アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(134)作田啓一「個人主義の運命」

岩波新書の黄、作田啓一「個人主義の運命」(1981年)は、そのタイトルからしていかにも難解で深刻な内容のように思われがちだが、実はそこまで難解ではない。ただし、深刻さの方だけ最後は相当に深刻で悲惨な「個人主義の運命」になるのだが。岩波新書「個人主義の運命」の、およその内容はこうだ。

著者の作田啓一が本書にて志向するのは「文学(文芸)社会学」である。それはジラールの文芸批評「欲望の現象学」(1961年)を下敷きにしている。文学社会学の特色は、ともすれば主体と客体の二項図式であった近代の主客二元論の基本的構図に対し、三項図式の提案を新たに行うこと。この提案の内容は行為の主体と客体のみならず、その主客の間を媒介する第三者のパラダイム設定にある。

岩波新書「個人主義の運命」の副題は「近代小説と社会学」である。著者の作田によれば「近代小説」にて基本図式たる三角関係はしばしば主題として選ばれてきたが、その場合、主客を結ぶ第三の媒介が他の主客の二者と同等の重要性を与えられておらず軽視されてきた。従来の近代文学では、媒介をはさむ自己と他者との三項基本図式は単なる話の舞台装置にとどまることが多かった。他方、これまでの「社会学」はパーソナルな個人の人間関係よりも、それを越えたレベルにある社会集団の現象や構造を主として考察対象としており、文学ほど個人の三角関係図式が重要視されてこなかったという。

そこで近代文学と社会学の双方にジラールの「欲望の三角形」の三項図式を入れて、より深く理解しようとする近代文学と社会学の双方を生かす選択だ。「欲望の三角形」たる三項図式とは、人間主体がある欲求を持ち行動を起こす動機付けに関する考察モデルである。人間主体の欲求は他者や対象に対して生じ、現実に行動される。だが、それが表層的にどんなに複雑で深遠に見えたとしても、すなわち、そのメカニズムは「主体─媒介者─客体」の三項図式になる。ここで主体をS、客体をO、媒介をMとそれぞれするならば、人間主体の欲求や行為は必ず「S─M─O」の三項図式になる。まず主体Sがあって、それが媒介Mを通じ必ず何かしら「社会化」された上で客体Oに至るという三項図式である。

この場合、媒介Mは「外的媒介」と「内的媒介」とに分けられる。外的媒介は、主体が憧れ「自分がそうなりたい」と願う作為主体にとっての外的理想像による相同性であり、内的媒介は、主体の前に立ちふさがるライバル(障害)や嫉妬あるいは羨望を引き起こし、その媒介の介在によって主体の欲求が格段に高められるような、そういった媒介である。内的媒介は主体に嫉妬心や羨望の気持ちを生じさせ、それを媒介にして人間主体の欲求や行動に移る場合である。一般に相同性の外的媒介よりも、主体の欲望充足を妨げる作用を通して主体の中にあった客体への欲求がさらに増幅・強化される嫉妬や羨望の内的媒介の方が、動機付けの駆動の力は強いといえる。

実は本新書「個人と主義の運命」そのものが、例の三項図式における「近代小説(S)─『個人主義の運命』(M)─社会学(O)」の近代小説と社会学との間に介在する媒介になっており、本書は近代小説と社会学とを結びつけ両者を新たに生かす道をとっているわけだ。このジラール「欲望の三角形」の三項図式の説明が、ドストエフスキーの海外文学やニーチェの哲学や夏目漱石や三島由紀夫らの日本の近代文学を例に文芸批評の文脈にて語られている。著者の作田啓一は、大変に執筆の際の構成手際(てぎわ)がよく、非常に順序立てて文芸批評の観点から海外文学や日本の近代小説の内容事例に即して論じている。

「個人主義の運命」は1981年初版であり、本論中に著者からの直接の言及はないが、「欲望の三角形」の媒介Mを挿入して三項図式の「S─M─O」にすることにより、主体と客体の二項図式「S─O」たる主客二元論の近代主義の克服を目指す、本書は執筆当時80年代の脱近代のポストモダン思想の影響を受けているに相違なく、また近代文学の文芸批評に社会心理学の方法を持ち込む試みでもあった。

以下、岩波新書「個人主義の運命」の内容を踏まえ、本書にて語られていない点にまで話を広げて私なりに述べてみる。

主体の前に立ちふさがる内的媒介たるライバル(障害)や嫉妬あるいは羨望の引き起こし、その媒介の介在によって主体の欲求が格段に高められるような三項図式の事例を考えてみると、例えば、ある異性に対して自分は特別な感情を抱いてはいないのに、同性のライバルが出現してその異性と親しく接触を持とうとすると嫉妬心が生じたり、ライバル同性への対抗心で自分こそが勝って優越したい気持ちが出てきたりして、もともとはその異性に無関心であったのに急に特別な感情が生まれてきて熱心にアプローチし強烈に働きかけてしまうことがある。この場合の三項図式は「S(私)─M(同性のライバル、嫉妬心・対抗心・優越心)─O(異性)」となる。

これは本書の「第三章・日本の小説にあらわれた三角関係」にて触れられている夏目漱石「こころ」(1914年)がその典型話であり、例の三項図式は「S(先生である私)─M(同性のライバルたる友人K、Kへの嫉妬心・対抗心・優越心)─O(下宿先のお嬢さん)」となるわけで、著者は本論にて、その内的媒介にあたる嫉妬心・対抗心・優越心を総称して「ロマンチックな自尊心」としている。この三項図式にて実に重要で注目すべき事柄は、主体のSたる私は「自尊心」の媒介Mを介して対象のOであるお嬢さんに対し、なぜか急にとりあえずの「恋愛感情」を抱いて欲求して実際に働きかけて行動する。つまりは、お嬢さんへの結婚申し込みを彼女の母親である下宿先の女主人に行うわけだが、それは「S(私)─O(お嬢さん)」の二項図式ではなくて、実に「S(私)─M(ライバルたる友人K、Kへの嫉妬心・対抗心・優越心)─O(お嬢さん)」の三項図式においてであった。素朴に現象的に見るなら、例えばお嬢さんの母親たる下宿先の女主人からしてみれば、ただ単に私がお嬢さんを愛したから求婚して「S(私)─O(お嬢さん)」の二項図式であるように思われるけれども、実は「S(私)─M(ライバルたる友人K、Kへの嫉妬心・対抗心・優越心)─O(お嬢さん)」の三項図式なのであった。

ということは、媒介Mの「ライバルたる友人K、Kへの嫉妬心・対抗心・優越心」が介在する三項図式でなければ、そもそも「S(私)─O(お嬢さん)」の求愛の回路は成立しないのである。つまりは、この「S─M─O」の三項図式において実質は前半の「S─M」の回路だけが生きて貫通しているのであり、後半の「M─O」は死んで貫通していない。そうすると主体Sは客体Oを欲求し「切実に」求め働きかけているように見えて、つまりは「S─O」の主体と客体の二項図式のように思えるけれども、本当は目先の媒介Mの「自尊心」に振り回されての「S─M─O」の三項図式であり、しかもその三項図式において、前半の「S─M」だけで早くも「自尊心」が満たされ自己満足して完結しており、後半の「M─O」の回路は切れているのだから三項図式の「S─M─O」は実質破綻しており「S─M」だけなので、結局は「主体Sは原理的に客体Oには永遠にたどり着けない」のである。

これを漱石の「こころ」の事例でいえば、客体であるお嬢さん(O)を求めて求婚した主体である私(S)は、たまたま友人K(媒介のM)のお嬢さんに寄せる恋心を知ったがために嫉妬や羨望や優越したい感情の、いわば「ロマンチックな自尊心」がかき立てられて早急な求婚行動に走ってしまっただけであり、本当は心の底から本心でお嬢さんを愛してなどいなかったのである。より穏(おだ)やかにいって、媒介の友人Kが登場してこなければ、私は求婚するまでに未だお嬢さんを異性として意識したことはなかったのである。むしろ、郷里での以前の叔父の裏切りの両親の財産横領による人間不信から、先生は下宿先の奥さんがお嬢さんと一緒になることを自分に暗に勧めているのではないかと勘繰り恐怖するほどであった。そのため渋る奥さんを説得して、友人Kをわざわざ下宿の隣室に先生は招き入れた程である。ところがKの媒介の出現により嫉妬心や優越心が掻(か)き立てられて、先生の主体はお嬢さんの対象を擬似的に求めてしまう。

このことは「個人主義の運命」にとって相当に深刻で悲惨な「運命」といえる。何しろ近代の個人主義的主体が他者や対象の客体を求めているように見えて、「S─M─O」の三項図式モデルを導入して見ることで実は主体は客体に永遠にたどり着けない破綻を思い知らされるからだ。「個人主義の運命」は、どこまでも残酷なのである。こうした主体が一見客体を求めているように思えて、現実には主体が客体に永遠にたどり着けない破綻を回避する方法は果たしてあるのだろうか。「個人主義の運命」の「終章・個人主義のゆくえ」にて著者の作田啓一は様々な処方箋(しょほうせん)を挙げてはいるが、解決への基本姿勢は以下である。

「最後に到達した視点は、媒介者の不可避の影響をはっきりと自覚することのよってのみ、人間は自由になりうる、という視点です。この自覚を困難にしているのは、個人主義に伴う自尊心の抵抗なのです。媒介者によって動かされているという『真実』を認めることは、自律を至上の価値とするロマンチックな個人主義の誇りを傷つけます。しかし、媒介者の拘束を深く洞察し、打ち砕かれた自尊心のかなたに予感される救済への道を示すことこそ、『真実』のロマンの使命なのです」

無意識下に抑圧されたものを、あえて意識化することで初めて理性的に制御(コントロール)できるとする、心理学や精神分析における認知療法のような著者による「個人主義の運命」に対する解決方法の結論だ。私達は主体と客体の二項図式「S─O」の近代主義に対し、主客の媒介Mを挿入し三項図式の「S─M─O」にして主体と客体の二項図式「S─O」たる主客二元論の近代主義を克服し、かつ三項図式「S─M─O」におけるMの介在、主に内的媒介たる「自尊心」(嫉妬や羨望や対抗や優越の気持ち)に振り回されそうになる不可避の影響を意識化し、はっきりと自覚することのよってのみ、それから自由になりうる。そうして「ロマンチックな自尊心」をはっきりと自覚して粉砕し、「媒介者の拘束を深く洞察し、打ち砕かれた自尊心のかなたにこそ、救済への道は示され予感される」と著者の作田啓一はいうのである。近代人の個人主義は、どこまでも自尊心に拘束されるのであった。その意味で作田は「個人主義の運命とは自尊心の運命でもあります」ともいう。

さて、一見「S─O」の主体と客体の二項図式のように思えるけれども、本当は媒介Mの「自尊心」に振り回されての「S─M─O」の三項図式であり、しかもその三項図式において、前半の「S─M」だけで早くも「自尊心」が満たされ自己満足し完結して後半の「M─O」の回路は切れているため、三項図式の「S─M─O」は実質破綻しており、「S─M」だけだから結局は「主体Sは原理的に客体Oには永遠にたどり着けない」。こうした「個人主義の運命」の悲劇の今日的事例を最後に一つ挙げておこう。

今日の右派や保守、国家主義者、天皇論者、歴史修正主義者の愛国者らが日本への「愛国」を標榜しているのに、その割には肝心の「愛国」ではなくて、むしろ近隣の東アジア諸国(中国や韓国や北朝鮮)、在日外国人、日本国内の日本共産党や朝日岩波の戦後民主主義の陣営や市民運動をやる沖縄の人々などに対する敵対心の憎悪、強烈な他罰感情の方が主で、ネットやメディアの言論にてそれら痛烈な他者攻撃の憎悪・排他の方が先走ってしまうのはなぜなのか。

それは客体である日本の国(O)を求めて「愛国」する彼ら右派や保守の自称「愛国者」ら(S)が、近隣アジア諸国や在日外国人や左派陣営の人達への憎悪と排他の媒介(M)を介した三項図式にあるからに他ならない。そうした他者や他国や他民族への対抗や憎悪や他罰や優越したい感情の、いわば「自尊心」がかき立てられて軽薄で過激な言動に走ってしまう彼らは、本当は心の底から本心で日本を愛してなどいないのである。すなわち、「S(保守や右派の人々)─M(ライバルたる近隣アジア諸国や在日外国人や左派陣営への憎悪と排他)─O(愛国すべき日本)」の三項図式にて、内的媒介の「ロマンチックな自尊心」に振り回され、彼ら「保守や右派の人々」は目先の媒介の「ライバルたる近隣アジア諸国や在日外国人や左派陣営への憎悪と排他」の「自尊心」を満たすことだけに終始しており、そこで回路は切れてしまっている。結果、「保守や右派の人々」は「愛国すべき日本」には永遠にたどり着けないのであった。