アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(112)齋藤孝「読書力」

明治大学文学部教授(教育学)の齋藤孝その人に対して、私は前から陰ながら注目していた。「齋藤孝は一応は大学教授であり、物事を一般の人よりは深くよく知っている知識と教養ある人であるはずなのに、この人は相当にヒドイ。齋藤孝と彼のファンの読者は、この先どこへ向かって行くのだろうか!?」の率直な好奇と気の毒な思いがあったからである。

氏は異常に多くの能力開発の自己啓発本を連続の量産で大量に出している。岩波新書だけに限っても、例えば「読書力」(2002年)「教育力」(2007年)「古典力」(2012年)などである。他社からの書籍では「質問力」(2006年)「段取り力」(2006年)「雑談力が上がる話し方」(2010年)「思考を鍛えるメモ力」(2018年)「大人の人間関係力」(2018年)といった具合だ。なぜ「××力」ばかりの能力開発、能力信仰の著作の連発なのか。 齋藤孝の「××力」の膨大書籍に対し、本を読んで「××力」が本当に身に着くかどうかの能力付与効果の疑義からの批判ではなくて、「××力」なる能力本がはびこる現代社会の人々の肥大化した力崇拝や能力信仰そのものをトータルで問題にするような社会全体の議論や、その観点からの齋藤孝の著作に対する批判的書評を読みたいと私はかねがね思っていた。しかし、そうした議論や書評はほとんどないのである。

事実ここ数年、書店に行けば「××力」の似たようなタイトルの教育本・自己啓発本がやたら大量生産で販売されており、私は閉口している。「世の中の人々は、そんなに力が欲しいのか。それほどまでに能力信仰なのか」と思わずにはいられない。しかし、そうした昨今の力崇拝の能力信仰隆盛の由来も社会状況に絡(から)めて理解できなくはない。不況で日本経済は厳しく、この先の見通しは依然として暗い情勢を背景に倒産、解雇、失業で、いつ路頭に迷うか分からない。そうならなための自衛策、まさかの万一の時の打開策として、同様により豊かな生活、充実した幸福な人生を送れる社会的成功のカギとして今の世の中、求められ生き残れるのは能力があって実力がある者だ。能力があるに越したことはない。現代社会にて家柄の出自や個人の運は、あまり関係ない。

そうしたわけで取り組むべきは「自己生存マネジメント」としての教育、自己啓発という個人の能力伸長である。能力があることは好ましい、あって損はない。否(いな)、能力は頼りになる。むしろ自己成長の意欲なき者は去れ。能力のない者は現代社会において淘汰されて当たり前。社会で脱落するのは、能力開発に自己投資しない怠惰、絶えざる学び直しで自力で必要な能力を更新・伸長しない自助努力の欠如ゆえの自己責任のような次第にエスカレートした「能力自己責任論」とでもいうべき風潮にいつの間にかなってしまって、そういった文脈状況の中で個人の力崇拝の能力信仰がどんどん幅を利かせ不気味に肥大化していく。その結果、街の書店には「××力」の類いの能力本があふれ、やたら人々が「力を欲しがる」事態になるわけだ。

だが、よくよく考えてみれば万一のための「転ばぬ先の杖」、もしくはより良い生活のための「成功のカギ」として人々の不安や欲望に外部から働きかけて、半(なか)ば強迫的にスキルアップの能力伸長に誘導し商材を売りつける資格・検定商法は昔からあった。しかし昨今の能力本の場合、かつての資格・検定商法よりもかなりタチが悪くて、きちんとした実体カリキュラムや資格検定付与の制度的保障の事後ケアなく、書店の店頭販売でとりあえずは手早く売って買わせて、「××力」の怪しい造語タイトルで顧客を引きつけ、力系の啓発本を繰り返し何冊も購入させる。まるで齋藤孝のように(笑)。

もちろん、私は能力開発や自己啓発そのものを全否定したりはしないが、少なくとも能力の習得には地味で地道な反復の訓練が伴うし、数年いや数十年単位の時間がかかるかもしれない。時に失敗したり、挫折したり、しかし継続し、その都度見直し修正して自身で工夫の努力をしながら育て一生をかけて開花させていくものではないか、個人の能力というものは。少なくとも能力本を読んだだけで習得できる、お手軽でインスタントなものではないと私は思う。

また「能力がないよりかはあるに越したことはない、能力がある方が本人は幸せになれる」旨を能力信仰にハマっている人はよく言うけれど、それは能力の有無で有能な使える人間と、能力がうまく発揮できずに使えない人間の上下の序列をつける能力信仰に依拠した人間理解の蔓延(まんえん)にやがては繋(つな)がる。そうした能力本位で人を判断する社会は到底、健全な社会とは言えない。

昨今の能力本における能力習得のイメージは、ちょうどオンライン・ネットゲームのアイテム課金の発想に似ている。しかも、人の実人生をゲームの冒険に重ねて、あの手この手でアイテム課金する陳腐なロールプレイング・ゲームだ。要するに人間の実人生も山あり谷ありの冒険のロールプレイング・ゲームだから、「転ばぬ先の杖」もしくは「成功のカギ」として、各人が人生の各ステージにて(年齢、性別、時代状況など)能力本購入を通じて、その都度便宜「××力」という万能魔法の能力アイテムを金銭購入して自身にプラスする。すると自分の能力数値がアップして有能になって強くなる。あたかも「××力」という能力が客体としてあって、それを購入して外部から装備する。能力の物象化である。それで、しばらくすると「能力自己責任論」で人々の不安が煽(あお)られたり、「人生の成功」をちらつかせられ誘惑されたりして、また別の魅力的(?)な「××力」のアイテム課金を勧められ、つい次々と金銭購入してしまう。自分の中で根気よく辛抱強く能力を育てるのではなく、あたかも人間の能力が外部からその都度、プラスで付与される最新モードの装備アイテムのような発想である。完全なゲーム脳だ。

その他にも教育や自己啓発というのは、能力獲得のみに終始せず、目に見えて直接の具体的な成果の利益が出ない領域も本来は幅広く含むものなのに、能力信仰で能力だけに焦点が当てられると、常に「どれだけ上手にスムーズにできるかどうか」が唯一の目的基準となったり(方法知への矮小化)、教育や自己啓発の動機が常に「その能力獲得により、どういった利益を当人にもたらすか」になってしまう問題もあり(成果や利益の見返りを常に求める教育)、能力信仰に基づく教育や自己啓発には多くの弊害を指摘できる。

さて齋藤孝である。この人は一応は大学教授であり、物事を一般の人よりは深くよく知っている知識と教養あるはずの人である。しかしながら「××力」の能力信仰本が量産される現状を昨今の社会背景から読み解くリテラシー能力もなければ、人々が力崇拝の能力信仰に走る風潮に対する問題意識も皆無である。むしろ逆に齋藤本人が「××力」の能力本を相当な数で大量に連発で出しまくっているとは。

いくらあなたが能力伸長して優秀な人材になりたいとしても、一度は冷静に考えてみよう。齋藤孝の著作は、例えば「読書力」「教育力」「古典力」「質問力」「段取り力」「雑談力が上がる話し方」「思考を鍛えるメモ力」「大人の人間関係力」といった具合である。「読書力」や「教育力」は何とかかろうじて分かる。本来、それらは読解力や指導力と称するべきものだが。だが「古典力」「質問力」「段取り力」「雑談力」「メモ力」「人間関係力」というのは明らかに変である。そんな力の能力が存在するのか!?どう見ても「××力」の形式に勝手に当てはめて無理矢理に造語しただけのワケの分からない、普通に考えて明らかに怪しい能力だ(笑)。齋藤孝ファンの読者は、齋藤孝が提唱する「××力」の各種能力を身につける以前に、齋藤が連発する怪しい造語の「××力」そのもののおかしさに気づくことができる力(能力)を、まずは自分の中で養うことから始めよう(苦笑)。

岩波新書の「読書力」を読んで、ますます「齋藤孝、この人は相当にヒドイ。齋藤孝と彼のファンの読者は、この先どこへ向かって行くのだろうか!?」の率直な好奇と気の毒な思いが私には残った。