アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(143)森本あんり「異端の時代」

岩波新書の赤、森本あんり「異端の時代」(2018年)は岩波新書の中でも近年まれに見る力作だ。まず本書は、ある思想の概要やその思想が状況の中で果たした役割以外にも、「思想が思想として成立するとはどういうことなのか」思想成立の条件を「正統と異端」の概念を介して吟味する内在的考察の思想論となっている。こうした思想そのものを内在的に本格的に論じる思想論は、近年では昔ほど見られなくなった。それゆえ本新書は読みごたえがある。

岩波新書「異端の時代」の概要はおよそ以下だ。まず「序章・正統の腐蝕」にて、2000年代以降のアメリカでのトランプ大統領の登場や日本での小泉純一郎内閣の成立に、既成政党の正統性(「共和党らしさ」や「自民党らしさ」)に反発し、わざと敵対勢力の対抗軸を作り、その論点だけにのみ人々の耳目を集中させて人々を煽(あお)って大衆人気の支持を取り付ける善悪二元論の劇場型政治、今日の世界に蔓延するポピュリズムの反知性主義を「正統の腐蝕」問題の観点から指摘する。その上で「第二章・『異端好み』の日本人」では、政治学者であり日本思想史研究者でもある丸山眞男の「正統と異端」論を読み解くことを通して、本来は宗教的術語であった「正統と異端」概念を政治や文化一般の領域にまで拡大し、その素地の拡がりの可能性を読者に再確認させる。

それから「何が正統を決定するのか」について宗教の三要素、正典と教義と職制に即しキリスト教史を概観しながら、それぞれに検討する。その検証が「第二章・正典が正統を作るのか」「第三章・教義が正統を定めるのか」「第四章・聖職者たちが正統を担うのか」の三つの章にて行われる。続く「第五章・異端の分類学」以降では「正統と異端」の宗教史的変遷について、古代・中世の公的な宗教会議に依拠した公会議主義における分派・異端・異教から、近代より現代に至る教団や宗派から解放された私的個人への転回の対称図式にて「正統と異端」を担う主体の劇的変遷を描き出す。その上で現代の「宗教の個人主義化」、さらには「個人主義の宗教化」における正統形成要素の条件は正典・教義・職制ではなくて、「信憑性構造」である(正統が正統であるためには、それが社会全体に前提されている信憑性の体系の中で、まさに信じられていなければならない)と結論づける(230ページ)。そうして「終章・今日の正統と異端のかたち」にて、再び現代社会に蔓延するポピュリズムの反知性主義を批判する最初の議論に戻り、以下のように強く主張して本論を結ぶのであった。

「現代には、非正統はあるが異端はない。すでに紹介した通り、古今東西の歴史に見る真正の異端は、みな志の高い人びとである。知的に優秀で、道徳的に潔癖で、人格的に端正で、人間的に魅力のある者だけが、異端となる資格をもつ。そうでない者は、安んじて正統にとどまるがよい。真正の異端はまた、一人よがりの正義を振り回したりしない。…単独ではあっても孤立はしていない。その目線はまっすぐに目的地へと向けられており、その歩みは思い上がり(ヒュプリス)とは無縁の着実さを示している。…そのような異端だけが、やがて正統となる。正統となったら、次は自分が新たな異端の挑戦を受ける立場となる。それに正面から応えつつ課題を担い続ける腹構えが必要である。批判されても中央にどっかりと居座り続ける図太さと憎たらしさをもたねばならならい。それがさらに次なる若き異端の群れを育て、鍛えることだろう。そのようにして大舞台が回り続けることが、健康な社会の微表である。もし現代に正統の復権が可能だとすれば、それは次代の正統を担おうとするこのような正真正銘の異端が現れることから始まる以外にない」(239・240ページ)

さらには「あとがき」末文にても、「日本に真の異端が生まれ、その中から腹の据わった新たな正統が生まれることを願いつつ」(254ページ)と再三述べて筆を擱(お)く、著者・森本あんりの徹底ぶりだ。

岩波新書「異端の時代」のサブタイトルは「正統のかたちを求めて」である。著者の森本あんりによれば、「もし現代に正統の復権が可能だとすれば、それは次代の正統を担おうとするこのような正真正銘の異端が現れることから始まる以外にない」。現在の腹の据わった真正な正統は、以前には正真正銘な異端であったものが正統に取って代わり、やがては自らが真正な正統となったものである。そして、以前は異端であった今日の正統は、今度は自身が逆に新たな次代の正真正銘な異端からの挑戦を正面から堂々と受ける。こうした真正な「正統と異端」との正面対決の成り代わりの健全な対抗サイクルを幾度も経て時代の大舞台が回り続け、「正統のかたち」は時代の中で醸成され成立するのであった。

現代における正統の復権のためには、時代の正統を批判し脅かし取って代わり、やがては自身が次代の正統になろうとする同代の正真正銘な異端が、その「健全な社会の微表」たる正統と異端との対決成り代わりサイクルの駆動力として何よりもまず必要となる。その際の真正な異端の条件とは森本によれば、知的優秀さや道徳的潔癖さや人格的端正さや人間的魅力と、一人よがりや思い上がりではない他者との連帯が求められるという。「真正な異端であること」の条件は誠に厳しい。

このような時に潔癖とも思える程に厳しい、森本からの「真正な異端であること」の条件は、本論前半にて丸山眞男の「正統と異端」論の日本思想史研究を読み解くなかでの、日本にはそもそも支配階級を脅かすようなダイナミズムを発揮する新しい規範創造力を持った真正な異端が伝統的に存在しない、せいぜいあるのは正統形成への努力なく、政治権力や従来権威の正統に対して端から嘲笑したり、屈折した怨嗟(えんさ)の恨みを持つ、森本が言うところの「なんちゃって異端」のみとする、日本の非真正な「異端」の伝統的あり方に対する強い批判の問題意識に支えられていた。

また他方で、真正な異端がやがて正統に取って代わる健全な対抗サイクルの仕組みは、「キリスト教も古代の宗教世界では初めは異端だった」ないしは「宗教改革の際、ルターは自身の立場を異端とは考えていなかった」など、西洋のキリスト教史を通しての「異端発生のメカニズム」を特に本論後半から詳細に考察し検証し得た「正統と異端、それぞれの出自や境界線は後代の宗教学が想定したがるほど実は明確ではない」という旨の、著者の森本自身の自負の確信に支えられていた。

それら本論展開での主な二つの議論に裏打ちされて、結語での時に潔癖とも思える程に厳しい「真正な異端であること」の条件が最後に導き出されていた。そして繰り返すまでもなく、そのような厳しい条件をクリアした規範創造力たる真正な異端だけが、時代の正統と正面から対決でき後に正統に取って代わって、やがては自身が次代の正真正銘な正統となり、森本における「正統のかたち」の歴史サイクルは完了一回りするわけである。

著者の森本が「正統と異端」論における発生成立のメカニズムの考察を通して、規範創造的な真正な異端が日本社会にて伝統的に成立しないことを、特に日本社会における非真正な「異端好み」の伝統として嘆き、また現代世界にて真正な「正統の腐蝕」が進む中で、だからこそ正真正銘な異端がまず成立することを通して、その異端の挑戦を受ける真正な正統も存続でき、真正な異端と正統との対抗サイクルが正常に回る原理的理想を本論にて描く、そもそもそうした真正な正統と異端が切実に求められるのは、序章と終章にて指摘され問題にされている現代世界に蔓延するポピュリズムの反知性主義に抗対する是正・克服のための処方箋(しょほうせん)としてあった。

今日、世界に蔓延するポピュリズムの反知性主義は、本書で挙げられている例えばアメリカのトランプ大統領や日本の小泉首相の事例にて、時に自らを旧勢力への対抗と新たな改革を志向する「異端」だと言い張ったり(小泉首相の「抵抗勢力よりなる古い自民党をぶっ壊す」発言など)、同時にまた自らを対外勢力への敵対と自国防衛の旧来の正道保守へと回帰する「正統」だと言い募(つの)ったりする(トランプ大統領の「グローバル経済や海外からのアメリカへの移民に対抗して古い強いアメリカを取り戻す」発言など)、何ら内実がないのに、その都度「正統と異端」の立場や言葉を無節操に便宜で使い分け、「正統と異端」それぞれの良イメージを大衆に振り撒(ま)いて自身への賞賛支持を取り付ける彼ら政治リーダーの目に余る振る舞いの内にあった。

わざと敵対勢力の対抗軸を作り、その論点だけにのみ人々の耳目を集中させて人々を煽って大衆人気の支持を取り付ける善悪二元論の劇場型政治、今日の世界に蔓延するポピュリズムの反知性主義にて真正な実質を何ら伴わないフェイク(偽物)な「正統と異端」イメージの濫用が、岩波新書の赤、森本あんり「異端の時代」ではまさに問題にされているのだ。そうして、その問題由来は、森本においては真正な正統と異端の不在、ないしはそれら両者の健全な対抗サイクルの不機能に求められるのであった。それは同時に「思想が思想として成立するとはどういうことなのか」思想成立の条件を「正統と異端」の概念を介して指し示す内在的考察の硬派な思想論にもなっている。