アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(79)飯島裕子「ルポ 貧困女子」

岩波新書の赤、飯島裕子「ルポ・貧困女子」(2016年)は現代日本の貧困問題を扱ったもので、若年女性(いわゆる「女子」)に焦点を定めたルポだ。

本書は全7章よりなる。第1章と第2章は家族に着目し、経済的に不安定なシングル女性たちにとって実家や家族は安らぎや保護ではなく、時にさまざまなリスクをはらむものになり得ることが明らかにされている。「家事手伝い」という名のもとで昔から見過ごされがちであった女性のひきこもりについてのルポもある。第3章と第4章では労働世界に目を向ける。第3章では正規雇用で働いた経験のある女性たちの過酷な労働環境について、第4章は若年女性の半数近くが従事している非正規雇用の貧困の実態について掘り下げる。

第5章では結婚・出産に関する問題を取り上げている。具体的な女性へのルポと共に国を挙げての現在の少子化対策に対する著者の厳しい批判もある。第6章では女性活躍推進によって拡がる女性の分断と二極化について考察されている。特に雇用の場において、新卒の正規採用で「総合職」にある社会的・経済的に安定した女性と、何らかの事情で新卒正規を外れたため、中途採用ないしは非正規雇用にて社会的・経済的にも不安定な女性との分断二極化の格差の問題、女性同士つながることが難しい中、困難な状況にある女性らがさらに孤立していく様をルポに収めている。そして最終章にて、これまでの報告と考察を踏まえて女性たちが置かれた状況をどう改善していくか、「終章・一筋の光を求めて」として著者なりの問題解決への提言がなされている。

本書では、例えば第2章での「家事手伝い」という名のもとで不可視化される女性のひきこもりや、第5章にてのシングル女性に対する結婚・出産プレッシャーと社会の少子化というように、著者は昨今の貧困格差の問題だけを必ずしも扱っている訳ではない。仮名の各人インタビューを通して現在の女性たちが抱える様々な問題を幅広く扱っている。ゆえに一読の印象、本新書のタイトル「貧困女子」は本書のルポ内容と合致しておらず、ちぐはぐな感じがする。「貧困女子」といった場合、今日の新自由主義(ネオリベラリズム)政策下での市場万能主義風潮の結果、多くの人が非正規雇用を余儀なくされ社会的保障のケアなく「自由な」個人として市場に放り出され、低賃金・長時間・仕事の安定供給なく使い捨てにされる「ワーキングプア」(正社員並みに働いているのに生活保護水準にも満たない収入しか得られない就労社会層。「働く貧困層」ともいわれる)の貧困問題にて、さらに女性に対象を絞ったルポ内容を予想させるからだ。

本書は雇用における女性の貧困格差の問題のみを特化して扱っているわけではなく、経済的所得の貧困も含めて、より広く深く「働きづらさ、生きづらさに悩む女性たち」の問題を掘り起こそうとしているのだから「ルポ・現代女性の生きづらさ問題」といったタイトル表記の方が内容に合って、より適切なようにも思える。こうしたタイトル「貧困女子」の違和については著者自身も少なからず気になっているようで、本論中で以下のように述べている。

「本書のタイトルを『貧困女子』とすることについてずっと躊躇(ちゅうちょ)していた。…『貧困』という言葉を用いた途端、可処分所得の多寡(たか)などによる客観的な選別が始まってしまう。しかし、女性の貧困は把握しづらく、『貧困』という言葉を使うことによって、周辺層を排除してしまう可能性があると考えたからだ。…最終的にタイトルを『貧困女子』としたのは、やはり『貧困にすらなれない女性たち』を可視化させることから始めなければならないと考えたからだ。それは同時に『空気のように漂う生きづらさ』を可視化させることであると思っている。満足な仕事もしていないくせに、まともに税金も払っていないくせに、結婚していないくせに、子どもがいないくせに、といった『空気のように漂う生きづらさ』と自己責任のループに絡め取られてはならない。立ち込める雲の中から一筋の光を求めて、誰一人として生きづらさを感じない社会を目指すことをあきらめてはならないのだ」(「貧困女子を超えて」220─224ページ)

なるほど「貧困女子」題名の適切さ云々はともかく、現象的な「貧困」問題にとどまらない「空気のように漂う現代女性の働きづらさ、生きづらさ」を可視化させなければならないとする著者の主張は理にかなっている。まずは現場報告のルポの手続きを通し、それら女性の働きづらさ、生きづらさの問題を可視化させることで、まさに働きづらさ、生きづらさを抱える女性たちの現状を日本社会の構造上の問題として俎上(そじょう)に載せて意識化し人々が共有化できる。結果、問題解決へ向けての思考や取り組みが可能となる。この意味において、本書に掲載されている著者のインタビューに答える現代日本の個々の「貧困女子」たちの語りは傾聴に値する。岩波新書の飯島裕子「貧困女子」は、最終章での現代女性の働きづらさ、生きづらさ問題の改善のための著者による政治主義的観点からの提言も含めて、本論の全6章にてのインタビューを受けた女性たちの語りが率直に読まれるべきであろう。

それにしても各女性のインタビューにて彼女らは確かに「貧困女子」であり、社会的・経済的に苦しい困難な立場に置かれているのだが、皆に共通するのは、そもそもの人間関係、人との交わりに関する「貧困」が皆にほぼ共通してあって、そのことが彼女らの生きづらさの根本にあり、そうした人的関係の貧しさが結果的に経済的「貧困」の困難状況を引き出しているということだ。

例えば、黒木亜紀さん(仮名、三九歳)の場合はこうである。彼女は有名私大を卒業後、狭き門を突破してアパレル会社に就職、営業職として働いた。しかし、彼女が就職した1990年代半ばはバブル時代に大量採用したツケを支払うべく新人採用を減らしたため、「新入社員が彼女一人だけ」「何年経っても後輩が入ってこない」過酷な労働環境にて地方出張や部署内の庶務や雑用まで任され、黒木さんは過労で帯状疱疹になり入院したこともあった。帰宅は日付が変わってからという生活に疲弊し、彼女は三年で退職してしまう。その後、アロママッサージの学校に通いセラピストとしてアロマサロンに再就職するも、店の厳しい売上目標(ノルマ)強要や先輩と同僚社員からのイジメにより数ヵ月で退職してしまう。それから母親に家族経営の会社の事務を手伝ってほしいと頼まれ現在の職に至る。ところで黒木さんには妹がいる。優等生タイプで、いつも母親の期待に応える「いい子」だった黒木さんとは異なり、妹は母親からのプレッシャーはほとんどなく自由に育ったという。妹は短大を卒業後は家を出て彼氏の家に同棲し、やがて妹は会社を経営するビジネスマンとの結婚が決まり子どもを二人出産した。すると「妹に娘が生まれてからは、母の関心事は孫中心になりました。ある時、母が『あなたは昔、妹よりも優等生だったかもしれないけれど、エリートと結婚し、子どもを産んだ妹は女としての幸せをつかんだ。それに比べいつまでも実家を出られないあなたは親不孝だ』というようなことを言ったんです。張りつめていた糸がプチっと切れたような感覚に襲われました」。およそ、こういった「貧困女子」の語りである(「優等生でなかった妹が今は女として上」145─148ページ)。

黒木さんは実家暮らしのシングル女性で確かに経済的に「貧困」であるが、それ以前に人間関係に恵まれておらず、人的出会いに悉(ことごと)く運がないように思える。その運のなさとは、彼女の事例でいえば新卒正規雇用なのに新人の労働環境に全く配慮しない最初の職場企業の冷徹さ、再就職先のアロマサロンでの営業成績の厳しいノルマや先輩同僚らによる心ないイジメ、さらには妹と比較して無慈悲な言葉を浴びせかける母親だ。

黒木さんのケース以外でも本書収録インタビューを読んでいると、労働意欲も能力もあるのに過酷な労働環境にて過労で心身ともに潰れ発病して退職したり、上司や先輩や同僚らによる人的関係のイジメで、やむなく退職した女性の告白が実に多い。そして労働雇用の場で新卒正規採用のコースを一度外れて離職すると女性の再就職は困難で、低賃金・社会保障なし・短期の雇い止めで不安定な非正規雇用しかない。非正規のパートやアルバイトに就くとスキルアップの機会なく、彼女らが現状の非正規雇用から抜け出すのは困難を極め、いわゆる「非正規という負の連鎖」であり、その後もずっと「貧困女子」を強いられることとなる。

そうした「貧困女子」たちにほぼ共通してある、人との交わりに関する「貧困」が彼女らの生きづらさの根本にあり、そのような人的関係の貧しさが結果的に経済的「貧困」の困難状況を引き出しているように思える。貧困とは、そのまま当人の「人的関係の貧しさ」の反映に他ならない。親切なよい人との幸運な出会いや仲間どうしでの連帯があれば、職場への定着も雇用の確保も自身の生きづらさの払拭も幾分かは果たせるように思う。もちろん、それだけで十分ではないが。

この点について、本書でも岩田正美「社会的排除」(2008年)に依拠した、貧困を捉えるに当たっての人や社会との関係性に着目する「社会的排除」という概念を用いて現代女性の貧困について考察されている。女性の貧困問題を所得の多寡の数値だけではなく、家族や友人や職場の上司・同僚との「人間関係の緊密さと豊かさ」の観点から、彼女達を孤立・疎外させない施策の貧困対策が求められる。その意味で、人や社会との関係に着目して貧困を捉える「社会的排除」という概念を噛(か)ませた以下のような著者の提言は大いに示唆に富む。

「そもそも貧困とは何なのか?近年、所得の多寡だけではなく、家族や友人など頼れる人間関係はあるか、教育を受ける機会があったか、健康で社会参加することができるかなど、人や社会との関係に着目して貧困を捉える、『社会的排除』という概念が一般化されつつある。…実家暮らしの女性は、現在、衣食住に困ることはないかもしれないが、親の死後、貧困に陥る可能性が高い。また同じ仕事がない状態でも、学歴や職歴がある女性とない女性では、貧困状態から脱する可能性も変わってくる。とりわけ不可視化されやすい女性の貧困を見る時は、社会的排除概念に基づき、過去と未来の生きづらさ、働きづらさも視野に入れた指標が必要であるように思う」(「貧困とは何か?」208ページ)