西郷隆盛、板垣退助ら参議が留守政府を預かった。後に征韓論争の明治六年の政変(1873年)にて、内治優先論(国内政治優先の立場)を説いたのが大久保利通や木戸孝允ら、すべからく岩倉使節団に参加の面々であり、逆に征韓論にて朝鮮への武力進出の積極外交を主張するも、その論争に破れて下野する征韓派が西郷隆盛や板垣退助ら、ことごとく岩倉使節団に参加していない留守政府を預かるメンバーであったことは誠に興味深い。岩倉使節団に参加の大久保利通らは海外視察の経験から当時の欧米列強の実力の程を身をもって知り、同時に日本の国力のなさを痛感して帰国後に国内政治に専心で国力を蓄える内治優先の立場を取った。条約改正の予備交渉の意図を持って派遣された岩倉使節団が行く先々で諸外国からほとんど相手にされず、条約改正のための予備交渉の当初の目的変更を中途で余儀なくされ、結局は西洋諸国の制度・文物の視察に終始した国際政治下での厳しい日本の現実を、岩倉使節団に帯同した大久保利通や伊藤博文は心底、思い知らされていたのである。

他方、岩倉使節団に参加していない海外経験のない留守政府の西郷隆盛や板垣退助は、いまだ世界を知らず、ゆえに当時の日本の国力のなさに思い至らず、征韓論で朝鮮の鎖国政策の武力打破への積極外交の衝動に突き動かされて結果、西郷や板垣ら征韓派は一斉に下野し、維新期の藩閥政府は最初の内部分裂に至る。岩倉使節団への参加の有無が、後の征韓論政変にての明治政府内の最初の分裂原則をなしていたことは注目に値する。「岩倉使節団の歴史的意義」に関する主要なものの内で特に、この点は留意されたい。

岩倉使節団の公的な報告書「特命全権大使米欧回覧実記」を編修し執筆したのは、使節団に随行し記録係の任にあった久米邦武であった。「米欧回覧実記」の編修者であった久米は帰国後、修史局で史料編纂(へんさん)に従事し、帝国大学文科大学教授となる。しかし、1891年に「神道は祭天の古俗」という久米の発表論文が神道家や国学者から皇室への不敬、「国体」毀損(きそん)の非難を浴び、帝大教授を辞職。久米は学会から追放されてしまう。そういった久米邦武が編修・執筆した「米欧回覧実記」であってみれば、本記は以後、近代天皇制国家の下で敬遠され半ば封印されて人々から忘れられた記録となった。そうして岩倉使節団並びに久米邦武「米欧回覧実記」が思い起こされ再び世の注目を集めるようになるのは、天皇中心の大日本帝国が崩壊した戦後の1945年以降である。1960年代から70年代にかけて「実記」についての論及が次第に多くなり、1975年に「米欧回覧実記」原本が復刻された。後に岩波文庫から「米欧回覧実記」全5冊(1996年)も出ている。

岩波文庫「米欧回覧実記」全5冊を読むと、岩倉使節団による各国欧米視察の概要が訪問国別に取りとめもなく膨大に記録されており、読んで茫漠(ぼうばく)とした思いに襲われる。そこで岩波新書の赤、田中彰「明治維新と西洋文明」(2003年)である。本新書は「米欧回覧実記」全5冊のダイジェスト版となっており、男⼥の⾵俗から議会ら政治制度、⼯場の資本主義、公園や博物館の街の様子の視察報告まで、本史料の読みどころの紹介や適切な読み方を教えてくれる大変に有用な「米欧回覧実記」に関する解説書となっている。しかも、著者の田中彰その人が岩波文庫版「米欧回覧実記」の校訂・校註をなした方なので、氏の解説は信用できる。

岩波新書「明治維新と西洋文明・岩倉使節団は何を見たか」を執筆した田中彰は、以前に同岩波新書から「小国主義・日本の近代を読みなおす」(1999年)の書籍も出している。この前著での近代日本に対する氏の問題意識を引きずって、つまりは近代日本はもともとは自国の実情をわきまえた堅実で健全な「小国主義」の明治国家として出発したが、日清・日露戦争と対外戦争にて戦勝を重ねるに従い、明治末から大正・昭和の時代にやがて大陸膨張路線の「大国主義」に日本は変貌し、次第に中身の伴わない分不相応な大国主義に陥って歯止めが効かず、ついにはアジア・太平洋戦争にて米英の大国と無謀な戦争衝突して最期は大日本帝国は崩壊に至るとする、近代日本の大国主義志向への強烈批判の歴史認識が氏の中に一貫して強くある。

そのため岩波新書「明治維新と西洋文明」の中でも、岩倉使節団の公的報告書である「米欧回覧実記」を紹介して解説するに当たり、まだ開国して間もない日本が小国たることを冷静に受け止めて、欧米諸国から先進な西洋文化を無心に学んで摂取しようとする当時の使節団一行の認識や姿勢が見受けられる「実記」記述に対し、田中彰は異常なまでの好感の高評価を下す。逆に欧米列強に蹂躙(じゅうりん)され征服・支配されるインドや中国のアジアの国々を「半開の非文明国ゆえの当然の帰結」として、日本が同じアジアの小国でありながら、インドや中国を冷ややかに暗に下に見て蔑視する岩倉使節団の当時の明治国家の政治指導者の認識には、後に日本が「小国主義から大国主義へ」転回する萌芽の兆候を早くも読み取り、田中彰は大変に厳しく批判的に評している。

先に引用した本新書の表紙カバー裏解説の、「岩倉使節団の公的な報告書である『⽶欧回覧実記』を丹念に読み解き、『大国』への道を選んだ近代⽇本がその経験から何を受け⽌め、何を排除していったのかを浮き彫りにする」という文章には、こういった前著「小国主義」より連続してある著者・田中彰の、近代日本が「小国主義から大国主義へ」後に転回することに対する痛烈な批判の問題意識がある。そのことも踏まえて岩波新書の赤、田中彰「明治維新と西洋文明・岩倉使節団は何を見たか」は読まれるべきであろう。そして本新書の前後で岩波新書の赤、田中彰「小国主義・日本の近代を読みなおす」も連続して読んでおくことが望まれる。