アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(18)オルドリッジ「核先制攻撃症候群」

岩波新書の黄、オルドリッジ「核先制攻撃症候群」(1978年)は日本語訳の初版発行が1978年で、米ソ東西冷戦下での両大国の核軍備競争、その軍拡競争を表向きで理論的に強力に支える戦略的核武装の核抑止の軍事政策に対し、副題にて「ミサイル設計技師の告発」とあるように、アメリカ側の戦略核「ミサイル設計技師」が「告発」し徹底批判する内容の新書だ。

ここで本書には直接に書かれてはいない、軍拡競争を進める核兵器保有国による核抑止論の問題について、前提となる話をまずまとめておくと次のようになる。

そもそも核抑止論以前に、「軍事力を高めることが戦争防止につながり、平和をもたらす」という一般兵器による軍事的な抑止効果の考えがある。自国の軍事力が相手国より高ければ、もしくは両国の軍事バランスが均衡していれば、仮に戦争になれば泥沼になり収拾がつかなくなるのでリスクとコストの観点から相手国は戦争を仕掛けてこない、またその地域での軍事力のパワーバランスが安定している場合、互いに抑止の力が働き、結果として戦争は回避されるとする。あえて現実には実戦使用をしないが、配備増強してひたすら備える相手国に対しての示威行為たる軍事抑止力の理論である。

ところが軍事による抑止力というのは「相手側に恐怖感の懸念を起こさせて抑え込む力」であり、そのためには抑止のための軍事力はどれだけ必要なのか、自国の都合それ自体で客観的に決まるのではなく、常に対立する他国との関係性において決まる。つまりは「相手国と均衡、もしくは相手国よりも凌駕(りょうが)」の判断にて抑止のための軍事力は決まるのである。軍事力が抑止になるためには、「現実には使うつもりはないが、相手国が攻撃してくるなら我が国も反撃する」という、あたかも互いに相手の喉元にナイフを突きつけて身動きできず固まっている状態であって、実は緊張状態の下たまたま均衡が保たれ抑止が働いているだけの一時的な擬似的「平和」でしかない。仮想敵国がどれくらいの軍事力を備えているか客観的に分かりにくく、「軍事力の均衡」というのは双方の主観的思い込みに依存する面が大きい。その結果、互いに疑心暗鬼になり、抑止のための軍事は原理的に増強・拡散のエスカレートする傾向をもつ。「相手国に差をつけられ凌駕されないよう我が国でも更なる軍備増強を」というように。

そして、現代の国際政治の常識からして核兵器は物的破壊力、人的殺傷力にて共に圧倒過剰な最終兵器であるため、現実には実戦使用をしないが「相手側に恐怖感の懸念を起こさせて抑え込む力」たる抑止力誇示の力は絶大であり、ゆえに軍拡競争は最後には必ず核保有にまで行ってしまう。一般に軍事増強にて戦争抑止といった場合、必然的に最後は核開発、核兵器保有の道を絶対に選択してしまうのである。ここに至って軍事力による抑止論は、そのまま核抑止論になる。そこで改めて「核抑止論」とは、

「核兵器の保有は、その法外な破壊力のために、かえって戦争を抑止する力となるという考え方。核兵器を使用しようとした場合、自国も相手国から核兵器による報復反撃の破滅的な被害を覚悟せねばならず、そのため最終的に核兵器の使用を互いに思いとどまらせるという論理。『恐怖の均衡』という考えに基づくもの」

ここまでが核抑止論の形成由来についての一般論の前提話だ。以下、岩波新書のオルドリッジ「核先制攻撃症候群」に即し話を進めるとこうである。

「ミサイル設計技師」である著者がアメリカの核ミサイル技術開発に現役従事していたのは1970年代で、東西冷戦の体制下、米ソ両国ともに核軍拡競争は熾烈(しれつ)を極め、また相当な程度に核兵器開発が進み、前述のような核抑止論が自明の国防理論として幅を利(き)かせていた時代である。そこでミサイル設計技術者の著者は「カウンターフォース」の戦略思想、「言外に攻撃」という軍事戦略の軍事思想を現場にて上層から徹底して叩き込まれる。「カウンターフォース能力の向上」とは、戦略核武装における核攻撃にて、より効果的な敵国の無力化遂行のため戦略的軍事目標を狙う際の圧倒的な爆発力と精確な命中率の能力向上を技術的に果たすことを内実とする。本書での著者の分析によれば、核抑止論での軍拡競争にて量的に拡大する核兵器の配備がいよいよ量的飽和を迎え、これ以上核ミサイルの数を増やすことが「相手側に恐怖感の懸念を起こさせて抑え込む力」の抑止効果の観点から無意味になってくると、その量的飽和から質的向上へ移行の「量よりも質」、いわゆる「量質転化」が生じ結果、兵器の精巧化に焦点が向けられるようになってきたというのである。また核兵器の射ち合いは全面的核戦争にエスカレートし、そうなれば両国どちらも破滅に陥るので現実には考えにくいが、もし仮に万が一、相手国のソ連から核攻撃をアメリカ本土が受けた場合、アメリカが反撃する報復戦力にて「確実破壊」能力の精度を上げる必要もある。

以上の二点を主な背景とする核抑止力の「量から質へ」の転回を果たすカウンターフォース能力開発の戦略思想は実のところ、もはや抑止力ではない現実使用目的な圧倒的第一撃で仮想敵国を無力化しようとするアメリカの先制第一撃能力の開発に他ならず、カウンターフォース能力向上の究極目標は現実に相手の反撃を許さぬほどの圧倒的第一撃能力開発にあり、ここに至って現在のアメリカは「核先制攻撃症候群」に陥っているという。戦略的な量質転化の結果としてのカウンターフォース能力の軍事戦略は核兵器の抑止力名目から実戦使用の核先制攻撃への戦術転回を意味し、現在のアメリカが核攻撃のミサイルボタンを先に押す「核先制攻撃」の可能性は十分にあるとする本書にてのアメリカの兵器開発現場からの「ミサイル設計技師の告発」となるわけだ。

そもそもの始まりは、核抑止論以前に一般兵器の軍事力による抑止論という、実際には使用しないが抑止のために配備して軍備増強する「恐怖の均衡」の擬似的「平和」の理論が最初にあって、そうすると相手国との軍事力均衡のために互いに疑心暗鬼となり、まさに「崖下へ向けて全力でアクセル踏み込むチキンレース的醜態」たる破滅的な軍拡競争に参加するはめになって、「現実には決して使用しないし確実に抑止力になる」の言い訳名目で、ついにはエスカレートして核開発の核兵器保有にまで手を出し、さらに核軍拡競争のチキンレースを続けて、その核配備が数的な量的飽和に達すると、より過剰な新たな抑止の名目が求められ、今度は戦略核武装の圧倒的な爆発力と精確な命中率を目指す質的能力向上の「量質転化」が起きて、するとこれまではあくまで核抑止論にて実戦使用はしない誇示の示威的軍備でしかなかった核戦略が、いつの間にか「言外に攻撃」という「カウンターフォース」の戦略思想という核先制攻撃能力を実際に検討し遂行を目指す、核先制攻撃の現実的軍事戦略へと転回する。最後の、実戦使用しない核抑止力の名目から「カウンターフォース」の戦略思想を経て現実に先制攻撃を検討し、その遂行もあり得るとする軍事核利用の戦略思想への転回が強烈に決定的であり、この由来をたどれば、そもそも最初の「実際に使うつもりは全くないのに平和のために、なぜか軍備増強に邁進する」(?)軍事抑止力理論のナンセンス(不毛さ)が根源端緒の問題なわけである。

以上のような一連の流れで押さえると、核抑止論批判の反核平和の原水禁の運動は、実は「核抑止論」における、前半の具体的「核」兵器そのものについて「非人道的」とか「人類滅亡へのプロローグ」など主に感情的に全力否定するのではなく、むしろ放っておいても最後は必ず核武装の選択をしてしまう軍事力の「抑止」により「平和」がもたらされるとする後半の「抑止論」の理論の方を実は重点的に問題俎上(そじょう)に載せ徹底して否定し批判し尽くさなければならないはずである。反核平和の原水禁運動にて、目先の「核」に意識を奪われてはいけない。本当に批判し問題にすべきは「核抑止論」における、後の本体の「抑止論」の方だ。

結局のところ理性的に考えて、現代の国際政治のリスクとコストの常識からして、また人道上の観点からしても、現実に相手の反撃を許さぬ程の圧倒的第一撃な核先制攻撃を検討し選択することは普通ならあり得ない。しかし、軍事力による抑止理論からの一連の流れで、その連続した流れの中で一貫して考えることを強(し)いられると、人間とは誠に不思議なもので異常に固定化し執着して限定された狭い範囲であえて不自由に物事を考え感覚が麻痺(まひ)して、時に信じられないような非理性的な判断決定を下すことは往々にしてあり得る。本書には直接に書かれてはいないが、アメリカ大統領や政府首脳の高官、国防相の役人、現場の軍人参謀らが、核抑止論からの「恐怖の均衡」の極度の緊張持続を強いられ続ける状態下にて、その心理的圧迫にやがては耐えきれなくなり、疑心暗鬼や視野狭窄で正常な理性的判断が出来ず(「今もし我々から核先制攻撃を仕掛けなければ、やがてはソ連に先手を打たれアメリカ本土が先制核攻撃を受け、その後にいくら我々が報復核攻撃をしたところで、もはや手遅れなのでは。ならば、こちらから核先制攻撃を!」という非常に切迫した心理状態)、個人ないし集団で暗示的な異常心理に陥って結果、核先制攻撃を決断選択する可能性も現実にはあり得る。そういった意味で「核先制攻撃」は、まさに一時的な精神錯乱状態の元で下される非理性的な判断思考の病的判断病理の「症候群」である。この意味において、本書の「核先制攻撃症候群」というタイトルは絶妙だと私は思う。

とは言え、オルドリッジの「核先制攻撃症候群」を昔に初めて読んだ時、米ソの東西冷戦の情勢下にて著者が述べるようなアメリカによるソ連に対してへの「核先制攻撃」の現実的可能性は皆無に近く、実際にはあり得ないと率直に私は思った。というのも、このような「核先制攻撃症候群」にて核先制攻撃を決断する際の絶対条件は、先制の第一撃が現実に相手の反撃を許さぬ圧倒的第一撃でなければならず、もし先制第一撃にて反撃の余地を残せば、必ず敵国からの報復核攻撃を受け結果、核兵器の射ち合いで全面核戦争の泥沼化、米ソ両国ともに破滅に陥る。ゆえに核先制攻撃は、圧倒的(ノックアウト的)第一撃能力でなければならない。しかしながら、著者が指摘するようなカウンターフォース能力向上の核兵器の爆発力の圧倒化や命中率の精確化にて、仮想敵国のより効果的な無力化のための攻撃に寄与したとしても現実問題、ソ連が大量に配備している各地の核弾頭ミサイルの格納サイロ(発射台)、その他、堅固無数の軍事目標を先制第一撃で全破壊する戦闘能力が当時のアメリカにも、同様にソ連にもあるとは到底思えなかった。また核弾頭ミサイルを積んだ原子力潜水艦も近海に多数潜航しており、いくら圧倒的第一撃とはいえ、それらを一度の一撃で全て破壊し尽くすことは現実には不可能である。一つのサイロでも一隻の原子力潜水艦でも先制第一撃で破壊し損なえば、たちまち報復の反撃の核攻撃を受け互いに戦争の泥沼になる。

核先制攻撃がやれる絶対条件は、後に相手国から報復の核攻撃をされないように最初の先制第一撃で敵国の全ての軍事施設や軍事目標や軍事兵器を徹底破壊し完全に相手を無力化することで、そうしなければ互いに報復の核兵器の射ち合いになり、どちらも滅亡に至る。その場合、原理的にいって核先制攻撃はあり得ない。そういった意味では、奇妙にも米ソの冷戦体制下にて核抑止論はかろうじて機能していたともいえる。

そして今日、私が非常に相当に気になるのは近年(2010年代)の東アジア情勢、北朝鮮の核開発をめぐる米朝の対立である。冷戦時代の旧ソ連の対抗戦略核武装の大きさ規模ならアメリカは躊躇(ちゅうちょ)するが、現在の北朝鮮程度の核軍備なら、敵基地攻撃への圧倒的第一撃で相手に反撃を許さぬ程の核先制攻撃をアメリカは北朝鮮に対し遂行でき、かつ北朝鮮からの報復核攻撃もアメリカ本土には無いと完全予測して先を読みきった場合、アメリカは北朝鮮に核先制攻撃を仕掛けるのではないか。現在のアメリカ大統領、政府首脳の高官、国防相の役人、現場の軍人参謀らが「核先制攻撃症候群」の病理にイカれ、先制核攻撃のミサイルボタンを我先にむやみやたらと押したがる、核攻撃が北朝鮮本国にもたらす破滅的破壊と、近隣の東アジア諸国、韓国や日本の同盟国への戦禍の甚大被害は無視して何よりもまずは自国のアメリカ最優先、「アメリカ本土の安全保障確保のために、とりあえずは北朝鮮に対し核先制攻撃をやりたくてやりたくて仕方がない」の「核先制攻撃症候群」の妄想に取り憑かれてしまう可能性の危惧は、今日のアメリカの対北朝鮮政策に関し、現実的に一貫し切迫して私にはある。

人道上の見地からして、いかなる状況であれ核先制攻撃には断固として私は反対である。