アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(33)御子柴善之「自分で考える勇気 カント哲学入門」

岩波ジュニア新書、御子柴善之「自分で考える勇気・カント哲学入門」(2015年)は、全体に難解とされるカント哲学に対する親切丁寧な分かりやすい解説書であり、その副題通り「カント哲学入門」として若い読者に向けての最適な良著だ。

「人は誰しも幸福になりたい。では、幸福に値するように『善く生きる』とはどのような生き方だろうか。カントはこうした問題を考え続け、人間社会に『最高善』という理想を掲げる可能性を見出だそうとした。『純粋理性批判』、『永遠平和のために』など、彼の主要著作を一緒に読み、自分で考える勇気をもった大人への一歩を踏み出そう」(裏表紙解説)

本書はまずカントの生涯を概観し、それから「純粋理性批判」(1781年)と「実践理性批判」(1788年)と「判断力批判」(1790年)の三批判書を順次解説して、さらに「永遠平和のために」(1795年)を一緒に読むという構成になっている。裏表紙解説での「自分で考える勇気」は認識哲学の「純粋理性批判」に、「幸福に値するように『善く生きる』『最高善』という理想の可能性」は倫理哲学の「実践理性批判」にそれぞれ対応している。

カントの批判哲学については周知の通り、「批判」とは人間能力の自己吟味であり、人間はどれだけの事が出来るか、問題の立て方をギリギリの所まで煮詰めて、その中から経験の混じり気がない先天的で「純粋」な「理性」という人間能力を抽出し、その理性の機能が及ぶ範囲を確定することである。このように先天的理性を有する人間主体に出来ることを見定め、人間理性の所産としての文化の構成原理を明らかにすることを通して自由な主体を切り開く認識の画期である。ただ漠然と「人間理性は何でも出来る」とする根拠のない全能感の理性への信頼、ないしは逆に「人間理性は万能でなく結局は何にも出来ない」とする安易な悲観の断念は、人間理性の自己吟味たる「批判」手続き(理性が出来る限界を吟味し人間主体が出来る事の本領を見極めて、それに着手すること)の欠如であり、何ら自由な近代的主体の成立には繋(つな)がらない。

行為を伴う「実践理性」は、可想界の物自体を認識できず限界を持ち、人間は現象界での個別・仮言的な欲望充足の因果律に抗(あらが)いながら、彼方にある普遍・定言的な物自体の格率「汝の意志の格率が同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行え」を志向し遂行に努めるしかない。ここにあるのは「純粋理性批判」と同様な、倫理遂行における「実践理性」の限界を「批判」を通し見極めた上での「人間理性は万能ならず、往々にして人間は誤る可能性があるからこそ、そこに自らを律する主体の契機が生じ結果、人間の自由がある」とする己を律してその理性の機能が及ぶ範囲を確定し実践する人間主体の自由である。このように経験の混じり気のない先天的で「純粋」な「実践理性」の普遍的格率の遂行を、限界がある人間理性の所産たる実践倫理として明らかにすることを通して、理性を有する人間主体に出来ることを見定め、自律の主体を切り開く倫理実践の画期が生まれる。

以上がカントにおける人間理性への「批判」吟味を介しての自律的で自由な主体の切り開きである。それは、まさにカント自身が呼んだにふさわしく「コペルニクス的転回」であり、「認識が対象に従う」対象世界の素朴実在論から「対象を認識が構成する」人間主体による構成的認識への転回に他ならない。カント哲学における認識の能動的主体の確立を岩波ジュニアを読む若い読者へ向けて著者の表現を借りるなら、「先入観や常識を排し自身の悟性を使用する自分自身で考える勇気を持て!それが大人になるということ」、つまりは、それこそが「自分で考える勇気」である。

また実践理性への「批判」吟味は、理性の限界ゆえに可想界における普遍的・定言的な格率と、現象界における個別的・仮言語的な自然の因果律との分裂をもたらし、そこに後者の個別的・仮言な欲望充足の自然の因果律を退け、前者の普遍的・定言的格率の「最高善」という理想の遂行を自らに課すことで、現象界たる人間社会の中で自らを律する人間主体の自由の可能性が生まれる。そして、自律の人間主体たる人格を互いに目的それ自体とする倫理的共同体、すなわち「目的の王国」が成立する。そのことを著者の言葉を借りるならば、「幸福に値するように『善く生きる』とはどのような生き方だろうか。カントはこうした問題を考え続け、人間社会に『最高善』という理想を掲げる可能性を見出だそうとした」ということになる。岩波ジュニアを読む若い読者へ向けて、「幸福とは何か」を主体的に吟味した上で自律的に互いに「善く生きる」ことの勧めとなる。

このようなカントの批判哲学が大変に優れていることに相違なく、彼の批判哲学は、理性の万能を独断する形而上学に対し、被造物としての人間理性の限界を知らしめ、かつヨーロッパ哲学の大陸合理論の普遍性の伝統を保つことができた。他方、人間理性の無力を説く経験主義に対しては主体の構成能力を指摘して理性の棄権を戒(いまし)め、かつイギリス経験論の個別具体的なリアリティを取り入れることもできた。このように伝統的なヨーロッパの大陸合理論と新興のイギリス経験論の双方の難点を封じ利点を止揚する「第三の道」たる独自の批判哲学をカントが展開できたのは、フランスでもなくイギリスでもない、両国の哲学を相対化できるカントその人が紛(まぎ)れもないドイツの哲学者だったからである。

しかし、これまた周知の通り、ドイツ観念哲学の立場にあったがゆえにフランスの大陸合理論とイギリスの経験論とを鮮(あざ)やかに統合できたカントは、三批判書の中途にて早くも失速してしまう。今まさにフランス革命を迎えつつあるフランスでもなく、すでに名誉革命を終えたイギリスでもない、いまだ中央集権化がならず領邦絶対主義国家の分裂状況たる後進国・ドイツの哲学者であったがゆえに、彼の実践哲学は現実行動の場を持たず、実践理性の世界はひたすら個人の内面に収斂(しゅうれん)してしまう。カントの「実践理性批判」は、非常に厳格な各個人の内面にのみ課せられた格率遂行の道徳的要請に終始した。カントの実践理性の哲学は、個人に対し現実世界にて何ら政治的・社会的な行動の義務を課さなかったのである。カントにおける「自由」は政治的自由ではなくて、あくまでも道徳的自由であった。

カントは齢(よわい)60近くにして、やっと主著を公刊しはじめた誠に遅咲きな人であった。大学での講義と思索と散歩の規則的で静かな生活を生涯に渡り送った。そうした内省的で厳格な彼の生活態度に見合うかのように、カントの実践哲学は敬虔主義の厳格主義のリゴリズム、俗な言い方をすれば「カントの実践哲学は現実との接点を持たず、だから厳格な道徳主義で説教くさい」。

以上のような本書には書かれざる点まで含めたカント哲学の、西洋哲学全般や同時代思潮における画期と難点の両方を踏まえると、御子柴善之「自分で考える勇気・カント哲学入門」は、カント哲学を初学の若い読者に向けての「入門書」として分かりやすく解説するという点以外に、「若い読者が読む岩波ジュニア新書であること」を著者が余りに強く勘案しすぎて、「若い人達がこれからどう生きるべきか。大人になるとはどういうことなのか」カント哲学を通しての著者の書きぶりが、岩波ジュニアの哲学思想分野の他著、例えば岩田靖夫「ヨーロッパ思想入門」(2003年)と比較しても非常にクドくて説教くさい。しかも、それが「後進国・ドイツの政治的社会的状況ゆえに現実との引っ掛かりを持たず、彼の『実践理性批判』は非常に厳格な各個人の内面にのみ課せられた格率遂行の道徳的要請に終始した」弱点を持つカントその人の「カント哲学入門」においてである。

やはり、この辺りの著者の説教じみた語り記述のあり様が本家のカント同様、本新書の難点とあえて言えば言えなくもないというのが率直な読後の感想だ。少なくとも私が若い人を前にしてカントを語るなら、カント自身のカント哲学における厳格なリゴリズム、道徳主義一辺倒な難点をあらかじめ見越して、カントを介して説教くさく「自分で考える勇気をもった大人への一歩を踏み出そう」などと殊更(ことさら)に語ったりはしない。しかしながら、岩波ジュニア新書の御子柴善之「自分で考える勇気・カント哲学入門」は、全体に難解とされるカント哲学に対する親切丁寧な分かりやすい解説書であり、タイトル通り「カント哲学入門」として最適な良書であるとは思う。