アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(185)内田義彦「読書と社会科学」

スミスを始めとしてマルサス、リカードらの古典派経済学とマルクスの近代経済学と、河上肇の日本経済思想史の研究で知られる、内田義彦の岩波新書の著作は「資本論の世界」(1966年)と「社会認識の歩み」(1971年)と「読書と社会科学」(1985年)であり、奇(く)しくも内田の「岩波三部作」のような体裁になっている。

岩波新書の黄、内田義彦「読書と社会科学」は、著者の内田に言わせれば「これは、経済学史家である私が、自分の問題と経験をもとにして書いた私流の読書論であり、社会科学論である」。本新書は三つの章立てにて、「Ⅰ・『読むこと』と『聴くこと』と」「Ⅱ・自由への断章」「Ⅲ・創造現場の社会科学」の全三章からなる。前半の「Ⅰ・『読むこと』と『聴くこと』と」は本書タイトルの「読書と社会科学」における「読書論」に該当し、後半の「Ⅱ・自由への断章」と「Ⅲ・創造現場の社会科学」は「読書と社会科学」タイトルにおける「社会科学論」の方にそれぞれ対応し展開されている。私としては本書にての読者論と社会科学論とを一読して「なるほど、そういうことか」と時に感心させられたり、「まぁ、いろいろあるわな」と軽く読み流したりということになる。

「Ⅰ・『読むこと』と『聴くこと』と」の読書論に関し、例えば「読書会の難しさ」とか「みだりに感想文を書くな」の分析や提言は「なるほど」と感心させられる。すなわち、読書会への参加や読後に感想文を執筆する前提で本を読んでしまうと、他人に通じやすい「他人向き」の「耳障(みみざわ)りのよい」会合発言や感想文に向かって本を読む悪い癖がついてしまうので良くないという趣旨である。この点については私の実感からしてもよく分かる。読書会にて皆の耳目を集めるために、あえて飛躍した新奇な読みの解釈を人前でしてみたり、感想文にてよい評価(つまりは好成績)や共感を読み手から引き出したいがために、結局は模範的で無難な余所行(よそゆき)の読みに終始する残念な結果になってしまうことはよくある。著者が言うように「読書とは一人でやる孤独な営み」だ。ゆえに読者会や感想文にて読書を安易に他人と共有してはいけない。

また「読書には二通りの読み方がある」旨のアドバイスにも私は納得させられた。読書には「情報として読む」と「古典として読む」の二通りの読み方があるという。前者は新しい情報を得るための読書であり、後者は情報を受け取る自身の眼を養うための読書である。著者が奨励するのは後者の「古典として読む」読書の方で、「古典として読み」=「情報を受け取る自身の眼を養う」ような読み方とは、情報を受け取り思考判断する自身の物の見方を変える、つまりは読書を通じて読む主体の私が変わるような自身が変化し成長する読書である。この「古典として読む」ことは同じ書籍を何度も反復し繰り返し読んで、かつ考え掘り下げて深く読み込むことだ。「あの時はこう読んだけれど浅はかだった、…『本当はこうだったんだ』と、後に再読し読めるところにこそ古典本来の味があり意味がある」と著者はいう。以前は浅くしか読めていなかった書物でも繰り返し読んでいると、やがて「本当はこういうことだったのか」と従前の曖昧(あいまい)さが氷解して一気に読みの理解の視界が開けることは事実ある。

もちろん、古典の対象書籍の記述内容は変化しないのだから、この場合、古典を読んで理解をする読書をする私の方が変わったのである。つまりは「本当はこういうことだったのか」と感じられるようになったのは、読み手の私が変化の成長を来(きた)したからに他ならない。こうした読む主体の私が変化し成長する、同じ書物を何度も繰り返し考え掘り下げて読む「古典としての読み」は、単に新しい情報を得るためだけに本を手に取る「情報としての読み」とは明確に区別される。本書では「こうした『古典としての読み』の習慣は社会科学の読書として不可欠である」としている。

この点に関しても私の実感からしてよく分かる。自身の物の見方や思考が変わる「古典としての読み」は、質の深さを極める丁寧な読書だ。これは「情報としての読み」にて読書量や情報量の多さをいたずらに拡げる粗野な多読とは異なる。最近では丁寧に質を極める「古典としての読み」ではなく、粗野に量をこなす「情報としての読み」の方が、もてはやされ過ぎる。そうした現代社会の趨勢(すうせい)にて、昨今の多読を誇る個人の読書自慢(「現在でも月100冊以上を読む本の虫で、これまでに数万冊を読破」などという自己紹介だとか)や速読ブームの風潮とは明白に一線を画した、本書にて奨励の堅実な読書論を読んで私は実に胸がすく思いがする。もはや繰り返すまでもなく、1年間で何冊本を読んだかとか一冊を読むのにどれだけ短い時間で読了できるだとかは、ただ文字通り「たくさんの本を短期間で読めた」というだけのことでしかない。そうした読書は、自身が変化し成長する当人の身になる理想的読書とは何ら関係がない。

さて、後半の「Ⅱ・自由への断章」と「Ⅲ・創造現場の社会科学」は、前述のように本書タイトル「読書と社会科学」における「社会科学論」の方に対応している。この後半の二つの章は、本新書の著者たる内田義彦の他著や内田が専攻の経済学史の同時代の人たちの著書と類似、ないしは重複する内容の社会科学論である。すでに多くの読者が気付いていることだとは思うが、ここで直截(ちょくせつ)に言って、岩波新書の内田義彦「読書と社会科学」の後半の二つの章は、大塚久雄「生活の貧しさと心の貧しさ」(1978年)に所収の大塚久雄と内田義彦の対談「社会科学と読者」と語りの表現、内容ともにほぼ同じである。内田は岩波新書「読書と社会科学」の執筆に当たり、大塚との「社会科学と読者」をめぐっての過去の対談をかなり参考にし、あえて記述を重複させている。このことから岩波新書の黄、内田義彦「読書と社会科学」を読む人は、大塚久雄と内田の対談「社会科学と読者」も併(あわ)せて読むとより理解が深まり有益である。