アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(31)渡辺照宏「日本の仏教」

仏教概説の古典であるベック「仏教」(1928年)の日本語訳をしているインド哲学と仏教研究専攻の渡辺照宏(わたなべ・しょうこう)には、岩波新書「仏教三部作」ともいうべき一連の仕事がある。すなわち「仏教」(1956年)と「日本の仏教」(1958年)と「お経の話」(1967年)である。

氏の三部作が優れているのは、仏教テーマを論じる過程で前著の後半にて新たに出てきた問題を次著にて、さらに詳しく論じ上手い具合に話を接木させて三部作を大きく展開させるところだ。例えば「仏教」においてインド原始仏教を論じる際、どうしても北伝の中国・日本仏教が本来的なインド仏教から逸脱・変容している問題が出てきて、それを次著「日本の仏教」にて日本仏教の非仏教性として、より詳細に厳しく糾弾・批判する。そして日本仏教批判と共に「日本の仏教」の宗派の分立や系譜に言及していたら、その過程で仏典への概要知識が必要となり、今度は次著「お経の話」にて仏典に関し詳しく解説するというように。

渡辺の仏教三部作は各著作の展開接木が厳密で、読み手に与える著述内容の連続性からくる読後感が非常によい。だから岩波新書の青、渡辺「仏教三部作」を読む場合には、やはり「仏教」から「日本の仏教」、その後に「お経の話」と執筆刊行順に続けて読むのがよいと思われる。

なかでも仏教三部作の二冊目にあたる渡辺照宏「日本の仏教」は、「外来思想である仏教を日本人はどのように受け入れ、継承してきたか。仏教は国家主義や呪術や死者儀礼とどうして結びついたのか」という問題意識から「日本独自の仏教形態」を見つめる内容となっている。つまりはインドにて発祥した仏教が中国で変化し、それが日本に伝えられたという歴史的立場を踏まえ、外来思想たる古代インド仏教の本来性・正統性よりする日本仏教の変容(質的変化)の見極め、総じて日本独自の仏教形態を否定的に捉えようとする。

「日本独自の仏教形態」とは、本書「日本仏教の実態」章にて五つの項目からなり、それら観点から「日本の仏教」批判を渡辺は展開している。もちろん、その五項目は仏陀が開いた古代インド仏教にはない要素(せいぜいあっても仏教の本質にはなりえない枝葉な属性)であり、インドにて発祥も中国仏教を経ての日本の仏教受容の際に変容したものである。「日本の仏教」における「日本仏教独自の形態」たる非仏教性の五つの要素とは、

「国家主義(政治権力との結びつき)、呪術祈祷(欲望充足)、死者儀礼(葬式仏教、祖先崇拝)、対立と妥協(神仏習合)、形式主義(宗教儀礼の形式化・娯楽化)」

これら五つの指標をもとに著者による非仏教性の指摘たる「日本の仏教」に対する糾弾・批判は痛烈を極め、「(日本における仏教の)皮相的な受けいれ方」(21ページ)、「(多くの日本人が)仏教の純粋性を汚す」(49ページ)、「(中国・日本の東アジアにて)仏教の代用品が発生」(50ページ)など氏の言葉遣いは実にえげつない。そして本書の最大の読み所は「日本の仏教」、特に鎌倉仏教に対する渡辺の容赦のない徹底批判にある。氏は法然、日蓮、親鸞を斬って斬って斬りまくる。例えば以下のように。

「(法然の撰択専修を伝道の実利に基づく恣意的把握であり、仏教理念の放棄と見なして)法然の仏教を受け入れた態度は、仏教の本格的な、真正な形態を把握しようという動機から出発したものではない。…その選択の標準は真実性よりも、むしろ実利性にあったと言わなければならない。言いかえれば、絶対的真理の追究を抛棄して、時機相応の救済を求めたことになる。…仏教における本質的なもの、すなわち菩提心の理念はまったく抛棄されたわけである」(60ページ)

「(日蓮の法華経唯一信仰、神祇との妥協を他宗派攻撃の非寛容であり国家政治主義と見なして)彼における主要な関心は…個々の人間の救済ではなく、国家的政治的危機に向けられていた。…日蓮のこの主張は『法華経』の信仰と民族固有のシャーマニズムの神祇と結びつけ、国家主義的な政治活動を目ざすものであるから、およそ仏教の本流とは縁遠いものであるけれども、日蓮自身としては、これが正しい仏教の行き方であると確信していたのである」(62ページ)

「(親鸞の他力易行、非僧非俗を社会事業への実践なき現実逃避の観念論であり、独善的な閉ざされた教団形成と見なして)法然、親鸞、日蓮たちのような新興宗派の僧侶たちはだいたい主観的観念的遊戯にふけっていただけで、実質的には何ら民衆の生活を助けることなく、むしろ信者の仕送りによって生活を支えられていた場合が多い」(64ページ)

「浄土教の流行がわが国におよぼした影響は大きい。中でも浄土真宗は、親鸞自身の意図とは別に、思いがけない方面に影響した。自力の拒否、戒律の放棄は独善的な、閉ざされた教団を成長させた。…いわゆる自力の立場に立つ聖道門の人たちが社会事業に貢献しているのに、真宗の人々は最近までその方面に無関心であった。親鸞の非僧非俗の立場は出家教団の秩序を破壊したのみでなくて、在家信者の基本的義務さえもふみにじってしまった。…また一般に浄土教は現実逃避の傾向が強い。日本人が正面から現実の問題と取組むことを回避する態度を助長したのも、浄土教であった」(204ページ)

このように氏の「日本の仏教」批判は痛烈を極めるが、もちろん渡辺は日本仏教を全面批判の全否定しているわけではなく、「仏教にかぎらず、およそ宗教家としての評価の標準は、その精神的体験の深さとともに、対人間的に実際にどう行動したかという点にあると考えられる」(42ページ)とする宗教全般に関する氏独自の評価軸から、行基、空海、叡尊、忍性は社会奉仕に献身した僧侶として、仏教における「慈悲慈愛の実践と結びついている」「自利利他円満(自己と他人との目的の完成)」遂行の点で非常に高く評価される。

「平安時代にも、橋をかけ、渡し船を設け、井戸を掘り、樹を植える等の事業に僧侶が努力した例は多く、…空海は讃岐万農地(満濃地)の築造、貧困青年の教育機関(綜芸種智院)の創設経営をはじめ、多くの社会事業にもその才能を示した。…民衆の幸福の増進のために積極的に手をさしのべた」(33ページ)。

他方、親鸞や日蓮に関しては先の引用同様、社会的実践奉仕が伴わない「口先だけ」の遊戯的観念論として渡辺により大変に厳しく、親鸞や日蓮ならびにその宗派の方々には実に気の毒なほどに、さんざんな酷評となってしまう。

「修行の真偽は対人関係においてはじめて識別されると言ってよかろう。わずかに信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞や日蓮が仏教者の典型であるとは少なくとも私には納得できない」(42ページ)

渡辺照宏による岩波新書のいわゆる「仏教三部作」、なかでも「日本の仏教」は前著「仏教」から引き継いだインド仏教の本来性への考察からする日本仏教批判であり、概(おおむ)ねその内容に私は同意できる。例えば氏による「日本の仏教」批判、五つの非仏教性の指標のうちの「死者儀礼」の指摘は日本仏教の今日的問題としても誠に納得共感できる。私は親族葬儀やら月命日やらで我が家に出入りする本来は神祇不拝の真宗僧侶に対し、「お前ら葬式とか追善供養など熱心にやってるけど、それって仏教じゃないだろ。『無常・苦・非我』の宗教哲学、仏陀(覚者)の仏教というよりは、むしろ呪術や祖先崇拝の日本的神道なのでは!?」と非常に失礼ながら毎回率直に思ってしまう。もちろん、絶対に口外しないけれど(笑)。

渡辺照宏「日本の仏教」での、氏による日本仏教批判の概要=「国家主義、呪術祈祷、死者儀礼、対立と妥協、形式主義」の非仏教性の五つの指標をよくよく考えてみると、それらはいずれも日本の神道の信仰内容である。ここにおいて、輪廻や宇宙など世俗を超える普遍真理を持ち、かつ信仰が個人の内面哲学の問題になりうる世界宗教たる仏陀の仏教が、信仰が内面哲学の世界を措定せず祖先崇拝や外的儀礼や欲望充足の呪術に吸収され、ゆえに政治権力と権威を一体のものとする祭政一致な共同体への統合原理になる民族宗教たる土着の神道への変容、つまりは「日本の仏教」を「日本における仏教の神道化」現象として批判的に理解することが必要となるはずである。