アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(304)大平健「やさしさの精神病理」

岩波新書の赤、大平健「やさしさの精神病理」(1995年)のおおまかな話はこうだ。著者によると「やさしさ」というものには2種類ある。一つは人の心に寄り添い共感するタイプのやさしさである。もう一つは人の心を傷つけまいと相手と距離をとるやさしさだ。そこには自分も傷つきたくないとする、自分にとってのやさしさも含まれている。

後者の「やさしさ」といえば、例えば、年寄り扱いするのは失礼に当たり、席を譲ると相手のプライドを傷つけるから、電車の中であえてお年寄りに席を譲らないやさしさ。ある程度交際して結婚しないと異性に気の毒だから、そこまで好きでなくても結婚してあげるやさしさ。周囲に心配をかけたくないから自分が病気で病院に通っている事を言えないやさしさ。あの人はやさしい人だから愚痴や相談は出来ないと自然に黙りこんでしまうやさしさなどである。

今、このような従来にない独特な意味の「やさしさ」を自然なことと感じる若者が増えているという。悩みをかかえて精神科の著者の元を訪れる患者たちを通し、「やさしい関係」にひたすらこだわる現代の若者の心を読み解き、時代の側面に光を当てる。本書の著者の大平健は、病院精神科に勤務の精神医学専攻の臨床医師である。

岩波新書「やさしさの精神病理」を読んでいて正直、私は「かったるい思い」がした。それは、今日の若者の間に多く見られる従来にはない独特な「やさしさ」について、そうしたタイプの新しい「やさしさ」に対する著者による原理的で的確な考察記述が本書の中で異常に少ないからだ。その代わり、著者が医療現場のカウンセリングで若者の患者と「やさしさ」について話した際の会話のやりとりが幾例も、とりとめもなく連続で紹介される。読み手のこちらは、日常診察での医師たる著者と主に若者の患者のカウンセリングの個別具体的なとりとめもない話を連続して何話も聞かされるのだから本書を読んでいて、やはり「かったるい」のつまらない読み味の感触が残ってしまう。

本書の大半を圧倒的に占める著者と若者とのカウンセリング対話の具体的エピソードの他に、新しいタイプの「やさしさ」について抽象原理的なことを著者が例外的に述べている以下の記述が、本新書の肝(きも)であり最大の読み所であって、実はこの記述部分以外の本書の箇所は大して重要ではないと私には思える。

「一言で言ってしまうと、やさしさとは人づき合いの技能です。…やさしさが理想的であればこそ、人は自分もやさしい人であろうとします。ただ、人づき合いとは相手のあることですから、やさしくするのがなかなか難しい場合もあります。…もし、相手が親切をしてほしいと明確に意思表示をしてくれたら、やさしくする方はずっと楽です。…人づき合いの技能としてのやさしさは、人が(自分も相手も)皆、傷つきやすい、ということを前提にしています。不用意に『親切そーなこと』をして相手を傷つけるのはやさしさにもとります。お互いに相手を傷つけないように『気づかい』をすること。それがやさしい人どうしのやさしい関係なのです」(177・178ページ)

「一言で言ってしまうと」の要約表現に象徴されるように、この部分に新しい「やさしさ」に関する著者の原理的な考えが圧縮されている。既出の「若者は電車でお年寄りに座席を譲るかどうか」の事例に即して言えば、お年寄りが座席に座れず立っている場合に「若者は必ず席を譲らなければならない」わけでは決してなくて、そのような杓子定規(しゃくしじょうぎ)の固定したものは「やさしさ」ではない。「やさしさとは人づきあいの技能」であり、「人づき合いの技能としてのやさしさは、人が(自分も相手も)皆、傷つきやすい、ということを前提にして」「お互いに相手を傷つけないように『気づかい』をすること」であるから、その都度、個別の場面で相手を観察し見極め相手を傷つけないよう気遣って、見るからに疲労して明らかに座りたがっている様子のお年寄りの場合には「やさしさ」として若者は席を譲るべきであるし、また見るからに健康そうなお年寄りで自身の体力に自信を持っていて、席を譲ると「自分はまだそんな年寄りではない(怒)」とプライドを傷つけられ激怒しそうなお年寄りには対しては、あえて無視しそのままやり過ごして席を譲らないことが「やさしさ」である。

つまりは、やさしさとはいつも固定的で決まっていたり、自分が「これがやさしさだ」と絶対的に思うことを自身の中で勝手に自己完結し独我的に相手に押し付けるのではなくて、その時々の状況と自己と他者との関係とを勘案し予測して相手を傷つけないように、かつ相手の望むように気遣い前もってあらかじめやってあげる常に他者に開かれ架橋してある相対的で関係論的なものが、本当の意味での「やさしさ」である。だから、いつも積極的に相手に何かを働きかける作為ではなくて、人の心を傷つけまいとあえて相手と距離をとる不作為も、時に「やさしさ」である。この意味で「一言で言ってしまうと、やさしさとは人づきあいの技能です」という本書にての著者の指摘は誠に含蓄ある重い言葉だ。

ただし、他方で「とりあえず相手を傷つけたくないから。自分も傷つきたくないから」と波風を立てず過度に距離を保ち、自身の本心を隠して常に無難を求める姿勢や、さらには「相手から嫌われたくない」とか「相手に気に入られたい」の他者からの自己への歓心を買うために何でも許してしまう、何でも言うことを聞いてしまう、相手が倫理的悪や社会的犯罪に手を染めていても見て見ぬふりをする、時にそれに迎合し積極的に加担するのは決して本当の意味での「共感」や「気づかい」の「やさしさ」ではない。一見、表面上は現代の若者が支持する新しいタイプの「やさしさ」の対人関係であるように思えるけれど、それは本新書のタイトル通りの「やさしさの精神病理」、まさに病気(病理!)なのであるから、「お互いに相手を傷つけないように『気づかい』をすること。それがやさしい人どうしのやさしい関係」とはいっても、その内容にさらに踏み込んで各自で常に吟味する必要はあるだろう。