紀元前5世紀前後に北インドにてガウタマ=シッダルタ(仏陀、ブッダ)によりおこされた仏教にて、後の各地域への伝播に伴う仏教そのもの(思想や教団)の変容を踏まえ、開祖たるブッダの教えに比較的忠実な正統(オリジナル)なブッダから直の古い仏教を「原始仏教」や「初期仏教」と呼ぶ。
岩波新書の赤、馬場紀寿「初期仏教・ブッダの思想をたどる」(2018年)では、紀元前5世紀の仏教成立から紀元前3世紀までの仏教を「原始仏教」とし、各地域に伝播し結果、紀元前後に仏教そのものが大きく変容する以前までの、つまりは紀元前3世紀から紀元前後までの時代の仏教を「初期仏教」としている(40・41ページ)。そうして本新書にて扱う「初期仏教」について、著者は序章「はじまりの仏教」にて直截(ちょくせつ)に以下のように述べる。
「まず初期仏教は、全能の神を否定した。ユダヤ教、キリスト教やイスラム教で信じるような、世界を創造した神は存在しないと考える。…もし『神』を全能の存在と定義するなら、初期仏教は『無神論』である。…さらに、初期仏教は、人間の近くを超えた宇宙の真理や原理を論じないため、老荘思想のように『道』と一体となって生きるよう説くこともない。主観・客観を超えた、言語を絶する悟りの体験といったことも説かない。…また初期仏教では、修行はするが、論理的に矛盾した問題(公案)に集中するとか、ただ坐禅(只管打坐)をするといったことはない。出家者が在家信者の葬送儀礼を執り行うことはなく、祈禱(きとう)をすることもない。出家者が呪術行為にかかわることは禁止されていた」(ⅲページ)
その上で次のように続ける。
「初期仏教は、それに代わって、『個の自律』を説く。超越的存在から与えられた規範によってではなく、一人生まれ、一人死にゆく『自己』に立脚して倫理を組み立てる。さらに、生の不確実性を真正面から見据え、自己を再生産する『渇望』という衝動の克服を説く」(ⅲ・ⅳページ)
初期仏教をキリスト教やイスラム教との相違にて、全能の神の存在を否定した「無神論」といい、かつ朱子学や老荘思想との相違で、人間の知覚を超えた形而上学的原理や死後世界や宇宙論の神秘主義への傾倒も初期仏教にはないとし、さらに日本仏教との相違にて、極端な苦行修行へののめり込みや、死者の葬別や鎮魂のための葬送儀礼の執行や、個人や社会全体の欲望充足のために祈願する呪術行為にブッダ本来の仏教が関わることもないとした上で、初期仏教とは「個の自律」を説き、人間個人の生死の不確実性の認識に立脚して自己を再生産する「渇望」衝動(執着、生存)の克服を説くものとする。
本書にて著者が目する、各地域に伝播の結果、紀元前後に大きな変容を遂げてしまう以前の、開祖たるブッダの教えに比較的忠実な正統(オリジナル)な「初期仏教」とは、超越的な神への信仰とか日常的な共同体祭祀儀式の遂行ではなくて、宗教信仰というよりはどちらかと言えば醒(さ)めた冷徹意識の宗教哲学のようなものである。この意味において、仏教における開祖および理念的人物であるブッダが、「目覚めた者」「悟った者」「真実に達した者」(21ページ)というような比較的冷静な理知的覚者として定義されているのは決して偶然ではない。
岩波新書「初期仏教」は全六章よりなる。「第一章・仏教の誕生」「第二章・初期仏典のなりたち」「第三章・ブッダの思想をたどる」「第四章・贈与と自律」「第五章・苦と渇望の知」を経て、古代インドの歴史的・思想的な宗教状況を踏まえつつ初期仏教の思想を順次、筋道立てて解説していく。その際に仏教以外の諸宗教(バラモン教、ジャイナ教)との対照にて古代インドにおける仏教思想の独自性を浮き彫りにしながら、初期仏典の読み説きを主にする。そうして、「涅槃(ねはん)」(渇望の火が消えること・184ページ)「解脱(げだつ)」(仏教の究極的な目的。渇望の火を消して「自己の再生産」からの解放を遂げること・178ページ)「中道(ちゅうどう)」(二つの極端に近づくことのない二項対立を超える道・196ページ)「四聖諦(ししょうたい)」(高貴な者(聖者)たちにとっての四つの真実・144ページ)「八聖道(はっしょうどう)」(八項目から成る、高貴な者(聖者)に属する道・198ページ)らの仏教基本概念をあらかじめ解説しておいて、いよいよ最終章の「第六章・再生なき生を生きる」にて、それら既出の諸概念を使って「初期仏教とは何か」の本質規定の結論へと至る。本書でのこの論述過程には、これまでに述べられたバラバラの解説記述が有機的につながり最後に一気に伏線回収されていくような爽快な読み心地があり、岩波新書「初期仏教」の読後感は大変によい。
すなわち、最終章「再生なき生を生きる」において、
「四聖諦における第三の『苦の停止』とは『涅槃』に当たり、仏典では『解脱』とも言い換えられる。『苦の停止』と『涅槃』と『解脱』は同義語なのである。…四聖諦の最後の第四の真実に当たる『苦の停止へみちびく道』とは、『八聖道』である。ブッダは八聖道を『中道』に位置づける。…四聖諦とは、八聖道の実践によって『高貴な者』となり、最終的に『自己の再生産』を停止するという教えであることがわかった。…古代インドにおいて、生まれによる『アーリヤ(高貴な者)』という言葉を仏教は転換し、四聖諦を認識し八聖道を実践する者を『アーリヤ』と定義した。…四聖諦を認識した者が『アーリヤ(高貴な者)』と呼ばれているのである。…ブッダのように、正しい見解を具えて、渇望を克服し、正しい実践を身につけた者こそ、真に『アーリヤ(高貴な者)』である。そう描く仏典をとおして、初期仏教は、高貴な者たちにとっての真実に目覚め、高貴な者たちの道を進むように促しているのである」(188─211ページ)
この最終章には、「個の自律」を説き、人間個人の生死の不確実性の認識に立脚して自己を再生産する「渇望」衝動(執着、生存)の克服を説く初期仏教の根本思想と、古代インドにおける「ヴェーダー」の聖典を伝承するアーリヤ人の「部族宗教」であるバラモン教から、その伝統的な部族宗教より切り離された「個の宗教」である仏教(それは、ブッダの仏教が古代インドの都市化を背景にして興隆した新宗教であるからに他ならないのだが)における、「アーリヤ(高貴な者)」の語義定義の画期的転換が記されている。特に後者の初期仏教での「アーリヤ」の語義定義の画期的転換は、形式的な祭式遂行を中心にしているため生まれながら共同体に属していることで無自覚に入信してしまうアーリヤ人の伝統的な「民族宗教」たるバラモン教と、自律した個人哲学の宗教ゆえ個人の自覚的決断と覚醒を伴うブッダの新興の「世界宗教」たる仏教との間の決定的相違に由来していた。
繰り返しになるが、民族宗教たるバラモン教における「アーリヤ(高貴な者)」は生まれながら既に決まっている、個人が属する古代インドの厳しい身分社会の階層由来のものであって、「高貴」の由来源泉は形式的な祭祀の遂行に回収されてしまうため、その「高貴さ」に本人の自覚的信仰の質は問わない。ところが、世界宗教の内実を有する初期仏教にての「アーリヤ(高貴な者)」は、人間個人の生死の不確実性の認識に立脚して自己を再生産する「渇望」衝動(執着、生存)の克服を説く覚醒した個人であるから、その「高貴さ」には自律した個人哲学の自覚的決断の信仰の契機が含まれるのである。この「アーリヤ」をめぐる語義転換の両者の明確な相違を、伝統的な「民族宗教」たるバラモン教に対する、ブッダによる新興の「世界宗教」たる仏教の革新性として理解しておく必要がある。
本新書に対する書評にて、「初期仏典の用語解説が詳細正確ではない(「布施」の語源解釈など)」「本来言及すべき概念が取り上げられていない」云々の厳しい評価が時にあるが、たかだか200ページ強の極めて紙数の限られた新書なのだから、そこまでムキになって酷評するほどのことではない。本書を通して初期仏教の本質概要を一般読者が読み取り理解できれば、それでよいのではないか。
確かに本書を執筆するに当たり、著者が「初期仏教」の思想の詳細を相当に単純化し易化させ、やや強引にまとめているフシは読んでいて一貫して感じられる。しかしながら著者は「あとがき」にて、「初期仏教の思想は、その後の仏教にさまざまな形で脈打っている。成功したかどうかは読者の判断に任せるとして、初期仏教を入り口とした仏教入門になることを目指して本書を書いてきた」(221ページ)と述べているのだから岩波新書の赤、馬場紀寿「初期仏教・ブッダの思想をたどる」は、一般の読者に向けて「初期仏教を入り口とした仏教入門」の役割を誠実に果たした良書といえる。
「二五00年前、『目覚めた者』が説いたのは、『自己』と『生』を根本から問い直し、それを通してあるべき社会を構想する教えだった。その思想は、なぜ古代インドに生まれたのか。現存資料を手がかりに、口頭伝承された『ブッダの教え』にまで遡ることは可能か。最新の研究成果によって〈はじまりの仏教〉を旅する」(表紙カバー裏解説)