アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(9)荒井献「イエスとその時代」

イエスの十字架の最期の死の意味とは如何(いかん)。

イエスを殺したのは、ローマ・ユダヤの政治権力とユダヤ教の神殿司祭の勢力であった。ここにあるのは政治権力と宗教権威とが癒着し、宗教が体制維持のイデオロギー機能を果たし政教一体で特権を有して利権をむさぼり、階級構成して底辺民を差別し結託統治し総じて人々を抑圧支配していた厳しい歴史的現実だ。そして、イエスはそうした政治権力と旧宗教勢力の両方に批判的であり、ゆえに当時の「新興」宗教家として、これまた当然のごとく政教両権から弾圧される。イエスの死の意味、そこからの結論として「宗教とは何か、宗教とは本来いかにあるべきか」。すなわち「宗教の本来的なあるべき姿というのは、国家の政治権力と、その政治権力と癒着し体制イデオロギー化して国家に奉仕する権威的宗教教団、それら世俗権力に対する一貫した強い否定である」。そういった宗教観とイエスに対する理解を私は持っている。

岩波新書の青、荒井献「イエスとその時代」(1974年)も国家の政治権力と神殿・律法の宗教権威に対決し、民衆と共に生きて最期はローマ帝国の役人とユダヤ教の司祭・律法者に殺されるイエスの生涯を描いたものだ。本書の結語は以下である。

「もちろんイエスは、一度も自らメシアになること、つまりキリストなることを主張しなかったし、現在のローマ支配体制を倒して、新しい神支配体制を打ち立てる意図を持っていなかった。彼はただひたすらに、当時の政治的=宗教的体制によって差別されていた『地の民』あるいは『罪人』のもとに立ち、民衆と共にあって、人間が人間らしく生きることを、人間が他者から生きる生活を共有し合えることを求めてに過ぎない。そして、その結果必然的に差別をつくり出しているユダヤ支配者たちの、民衆に対する日常的しめつけの部分を批判することになり、それが次第にエスカレートしていって、律法批判から神殿批判に至ったということである。これは、ユダヤの体制側から見れば、まさに神を冒涜(ぼうとく)する行為であり、このことは、神制政治をとる彼らから見れば、直ちに反政府運動と判定されることになる。…イエスがその振舞をもって志向したところが、人間の裡(うち)なる差別の止揚とその具体化にあったとすれば、これはいかなる国家体制のもとにあっても主張し続けられるべきものであり、究極的には国家そのものの存在を許さないことになる。なぜなら、国家というものは、それがどのような政治形態を持つにせよ、自己を絶対化する傾向から自由になることはできないからである。そして、このような国家における絶対化への傾向が極まるのは、一つの国家体制が絶対化のイデオロギーとして『神的なるもの』を導入する場合であろう。イエスの時代、それはまさしくユダヤの神殿国家体制であり、それを許容できる限りにおけるローマ帝国主義であった。それ故に、イエスのような存在は、政治的に、従ってここではローマ総督の判決によって、抹殺されなければならなかったのである」(205・206ページ)

長い引用となったが、単なる超時代的な宗教倫理を抽出の無難な道徳的説教に終始しない、イエスが生きた時代の歴史的状況や社会的現実を押さえ、「国家の政治権力と、その政治権力と癒着し体制イデオロギー化して国家に奉仕する権威的宗教教団、それら世俗権力に対する一貫した強い否定」を貫いたがゆえに、政教両権に最期は抹殺されるイエスの生涯を明らかにした新約聖書学の「誠に良い結語の文章だ」と率直に思う。

ただ、この荒井献を始めとして最近の聖書学者の聖書研究は、歴史学がやるような史料批判の手法を使って、新約記述を一度解体し再構成して再度読み込む作業を非常に分析的に細かくやる。例えば「ここまではQ資料に基づく文章だが、以下の部分は福音記者によるつけ加えの文だ」とか、「ここにイエスの発言の本意を越えた初期教団の誘導記述が見られる」といった新約記述の史料批判、イデオロギー暴露的分析を重ねる。こういった新約聖書学の文献批判の学術成果は普段、日常的に聖書を読む際に私たち一般人はどう繰り込めばよいのか。

新約を読んでいて「こういった書き方は、いかにもユダヤ教に素養があるマタイらしい。マルコとは明らに書きっぷりが違う」とか、「ここは初期教団の意向が入った教団説教のような体制イデオロギー的書き方になっている」などの軽い感慨はあれど、荒井が本書でやっているような詳細な分析的読みの実践を聖書に対して一般の人は日常的になかなかやらない。

荒井は本書にて「私はイエスに歴史的接近を試みた。そのために私は、イエスに関する伝承の最古層からイエスの振舞を推定した。この推定にまで至る手続き(史料批判の過程)が、読者には煩瑣(はんさ)と思われるに相違ない。しかし、これなしには歴史的接近にはならないのである」(207・208ページ)と述べてはいるが、少なくとも私はそうした「煩瑣と思われるに相違ない」史料批判の手続きをやらずに、そのまま新約を読む。特にキリスト者の平信徒や教団経営に携わっている教団幹部の聖職者、地域の教会神父・牧師は日々真剣に聖書に接していると思うが、荒井のような聖書学者による厳密な史料批判の文献研究の成果をどう活用すべきか。

「イエスとその時代」には、田川建三の書評「論争以前のこと・荒井献『イエスとその時代』の著作技術について」(1984年、田川「宗教批判をめぐる・宗教とは何か・上」に所収)があり、それも併(あわ)せて読むと面白い。田川建三による荒井献「イエスとその時代」に対する痛烈な批判である。「荒井は日本の一般読者には分からないだろうとタカをくくって、あの著作で出典表記なく海外の研究者の論文を、あたかも自分の考えのごとくそのまま丸写しの引用盗作している。しかも、その丸写しの引用文が誤訳である」という旨の新約聖書学同業者による楽屋裏話的ネタ元ばらしの告発批判(?)になっている。