アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(241)柴田徳衛「東京」

ある書籍が残念ながら、それ一冊で内容に熱狂出来なかったり読みごたえに欠けたりする場合、その一冊のみで完結させず、他の類著と読み比べてみたり、シリーズものであるなら前著や次著との断絶・連続性を意識して読み進める工夫の「読書の楽しみ」がある。

昔の岩波新書で「日本の都市三部作」ともいうべき新書があった。柴田徳衛「東京」(1959年)と林屋辰三郎「京都」(1962年)と直木孝次郎「奈良」(1971年)である。その中でも岩波新書の青、柴田徳衛「東京」は、「京都」を執筆の林屋辰三郎や「奈良」を執筆の直木孝次郎が歴史学者であり、彼らが現在都市の歴史をさかのぼって主に記述するのとは対照的に、まさに現代都市「東京」が抱える都市問題に焦点を当てて書いており、他著「京都」「奈良」とは、さすがに読み味が異なる。岩波新書「東京」の著者・柴田徳衛は財政学・都市問題専攻の研究者であり、本書を執筆時には東京都立大学助教授であった。

岩波新書「東京」の執筆意図について著者はいう、

「東京の現状やその当面している問題を個別にとり扱った本は数多い。官庁や公益事業の諸会社あるいは都庁の各局各課などから、無数の事業報告・年報・調査資料が出されている。しかし、それらの多くは相互に関係がなく、またなぜそうした問題が出てきたかという根源までさかのぼって考えてはいないようである。私は、それらの諸問題を相互に関連させ、日本全体の動きのなかからいま一度理論的に東京を把握し直してみたいと思った」

その上でさらに、

「しかし実際のところ、…東京はあまりに広く、そこに内在する問題が複雑で、私の能力をもってしては、そのほんの一部にしかふれられなかったし、また、困難な課題であった。そうした意味で、本書はまだきわめて不十分な『試論』である。ただこれが東京を愛する人々の目に止り、その関心と興味をそそり、毎日の生活環境や都政を論ずる手がかりとなればたいへん幸だと思う」

林屋辰三郎「京都」や直木孝次郎「奈良」のように歴史文化の文脈から、その都市の出自経過をたどる幾分ロマンティックな奔放自由な書き方ではなくて、柴田徳衛「東京」は本書執筆時の最新データを駆使して1959年現在の「東京」の都市問題を厳密にあぶり出す硬質な書きぶりが何よりの魅力といえる。昔の岩波新書の、いわゆる「日本の都市三部作」は、まず林屋辰三郎「京都」と直木孝次郎「奈良」を読み、その上で最後に続けて柴田徳衛「東京」の本書を読むと各新書の読み味の相違や断絶対照の趣が存分に味わえる「味読の楽しみ」を享受できるのではないか。そうした工夫の読書術が有効であるように思う。

柴田徳衛「東京」にて挙げられているのは「消費市場(マーケット)としての東京」、それに伴う「住宅難は解決できるか」「交通地獄」「上下水道の課題」「過密都市における災害と事故への対応」の各種問題であり、その他「都政とは何か」の議論が扱われている。これら各種トピックは本書出版時の1950年代のそれであり、詳細内実は変わっているものの「東京」における都市問題の枠組みそのものは60年以上経った2010年代の今日でも何ら変わっていない。現在の「東京」には依然として住宅問題や交通問題や災害・事故対策問題が未解決のまま山積しており、ある時代に提起され議論された問題は遂には抜本的解決の日の目を見ず、いつまでもそのまま「早急に解決が望まれるべき問題」としてありつづけるのかという虚無すら感じる。

現在、私は東京に住んでいない。実は以前にも東京の街に住んだ経験はない。自分が生まれ育った現在住の地方都市(大分市!)から時に上京し東京に滞在することはあるが、「いつ行っても東京は人が多すぎる」の感慨に尽きる。岩波新書の柴田徳衛「東京」を一読すれば分かるけれど、「東京」の各種の都市問題は東京への一極集中の過密の現象にそのほとんどが起因している。人々が東京へ一斉になだれ込む一極集中の過密現象を解消できれば、「東京」が抱える都市問題の相当は改善ないしは解決されるに相違ない。