アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(128)石母田正「平家物語」

歴史上の古典文学は、主に文芸批評と歴史学研究との二つの論者から読んで評せられる。これまでの私の読書経験からして、軍配があがるのは歴史研究者の方である場合が多い。かたや文芸批評家の古典読解は、しばしば残念な結果になりがちである。

例えば本居宣長について、小林秀雄「本居宣長」(1976年)を以前に読んだとき、私はあり得ないと思った。周知のように小林秀雄は抽象的な理論考察ができないから小林の文芸批評は、だいたいいつもつまらないものに終わる。本居宣長に関しては、村岡典嗣や永田広志や松本三之介ら歴史学の思想史研究からする国学研究の方が優れており読んで学ぶべきものがあると私には思えた。

「平家物語」にしてもそうだ。文芸批評の小林秀雄の一連のものよりは、歴史学者の石母田正(いしもだ・しょう)の仕事の方が優れている。そのことは岩波新書の青、石母田正「平家物語」(1957年)を一読すれば明白だ。念のため、ここで「平家物語」の概要を確認しておくと、

「平家物語は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。保元の乱・平治の乱勝利後の平氏と敗れた源氏の対照、源平の戦いから平氏の滅亡を追ううちに没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。平易で流麗な名文で知られ、盲目の琵琶法師が平曲として語り継ぎ民間に普及した。『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』の有名な書き出しをはじめとして広く知られている」

そして岩波新書の石母田「平家物語」の構成といえば、「第一章・運命について、第二章・平家物語の人々、第三章・平家物語の形式、第四章・合戦記と物語、むすび・平家物語とその時代」となる。

本書「平家物語」を含めて、一般に石母田正の著作は難しい。それは石母田が、冒頭の序説より全体を見渡せない、先の読めない細かな細部の実証記述から入ることによる。例えば石母田正「中世的世界の形成」(1946年)など典型だ。この人の書籍は読み始めて序盤からの細かな部分詳説の議論に圧倒され、読者は早くも心が折れそうになる。しかし、そこを我慢して辛抱強く読み進めると序盤の精密な細部の実証の伏線がどんどん回収されていき、石母田の著作はやがて視界が開けて、その全体像が明瞭になってくる。結果、学ぶべきものが多くあるのだから、「とりあえず石母田正の本は読み始めの最初から分からなくても我慢し辛抱して読みつづけろ」といったところか。

そういうわけで、岩波新書の石母田正「平家物語」も冒頭最初の章から硬質な文章にて、なかなか細かな全体の見えない内容記述に圧倒させられる。なかには「本新書を読むには、そもそも『平家物語』全十二巻の原典を読んでいなければ理解できないのでは」と読み始めの中途で思う読者もいるかもしれない。しかし、そこは安易にあきらめず断念せず根をあげずに、とりあえず石母田「平家物語」の最後の「むすび・平家物語とその時代」が本書の全体像を示すまとめ記述になっているのだから、律儀(りちぎ)に最初から順番通りに読まずに、この際まず最後の「むすび」の章から読み始めることをお薦めする。

最終の「むすび・平家物語とその時代」にて、石母田は「平家物語」に関し主に三つの対立評価の見方を挙げる。

(1)治承・寿永の乱の叙事詩たる「平家物語」は、中央での源氏と平氏の棟梁間の、いわゆる武士エリート同士の源平の争乱を物語的に描いている。と同時に中央以外の地方でも国衙の権力や荘園の領家や在地の領主間でも利害をめぐる争いがあり、地方勢力の武士層からの中央権力への叛乱もあって国々は乱れており、時代全体の混乱を反映して、ゆえに歴史学的な古代末期の時代の内乱を「平家物語」は語りの基礎背景にもしている。

(2)源氏の興隆を主題とせずに平氏の滅亡の方をあえて主題に選択する「平家物語」は、人間の力ではどうすることも出来ない、運命の支配に必然的にともなう悲哀の情を主題としている。そこには人力では如何ともしがたい振り払っても避けられない人間の宿命甘受の一種の厳しさ、深刻さ、厳粛さの悲しみの暗さがある。また生あるものは、すべて滅びる、すべてのものは移り変わる(諸行無常、盛者必衰)無常観、詠嘆の感傷主義もある。しかしながら、それと同時にどんな巨大な力も運命が来れば死ぬしかないのだから、むしろ運命の前で人間の無力さを笑い飛ばす無邪気な現世の明るさと人間の生の面白さの描写、また来世への期待や賛美、そこへの逃避による現世における運命の厳しさの中和・弱化の側面もある。

(3)日本の古典文学である「平家物語」の歴史的位置づけについて、「平家物語」は政権中枢に属する武家の近親や側近間の人的関係を描き、それまで以前の王朝の主情的な物語文学の世界と直接に連続している古代文学の特徴がある。と同時に、この時代の地方の諸階層や新たに登場してきた人間達の凄まじさを描き出し、単なる記録にとどまらない有機的で物語的な年代記的叙述の工夫は古代文学のそれではなく、中世文学の第二次的な叙事詩としての特徴も様々に備えている。

そして、ここが石母田の優れている所であり、岩波新書「平家物語」にてまさに読まれるべき所なのだが、(1)中央武士と地方武士の各々の思惑、地方と中央との対立、(2)みずからの死を含む運命に抗(あらが)う悲劇と、自身の死をも甘受する過酷な運命の前での開き直りの喜劇、(3)主情的な王朝文学たる古代文学の要素と、年代記録的な抒情詩としての中世文学の物語要素。それら主な三つの対立を列挙しながら、あえて択一し片方のみを肯定して他方を否定したり無理矢理に統一や止揚させたりすることなく、対立の矛盾のまま放置しておく。

そうして、それら列挙され放置されたままの対立矛盾が、そのまま古典文学たる「平家物語」を通しての、その裏に人間の生への執着を隠し持った人間生のはかなさや人間存在の無力さ(なぜなら人間生に執着しなければ、そもそも原理的に人は人間生のはかなさや無力さや無情を感じることはないから)、人智を超えたもののはからい、ゆえに人力ではどうすることも出来ない人の世のわびしさと現世における人間の生の開き直りの積極性の明るさ、悲劇と安心の運命・宿命の甘受、古代文学からの継承と中世文学としての革新といった物事の両側面を複雑に多面的に照らし出して読む者に強く感じさせる。そういった仕組みの仕掛けである。

古典文学の「平家物語」の成立と形式と内容記述にこだわって、ここまでいちいち細部に引っかかり深く掘り下げて一冊を書き上げる石母田正に私は感服する。岩波新書「平家物語」を始めとして石母田の著作を読むたび、「常に手強い相手と取り組むことを通じて自らが鍛(きた)えられ結果、向上できる」人生の真理を私は実感する。石母田正の著作は精読して正確に理解するには時間がかかるし労力も要る。しかし、読む者は確実に鍛えられる。