アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(30)渡辺照宏「仏教」

日本仏教史の書籍を読んでいると、日本仏教成立以前に中国・朝鮮経由で日本に伝来し根付いたインドからの外来思想たる仏教、そのインド仏教の原型はどのようなものであったか知りたくなる。紀元前にガウタマ=シッダールタが開祖の仏教とは、どういったものであったのか。

岩波新書の青、渡辺照宏(わたなべ・しょうこう)「仏教」(1956年)は、そうした初学者に向けて書かれたインド仏教の概説書だ。本書はインドの仏教について初学の方にも分かりやすい解説記述となっている。例えば「まえがき」には著者による次のような文章がある。「私は執筆にあたって『わかりやすく』という点に重きをおいた。そのため、複雑な問題をあつかった個所は高校二年在学中の長男に読ませ、だめを押しながら筆を進めた。だからその程度の学力ある人ならば、楽に読みとおすことができるはずである」。なるほど、高校二年程度の学力がある人ならば本新書は大丈夫らしい。

本書では「仏教とはなにか」、すなわち「仏教の本質をほんとうに理解するためには」の本論を展開するにあたり、冒頭にて「仏教のみかた」について著者は直截(ちょくせつ)に述べる。

「仏教の本質ををほんとうに理解するためには、何が仏教の根幹であり、何が附加的、第二義的な要素であるかということを一応識別してかからなければならない。そうすれば、常識的な意味でわれわれが仏教と信じていたことが実は非仏教的であり、またはその反対であることも発見されるであろう。こうすることによってはじめて仏教の正しい評価が可能となり、したがってわれわれの現代生活における仏教の地位を決定することもできるであろう。そのためにはまず『われわれはすでに仏教を知っている』という常識的な理解そのものを批判してかからなければならないであろう」(「仏教のみかた」5ページ)

仏教思想において、複数の教説内容を一語にまとめる、もしくは逆に一語から複数の具体的要素を分解羅列して挙げるの操作が顕著である。例えば「五蘊」や「四法印」や「八正道」に関し、「世界の存在要素たる『五蘊』の5つの内容は何ですか?」「仏陀が悟った普遍的真理の『四法印』の4つの命題は何ですか?」「正しい修行方法たる『八正道』の8つの普遍的な規範は何ですか?」など、一語凝縮から各教説要素を展開させ即座にスラスラ答えられることが、あたかも「仏教を知っていること」のように時に誤解され、実際に私は寺院に説法を聞きに行き「八正道の8つとは」の用語解説を長々と聞かされて誠に辟易(へきえき)した経験がある。先の著者の指摘に従うなら、「四法印の4つの真理や八正道の8つの方法を何も参照せずにスラスラと淀(よど)みなく言える」ではなくて、「何が仏教の根幹であり、何が附加的で第二義的な要素であるか」を精査し吟味して「仏教の本質」に標準を定めて仏教の本筋を学ばなければならない。

岩波新書「仏教」は、インドの風土や古代インドの宗教事情、仏陀の生涯(出家から成道を経て入滅まで)、教団形成史、仏教の思想、仏教信仰の実際、将来への展望を各章に分けて丁寧に説明されており、特に「仏教の思想」章にて展開される仏教思想の主要概念を押さえることが「仏教の本質ををほんとうに理解する」ことに直に繋(つな)がると思われる。私の感慨と本書での説明解説の力点も踏まえると、何よりも「仏陀」の意味を、ガウタマ=シッダールタの歴史的個人と「真理に目覚めた覚者」の普遍的・理念的人格の複数相において先ず理解しておかなければならない。さらには「仏陀」との相違にて「菩薩」、一元論的真理が汎神論と神秘主義に分岐する「法(ダルマ)」、仏教と他宗教との方法論の違いにおける「中道」、大乗の理念としての他者との関係性にて仏教倫理における「慈悲」の意味をそれぞれ知らなくてはいけない。

少なくとも私の感慨として、「八正道の具体的内容を暗誦で8つ連続スラスラ言えて何だか自慢げで誇らしげ」というのは実に噴飯(ふんぱん)で、「何が仏教の根幹であり、何が附加的、第二義的な要素であるかということを一応識別してかからなければならない」立場からして、そういったことは「附加的で第二義的な」枝葉末節の要素でしかない。「仏教の根幹とは何か」を吟味し見極める大切さ、すなわち「仏教の本質をほんとうに理解する」大切さを岩波新書「仏教」は教えてくれる。

さて冒頭にて述べた「日本仏教史の書籍を読んでいると、日本仏教成立以前に中国・朝鮮経由で日本に伝来し根付いたインドからの外来思想たる仏教、そのインド仏教の原型はどのようなものであったか知りたくなる」、これは思想史研究にて案外に定番な「外来文化摂取の際の思想変容(質的変化)の問題」である。外来思想を受容の際には受容主体や環境文化の偏向が働いて、決してそのままではなく必ず変容して摂取される。そして、この受容に際しての変節の変化にある種の価値判断を乗せると、「外来思想として本来的に正統であったものが、受容時に変容し本来性の正統的性質を失って全く別のものに変質し矮小化してしまう問題」となる。

こういった思考は日本思想史研究にて常套(じょうとう)だ。なぜなら日本は東アジアのさらに極東に位置し、常に外来文化の移植を経験してきた地域だからだ。例えば中国・朝鮮からの儒教受容でも、ヨーロッパからの近代化摂取でも、アジアやヨーロッパの儒教や近代化の本来性の正統的実質がそもそもあって、しかし日本に伝わり「主体的に」受容される際に必ず変節し矮小化されて本来的なものではなくなる、異質なものになるの指摘・批判となり、半(なか)ば「日本思想批判」として展開される。日本仏教史においても当然、その受容の際に本来的なインド仏教の変容結果としての日本仏教の矮小性、つまりは「日本に伝来し摂取され根付いた日本仏教はインド発祥の正統的な仏陀の仏教とは明らかに異なり似て非なる」とする、日本仏教の非仏教性を指摘し問題にする議論は前から根強くあった。

実は岩波新書「仏教」の著者である渡辺照宏も、「中国や日本に伝来し摂取され根付いた仏教はインド発祥の正統な仏陀の仏教ではない」とする相当な中国と日本の仏教に厳しい、いわゆる「北伝仏教批判論者」である。それは先の引用にて「常識的な意味でわれわれが仏教と信じていたことが実は非仏教的であり、またはその反対であることも発見されるであろう。…まず『われわれはすでに仏教を知っている』という常識的な理解そのものを批判してかからなければならない」とする氏の語り、「常識的な仏教理解を疑え」という、いかにもな物言いに如実に表れており、氏の本意は容易に推察できるのである。

事実、渡辺は「仏教」を概説するにあたり、「中国や日本の仏教がインドで仏陀が開いた本来の正統的な仏教とは異なる」と実は言いたくて仕方がない。本書「仏教」にて最初の章から、そういった中国や日本の北伝仏教に対する告発衝動が間歇(かんけつ)的に吹き出す筆致を何とか抑えに抑えて、「中国や日本に伝来の仏教がインド本来の仏教とは全く異なること」に遠回しに幾度となく触れながら、しかし核心の部分を一気に論じることなく時にはぐらかし、ゆえに読み手には明白にその事情は伝わり皆がまる分かりなはずなのに(笑)、渡辺は我慢して書き続けていく。そして本書の終わり近く最終章の一つ前の「仏教信仰の実際」の章にて、いよいよその衝動は抑えきれず爆発してしまう(爆笑)。

「中国人の理解した仏教においては、仏教のうちのある一点が集中的に注目され、それ以外の問題はアクセサリーとしてとりあつかわれた」(186ページ)、「われわれはシャーマニズムに同化した変態的な密教の儀礼が、多くの亜流によって濫用されてきたという事実をも見おとしてはならない」(「仏教信仰の実際」191ページ)

このように一度火がついてしまった氏の「中国と日本の仏教がインドで仏陀が開いた本来の正統的な仏教とは似て非なる」の非仏教性に対する怒りの告発は収まることなく、そのままの高揚で岩波新書「仏教」の続編、同じく岩波新書の渡辺照宏「日本の仏教」(1958年)へと続き、そこで氏の本格的な日本仏教批判がいよいよ執拗に展開されるのだが、その続きの詳細、渡辺「日本の仏教」については、また次回の「岩波新書の書評」にて。