アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(121)大貫隆「聖書の読み方」

私は洗礼を受けたり教会に定期的に通ったりするキリスト者ではないのだが、それでも聖書は好きで昔から繰り返し読んでいた。また、より深く聖書を読んで味わいたいから「聖書入門」や「聖書講話」の解説書籍もよく読む。先日も岩波新書の赤、大貫隆「聖書の読み方」(2010年)を読んでみた。

大貫隆は、新約聖書学者の荒井献の弟子である。岩波新書の荒井献「イエスとその時代」(1974年)は、コンパクトな新書ながら新約に関し精密丁寧に記述された名著の良書と言ってよく、荒井に対する前からの好印象が私にはあったし大貫の旧著も読んで知っていたので、同じく岩波新書の大貫隆「聖書の読み方」も相当に期待して読んだ。

正直、これは参った。大貫の「聖書の読み方」は、そのタイトル通り、聖書の即物的な「読み方」アドバイスに終始する空疎な内容なのであった。つまりは「聖書の読み方」として、旧約と新約に収録の各編の内容、時代状況や重要語句や基本概念の解説、模範的な読みの解釈の仕方、聖書の根底に共通してあるキリスト教精神の抽出を初学の人にも分かりやすく教授する内在的な「聖書の読み方」の聖書入門では、ない。大貫の「聖書の読み方」は、そのタイトル通り、本当に外的で即物的な聖書の「読み方」の形式的な姿勢や心構えのアドバイスに終始する内容であったのだ。

本書の詳しい内容はこうだ。まず非キリスト者の聖書初読者や何度か聖書を読もうとしたが中途で挫折した一般読者にとっての聖書を読んでみた際の難しさや不思議さの疑問や戸惑いなど、当人らの悩み文章を直接に掲載する。これら聖書に関する疑問や戸惑いの声は、著者が出講している大学講義にて学生にアンケートをやって集めたものだ。そうして著者の大貫隆は、それら生の声から「聖書の読みづらさ・青年たちの声と私の経験」とし、自身の経験も加味して「読みあぐねる聖書」の「聖書の読みづらさ」の原因を一般化し、以下の4点を挙げる。

「1・『正典』と『古典』であるがゆえの宿命、2・聖書そのものの文書配列の不自然、3・異質な古代的世界像、4・神の行動の不可解」

その上で続く内容は「聖書をどう読むか・私の提案」たる処方箋の提示である。これも一般化し箇条書きにして「提案1」から「提案5」まである。

「提案1・キリスト教という名の電車・降りる勇気と乗る勇気、提案2・目次を無視して、文書ごとに読む、提案3・異質なものを尊重し、その『心』を読む、提案4・当事者の労苦と経験に肉薄する、提案5・即答を求めない。真の経験は遅れてやってくる」

途中まで律儀(りちぎ)に真面目に読んでいて私は失笑を禁じえず、あまりに馬鹿馬鹿しくて思わず笑ってしまった。「聖書の読み方」とあるから、キリスト教の聖書の基礎知識など内容の読み方の基本や模範を教えてくれるのかと思えば、「読み方」の提案、例えば「提案2・目次を無視して、文書ごとに読む」だとか、「提案3・異質なものを尊重し、その『心』を読む」だとか。確かに厳密にいえば、それら「提案」も「聖書の読み方」といえなくもないが(笑)、そういうのは聖書という書物に直接に向き合う以前の、あまりに初歩的すぎる最初の形式的な心構えの読みの姿勢といった程度のものでしかない。聖書が読めずに理解できない聖書初心者や非キリスト者に対して、「異質なものでも毛嫌いせずに尊重して、その『心』を読んでみろ」の「読み方」提案集で、わざわざ新書一冊を上梓するのは実にくだらない。

事実、「異質なものでも毛嫌いせずに尊重して、その『心』を読んでみろ」云々の薄っぺらい形式的アドバイスは、特にキリスト教の聖書だけに限らず、どのような書籍を読む場合でも何にでも広く無難に当てはまってしまう詐欺的「提案」なのであった。「聖書の読み方」といえば、そうした表層次元での読みの姿勢や心構えのアドバイスではなくて、聖書記述の内容に即して突っ込んだ分かりやすい聖書解説を誠実に施すべきではないか。

また「読みあぐねる聖書」の「聖書の読みづらさ」の原因分析にしても、「聖書そのものの文書配列の不自然」や「神の行動の不可解」の聖書記事の配列や記述印象の表面的なことではなく、例えば、私たち日本人は多くが民族宗教たる神道を無自覚に信仰しており(民族宗教とは、個人の内面にて自覚的な決断契機の信仰がなくても、その民族共同体に生まれ所属しているだけで、自然に伝統祭祀に参加し信仰したことになってしまう習俗習慣と混同されやすい特色の宗教のこと)、ゆえに民族宗教とは異質な、世界宗教たるキリスト教における聖書記述内での神からキリスト者に課せられる、個人の自覚的で厳しい決断信仰の内実を多くの日本人は肌身に強く実感して理解することができないなど、「(日本人にとっての)聖書の読みづらさ」に関するキリスト教を理解し難いことへのより踏み込んだ内的考察も、本来であれは展開できるはずだ。

「大貫は、このような実質的に内容のない駄本で一冊上梓のカウントを無駄に稼いではいけない」。岩波新書の大貫隆「聖書の読み方」を一読して、そうした思いが私には去来する。もう本書はさっさと飛ばして大貫隆「イエスという経験」(2003年)と「イエスの時」(2006年)を読者は早々に読むべきだろう。本書「聖書の読み方」よりも深い内容があり読みごたえがあって、いくらかマシである。

最後に念のため、岩波新書、大貫隆「聖書の読み方」の概要を記した紹介文を載せておく。

「聖書は信仰をもつ人だけが読むものなのか?本書は聖書を、広く人びとに開かれた書物として読むための入門書である。特定の教派によらず、自主独立で読む。聖書学者の著者が、自身の経験と思索をもとに提案する『わかる読み方』。キリスト教に関心がある人はもちろん、西洋思想を学ぶ人にも格好の手引きとなる」