アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(17)林屋辰三郎「京都」

書籍というのは中身を熟読して新たな知識習得したり、内容を味わって楽しむ以外にも、その書籍を携帯し読んでいる所をわざと人に見られて、「あーあの人は雰囲気ある人だな。物事の道理をわきまえて分かっている人だな」と他人を納得させる、そうした書籍の小道具的「見せ本」な使い方の読み方も実際にあると思う。

岩波新書の青、林屋辰三郎「京都」(1962年)は、旅行の観光での短期滞在や進学や仕事での長期移住にて外から京都に入って来る人が何気に携帯していると何かしら絵になる、「あーこの人は雰囲気ある人だな。物事の道理をわきまえて分かっている人だな」と少なくとも私は納得させられてしまう好印象を引き立て演出する小道具的な格好の「見せ本」である。京都に下車予定の中途の新幹線車中にて美しい女性の方が、岩波新書「京都」を静かに読書している風景に出くわしたならば、それだけで私は完全にノックアウト(笑)、間違いなく彼女に惹(ひ)かれ好きになってしまうだろう。

肝心の書籍の中身に関して、林屋辰三郎「京都」は章立て構成の工夫が大変に優れている。現代の近代都市であるが、同時に古くからの歴史都市でもある京都、その京都の「時間と空間」の両軸を考慮した著者による章立て構成が実に心憎い。先史の時代から古代、中世、近世、近現代と時代区分して古い時代から最新の現代まで順番に「京都」を述べていく。しかも、その際に特定の時代に京都の特定地域を対応させ「一時代一地域」のセットにして、その地域に特化した寺院仏閣の名称や固有の地名を太字にし濃く印字強調して集中的に述べる。例えば、歴史時代以前の地質学的自然形成にて先史時代の京都なら「序章・湖底の風土」で神泉苑、古代原始の縄文時代の京都なら「一章・京都の古代人」で賀茂、古代の平安時代の京都なら「三章・平安京の表情」で東寺、中世の鎌倉時代の京都なら「八章・京都における鎌倉的世界」で高尾・栂尾(とがのお)、中世の室町時代の京都なら「九章・新しい京都の誕生」で京の中心部の町、近代の幕末・維新期の京都なら「一四章・幕末と維新と」で三条河原をそれぞれ取り上げるというように。

内容的には比較的オーソドックスで無難な記述であり、ある程度の日本史の知識がある方なら既知な基本の歴史内容である。しかし、最新の学説や情報をあえて盛り込んでいない所が版刷を重ねても増補で改訂の必要なくそのまま増刷できるので、その点で本書「京都」は実に「編集者思いな新書」なのかもしれない。私が所有しているのは1962年発行の第4刷で、近年でも本書は増刷販売されているが、おそらく最新の刷も初版とほとんど内容は変わっていないはずだ。

「京都」に関し、幸運なことに私は大学進学で京都の街に数年間、実際に住んで生活したことがあった。その街を本当の意味で知るには短期の観光や旅行滞在ではなく、実際に年単位でその地に住んで生活しなければ、その街のことは肌身で感じて経験的に本当の意味で分からないだろうと思う。昼夜朝晩、春夏秋冬、晴天の日も破天な日も実際に住んで生活してみなければ。そういった自身の幸運もあり、本書「京都」を読んでいると「なるほど」な紙面上の京都の歴史知識の活字理解以外にも、実際の京都の街の現地の思い出の記憶や街角の雰囲気、その場所の空気が自然と思い起こされ非常に楽しく読めた。

他方、京都と同じくらい好きな街に広島の尾道がある。私は尾道出身の大林宣彦監督の尾道を舞台にした尾道映画が好きで、これまでに何度となく尾道を訪問し坂道小路を散策したりしているのだけれど、しかも尾道に入る時には新幹線ではなく、わざと海辺の在来線を使って毎回尾道入りするのだが、最短で日帰り、長期滞在したとしてもせいぜい数日程度なため、どうしても尾道の街を本当に知った気持ちになれない。「本当の意味で街を知るには年単位で実際に住んで、その地で生活してみなければ」。毎回尾道の街を後にする際、そうした思いは常にある。大林の尾道映画2回に渡る尾道三部作は、いずれも素晴らしく何度となく観返したくなる。毎回の初々しい歴代ヒロインと、彼女らの脇をしっかり支えるベテランで常連な大林組の俳優とスタッフたちに加え、監督の大林宣彦が尾道出身で高校卒業まで尾道の街に長く住んで実際に生活していたから街の全貌を経験的に肌身を通して感じ知っている。だから大林宣彦が撮る尾道映画は毎回毎作、素晴らしいのだと思う。

さて岩波新書の青、林屋辰三郎「京都」に関しては、現実に京都に行き本書を携帯して、例えば伏見を散策したら「一一章・京都に吹きこむ新風」の章を、西陣に行ったら「一三章・京都の伝統的産業」の章をその場所でその都度読むと、また新たに感じる特別な感慨が湧(わ)き起こって面白いかもしれない。