アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(482)加地伸行「儒教とは何か」(儒教を考える その3)

(今回は、中公新書の加地伸行「儒教とは何か」についての文章を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、加地伸行「儒教とは何か」は岩波新書ではありません。)

今日、儒教とは何かを知りたい人には、そのままのタイトルである中公新書の加地伸行「儒教とは何か」(1990年、増補版・2015年)がよく読まれているようである。加地伸行「儒教とは何か」の概要はこうだ。

「儒教には、四角四面の礼教性の強い倫理道徳であり、しかも古い家族制度を支える封建的思想という暗いイメージが色濃くつきまとっている。しかし、儒教の本質は死と結びついた宗教であり、それは日本人の生活の中に深く根を下ろしている。第二次大戦後進められた個人主義化により、さまざまな歪みと弊害とを露呈させている今日、〈人間の心〉を問題とする儒教の根本を問い直し、その歴史をたどりながら、現代との関わりを考える」(表紙カバー裏解説)

本書にて、「儒教の本質とは死と深く結びついた宗教である」というような、儒教は社会の倫理道徳というよりは元々、死への畏(おそ)れに対し、祖先から子孫への招魂再生を説く宗教であり、祖先と子孫とをつなぐ生命倫理的な考え方から何よりも「孝」(子から親への親愛の心)の徳目が中心にある、とする旨である。確かに孔子が創始の儒教は全くの孔子の独自(オリジナル)の独創ではなく、孔子以前の古代中国の宗教的な祭祀・儀礼に関する思想(プレ儒教)を元にしているのだから、「儒教とは死と深く結びついた宗教である」とする定義の理解は全くの見当違いで間違っているとはいえない。しかしながら、儒教を新しく唱えた孔子の力点は、葬送祭祀を司(つかさど)る宗教的なもの、ゆえに祖先崇拝など子から親への「孝」の徳目に重きを置いた旧来的な儀礼一般を批判し乗り越える所にあった。そこにこそ孔子が開祖の儒教の画期は確かにあったのである。つまりは孔子が創始の儒教における力点は以下の2点であった。

(1)孔子の儒教の基本徳目は「孝」や「礼」ではなくて、「仁」である。

今日でも儒教といえば「孝」の徳目や「礼」の励行を重視し、(中公新書「儒教とは何か」の加地伸行を始め)それら実践を熱心に勧める識者は多い。しかしながら、そもそもの開祖である孔子による儒教成立の画期の本来性を見れば、孔子における儒教の基本徳目はどこまでも「仁」なのであって、人と人とを結ぶ親愛の情である「仁」の徳目を孔子は最重要視したのであった。この対等に人と人とを結ぶ親愛の情である「仁」が何よりも最初にあって、その「仁」の徳目から後発で自然ににじみ出るものが、子の親への親愛の心、ひいては祖先・年長者に対する恭順の姿勢である「孝」や、人が他人を尊重する態度や行動となってあらわれる礼儀作法・社会規範の「礼」である。

儒教成立以前の中国の伝統思想にて、宗教儀式に由来根拠を持つ礼儀作法や社会規範の「礼」が時代とともに様々に変わる危うさを、また「仁」に該当するような何ら心からの親愛の気持ちもないのに、中身は空っぽで、しかし表面的にはあたかも手厚く礼を尽くし儀礼に即して恭(うやうや)しく応対したり、年長者や祖先に対し、いかにもな恭順な態度で形式的な礼のみ尽くすことの偽善の不毛を、孔子は身をもって知っていた。だから、孔子の儒教においては「孝」や「礼」ではなくて、人を結ぶ親愛の情である「仁」が何よりも重要視されたのである。

孔子は「徳治主義」(為政者みずからが道徳の修養を積んで徳を身につけ、それを周りに及ぼして人民を道徳的に感化することで国家を統治する考え)の立場をとった。孔子は人と人とを結ぶ親愛の情を「仁」と呼び、人が他人を尊重する態度や行動となってあらわれたものが「礼」(礼儀作法や社会規範)であると考えた。そして、権力による強制・抑圧に基づく政治の法治主義を否定し、「仁」の徳によって人民の心を感化し、「礼」の作法によって人の行動を整える「徳治主義」を説いたのだった。

確かに人を従え国を治めるのに、「礼」の形式的な儀礼作法の厳格な励行や、外部からの「法」による厳しい規制、時に罰則を伴う形で人民ならびに一国を治める方法もあるだろう。だが孔子は、そうした形式的で外部強制的な儀礼作法や法の締め付けによる政治を是認しなかった。何となれば孔子が創始の儒教では、最初から安直に「礼」や「法」に依拠することなく、それら形式的・外部強制的ではない、まずは為政者みずからが道徳の修養を積んで「徳」を身につけ、その「徳」を周りに広く及ぼして人民を道徳的に感化することで、やがて「孝」の心や「礼」の作法が自然と整い、ついには人と国とを統治できるとする「徳治主義」の立場をとるからである。この為政者みずからの「徳」性の道徳的感化により国を治める「徳治」の政治への志向をして、後々まで孔子の儒教が「合理主義」「人間中心主義」「教養文化主義」と肯定的に評せられる所以(ゆえん)である。

(2)孔子の儒教道徳の実践は、理想政治(徳治主義)実現のために為政者が身につけるべき道徳的人倫なのであって、一般の人に向けて幅広く説かれた教えではない。

今日、孔子の「論語」を読むほとんどの人が勘違いしている。「論語」にて述べられる孔子による儒教道徳の教えは、理想政治(徳治主義)実現のために国王や諸侯ら、選ばれた特定少数の為政者(政治指導者)が身につけるべき道徳的人倫の高度な政治哲学なのであって、決して一般の人に向けて幅広く説かれたものではない。

孔子の死後、弟子たちが編纂(へんさん)した孔子と弟子との言行録が「論語」である。「論語」は、儒教の四つの根本教典である「四書」(「論語」「孟子」「大学」「中庸」)の内の一つとされる。「論語」を読むと、師の孔子と弟子たちがあたかも自身に対する自己修養のために儒教倫理に基づく「徳」の修得に各自努めているように読め今日、孔子の「論語」を手に取り読むほとんどの人が、同様に自分のことに引き付け自身が体得すべき自己修練の書として「論語」を読んだりしているけれども、「論語」の中にある孔子の儒教道徳の教えは、どこまでも理想政治(徳治主義)実現のために為政者が身につけるべき道徳的人倫の政治哲学なのであって、国王や諸侯ら選ばれた特定少数の為政者(政治指導者)に対し説かれたものであった。

孔子は、春秋戦国時代末期の魯(ろ)の国の出身で、長い苦学の末に52歳でやっと魯の官吏となり、その知識と実力を認められて魯の国政に参加した。しかし、政治改革をめぐる政争に敗北して56歳の時に魯を去り、以後14年間、弟子とともに諸国を遊説し、自身の理想政治(徳治主義)を説くが、結局はどの国にも採用されず仕官の願いは叶(かな)うことなく、晩年は魯に帰り弟子の教育に専念して74歳で亡くなった人である。こうした境遇の孔子、並びに師の孔子に帯同した弟子たちは、各国を遍歴しては、その都度、各地の国王・諸侯らに自分たちが提唱の「徳」に基づく「徳治政治」の理想と諸政策に賛同してもらい、孔子ら一同に「礼」を尽くして自分たちが招聘(しょうへい)されることを強く願っていた。

諸国に遊説して儒教の「徳治」の政治理念を説く孔子と弟子たちは、現代風の俗な言い方をすれば、フリーで飛び込み営業の私的な政策ブレーン顧問、指南役の政治コーチのような集団であって、行く先々の国で採用されるかどうかは不明だが、孔子の死後「論語」にまとめられているような、日々の孔子の言動に基づく儒教倫理は、自分たちが政策顧問ないしは政治コーチの役割遂行するための商材の商売道具のようなものである。彼らは自身のための自己修養として儒教思想を極めようとしたのではなくて、やがて自分たちが行く先々の各国で招聘され仕官すれば、その際に国王や諸侯ら為政者(政治指導者)に向け後に教授する政治指南のために、孔子とその弟子たちは日頃から儒教思想を教え共に学び、互いに研鑽(けんさん)していたのであった。

例えば、後に定式化される儒教道徳の「修身・斉家・治国・平天下」をよく見てもらいたい。これは儒教の四つの根本的な教典「四書」の中の一つである「大学」にある言葉である。「身を修め、家を斉(ととの)え、国を治め、天下を平(たい)らかにする」の読みで、「自身・家・地方を治め得る有徳者こそが天下を握る。ゆえに国を治め遂には天下を平和に統一するには、まずは己の身を善良に修め自身の家庭を和合することから始めよ」といった程度の意味である。この定式の中心は「治国」「平天下」であって、そこから遡及(そきゅう)して「斉家」「修身」となる。なるほど、「自身を修めることができず自分の家庭が不和である人徳のない人物であれば当然、国を治めることはできないし、ましてや天下統一など到底無理である」とする極めて当たり前の道理であった。

ここの所はよくよく考えてもらいたい。常識的に冷静に考えて、今この文章を書いている私や今この文章を読んでいるあなた(失礼!)のような、国王や皇帝ら政治指導者ではない一般民衆の人には「治国」「平天下」の決断・行動の契機など人生にて皆無なのである。ここからも孔子の儒教は、いわば「帝王学」のような、為政者に対してのみ説かれる高度な政治哲学として最初はあったことが分かる。それが開祖の孔子から時代を経るにつれて、後の孟子で「性善説」など、生まれつきの人間の性(本性・天性)に関する人間一般の抽象的考察の議論に移り、「為政者に対してのみ説かれる政治哲学」の政治主義の思想側面が希薄化され、さらに前漢の時代には武帝により儒教(儒学)が官学の正統教学とされて皇帝以外の臣下の官人が「儒者」として多く学ぶに至り、また儒教の「四書」らの教典が文人の教養書として広く読まれ庶民の読み書きのテキストにも採用されて、儒教は「帝王学」のような「為政者に対してのみ説かれる高度な政治哲学」の創始時の孔子の政治主義的性格を徐々に脱していったのである。

確かに孔子は政治以外のこと、学問に対する姿勢や人との交際の要訣や人間の死など、その他のことにも言及している。しかし、それは「君子」(徳を身につけ道徳的な人格を完成させた、人民を治めるにふさわしい者)に至るための政治(至上)主義の儒教の下にあった。孔子が生きた中国古代の春秋戦国時代は、公的な律令の法システムや科挙ら官人登用制度がまだ確立しておらず、この時代の政治は国王・諸侯ら為政者個人の恣意的支配による人格的私性の「徳」性にもっぱら委(ゆだ)ねられていた。よって孔子の「徳治主義」の政治理念のように、当時の古代中国社会の政治のあり様から、為政者の私的な道徳的人格完成の点よりアプローチする政治哲学が出てくるのも必然であった。春秋戦国時代に様々に現れた諸子百家、孔子の儒教(儒家)を始めとする同時代の墨家や法家や兵家ら、その他の諸学派の思想も、為政者に対しての政治指導者が学ぶべき高度な政治哲学なのであって、決して一般の人に向けて幅広く説かれたものではない。ことごとく政治主義の政治哲学であった点に留意されたい。

儒教は一応は、中国古代の春秋戦国時代にて孔子が創始したものとされている。しかし、孔子以前の葬送儀礼を主とした宗教的なそれ(プレ儒教)もあれば、孔子以降の孟子の儒教もあり、前漢時代には学問とされ官学化された儒教(儒学)もあれば、さらに後に朱子学や陽明学の一派をなす儒教もある。儒教の歴史は千年以上に渡る壮大なものであるから、時代状況によって「儒教とは何か」の定義も様々に変わる。そのため一般に「儒教とは何か」「儒教の本質とは!? 」と問われた際には、人によって様々な答えがあるだろう。だが、様々にある儒教の側面の中で自分が気に入って強調したい儒教のある面を、「儒教とは何か─つまりは、これこそが儒教の本質 」と言い募(つの)ってやたらと力説し吹聴するのは(「儒教とは死と深く結びついた宗教である」とか)正直、私はどうかと思う。

やはり儒教の創始で開祖である「孔子の儒教」の概要は、儒教の本来性として最低限押さえておくべきであろう。儒教に関する正しい認識と理解、そして正統な大人の教養として。