アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(457)芝健介「ヒトラー」

岩波新書の赤、芝健介「ヒトラー」(2021年)のタイトルにもなっているヒトラーについて、20世紀を生きてきた現代の人なら彼のことを知らない人はいないとは思うが、念のため確認しておくと、

「アドルフ・ヒトラー(1889─1945年)は、オーストリア生まれのドイツの政治家。ドイツ国首相、および国家元首(総統)であり、国家と一体であるとされた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者。1921年以降ナチスの党首となり、ヴェルサイユ体制打破と反ユダヤ主義・反共産主義を唱えた。恐慌による社会危機の中で1933年に政権を獲得。国内政治にて議会制民主主義を否定する独裁体制(ファシズム)を敷き、対外政治では露骨な膨張・侵略政策を強行して、第二次世界大戦の一因を作った。第二次大戦のドイツ敗戦直前に自殺した」

ヒトラーに関し、彼をして「ユダヤ人の大量虐殺(ジェノサイド)をなした悪魔的人物、民主主義の議会政治を否定し独裁体制を敷いた全体主義の独裁政治家、つまりはファシスト」などとあからさまに攻撃してヒトラーを全否定する、さらにはそうしたヒトラー批判の否定的評価が大勢を占める中で、あえての逆張りでヒトラーを無駄に尊敬したり崇拝したりする極右のネオナチの人たちが両端に様々にいる。私は前者の感情的なヒトラー憎悪の反ファシズムのナチス批判の人々も、後者のヒトラーを崇拝擁護の親ファシズム派の人達に対しても、ともに良感情の高評価を下すことは出来ない。

また今日では映画やアニメなどで定番の「悪の首領」といえば、ちょび髭で痩せ型で神経質、ナチス風の軍服衣装に身を固め、ところ構わず頻繁にナチス式敬礼をしてみせる明らかにヒトラーに模した滑稽(こっけい)人物の悪役がよく登場したりするけれども、そういった「独裁者・ヒトラー=悪の典型」でパロディ化して笑いのめすヒトラーをめぐる諧謔(かいぎゃく)、あるいはそれを素材に安易に笑いをとって商売する滑稽な悪役としてのヒトラーの市場化・商品化に正直、私は全く共感できない。おそらく、このような「独裁者・ヒトラー=悪の典型」でパロディ化し笑いのめす滑稽なヒトラー像を最初に創造し大衆に提供したのは、チャップリンの映画「独裁者」(1940年)からである。本映画はまだヒトラーが存命中のドイツ政権掌握時になされたものであった。ここから滑稽な典型悪役としてのヒトラーの市場化・商品化が始まり、それは飽きることなく今日まで延々と続けられているわけである。

第二次大戦終結から現在に至るまで戦後のドイツ社会では、ヒトラーとナチスに対し共感したり擁護したり賛美したりの肯定的言動を取ると、袋叩きにあい公的地位を剥奪(はくだつ)されて即に社会的に抹殺される。私も、強制収容所送りの大量殺戮(さつりく)でユダヤ人迫害をなし、議会制民主主義を否定して全体主義の独裁体制(ファシズム)を確立したヒトラーを人間倫理的に肯定するつもりは全くない。その非人道的な振る舞いは歴史的蛮行として、積極的に非難されてしかるべきであろう。ヒトラーならびにナチスの歴史的所業を擁護・正当化する気は皆無なのだが、しかしヒトラーに関し、やはり彼の政治家としての力量、ある種の優秀さを私は認めざるを得ないのである。この場合の「政治家としての力量、優秀さ」とは、より厳密には市民虐殺ら非人道的な、人間にとっての諸倫理価値を捨象した所での、「政治とはより本質的かつ根源的にいって、ある人物が自分以外の他者を誘導し操作して動かそうそする対他的な働きかけの総称」と取り急ぎ簡略にここでは定義しておきたい。

自国ドイツの国民大衆一般と当時ナチス・ドイツと対立していた英仏やソ連のヨーロッパ各国政府の指導者ら、様々にある他者を幅広く操作し誘導して己の意のままに動かそうとする、そして現実にある時期まではほぼ完璧に動かし得たヒトラーの自在さ、この対他的働きかけの総称としての「政治」的意味において、確かにアドルフ・ヒトラーは「歴史上類(たぐい)まれなる極めて優秀な政治家」であったのだ。

その結論を導くため、ここでは以下の「ヒトラー生涯年譜」を軽く眺めてみよう。

1889年(0歳)・オーストリア・ハンガリー帝国のブラウナウ地方でバイエルン人の税関吏アロイス・ヒトラーの4男として生まれる
1900年(11歳)・小学校を卒業。大学予備課程(ギムナジウム)には進めず、リンツの実技学校(リアルシューレ)に入学する
1905年(16歳)・シュタイアー実技学校中退。以後、正規教育は受けず
1906年(17歳)・遺族年金の一部を母から援助されてウィーン美術アカデミーを受験するも不合格
1909年(20歳)・住所不定の浮浪者として警察に補導される。水彩の絵葉書売りなどで生計を立てる

1913年(24歳)・オーストリア軍への兵役回避の為に国外逃亡。翌年に強制送還されるが「不適合」として徴兵されず
1914年(25歳)・第一次世界大戦にドイツ帝国が参戦するとバイエルン軍に義勇兵として志願
1918年(29歳)・マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより野戦病院に収監。入院中に第一次世界大戦が終結する。最終階級は伍長勤務上等兵
1920年(31歳)・ドイツ労働者党の活動に傾倒し、軍を除隊。党は国家社会主義ドイツ労働者党に改名される
1921年(32歳)・党内抗争で初代党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、第一議長に就任する 

1923年(34歳)・ムッソリーニのローマ進軍に触発されてミュンヘン一揆を起こすも失敗。警察に逮捕。禁錮5年の判決を受ける
1926年(37歳)・『我が闘争』出版。党内左派の勢力を弾圧し、指導者原理による党内運営を確立
1928年(39歳)・ナチ党としての最初の国政選挙。12の国会議席を獲得
1933年(44歳)・大統領ヒンデンブルクから首相指名を受ける。全権委任法制定、一党独裁体制を確立
1934年(45歳)・突撃隊を再編成し独裁体制を強化。ヒンデンブルク病没。大統領の職能を継承し、総統(ヒューラー)となる
1936年(47歳)・非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる(ラインラント進駐)。ベルリンオリンピック開催
1938年(49歳)・オーストリアを武力恫喝し併合する。ウィーンに凱旋。ミュンヘン会談でズデーテン地方を獲得
1939年(50歳)・チェコスロバキアへ武力恫喝、チェコを保護領に、スロバキアを保護国化(チェコスロバキア併合)。同年に独ソ不可侵協定を締結。ポーランド侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発

1940年(51歳)・ドイツ軍がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻。フランス降伏
1941年(52歳)・ソビエト連邦に侵攻を開始(独ソ戦)。年末には日本に追随してアメリカに宣戦布告
1943年(54歳)・スターリングラードの戦いで大敗。連合軍が北アフリカ、南欧に攻撃を開始。イタリアが降伏
1944年(55歳)・ソ連軍の一大反攻により東部戦線が崩壊。連合軍が北フランスに大規模部隊を上陸させる(ノルマンディー上陸作戦)。7月20日、自身に対する暗殺未遂事件により負傷
1945年(56歳)・長年の愛人であったエヴァ・ブラウンと結婚。ベルリン内の総統地下壕内で自殺。享年56

上記の簡略な「ヒトラー生涯年譜」を軽く眺めただけでも分かるのだが、ヒトラーの生涯にて34歳の「ムッソリーニのローマ進軍に触発されてミュンヘン一揆を起こすも失敗。警察に逮捕。禁錮5年の判決を受ける」から、50歳の「チェコスロバキア併合。同年に独ソ不可侵協定を締結。ポーランド侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発」に至る1923年から1939年までの約15年間、この時代は「ヒトラーの生涯最高の時期であり、歴史的なヒトラー奇跡の時代」と私には強く思える。とにかくこの時代のヒトラーはやることなすこと全部が上手くいき、誤った情勢判断や間違った意思決定は皆無で全くの悪手の失策がないのだ。通常、人は人生の途上にて少なからず間違いの失策をやり、しかし後に対処してリカバリー(回復)で巻き返し、以前の失策を実質無しにしたりする。そのように成功の妙手と失敗の悪手とをある程度、相互に繰り返しながら最終的に全体での「勝ち」の優勢の方を積み重ねていくものである。ところが1923年から1939年までの約15年間、ヒトラーに関しては何ら「負け」の失敗の失策らしい悪手が一つもないのだ。「勝ち」の連続の「勝ちっぱなし」である。これは「歴史的なヒトラー奇跡の時代」と言ってよい。この時代のヒトラーは自在であり完璧だ。

何よりも見るべきは、「1923年の34歳の時点で、ムッソリーニのローマ進軍に触発されてミュンヘン一揆を起こすも失敗し、警察に逮捕され禁錮5年の判決を受け投獄される」。ここでヒトラーは、「一揆」のような突発的で非合法な暴力的権力奪取の無効性を心底から身にしみて悟る。それから自身の公式プロフィールたる自伝的自己考察の書「我が闘争」を1926年の37歳の時に刊行し、1928年の39歳でナチ党を率いて国政選挙に挑むのだった。このミュンヘン一揆の失敗、自身の逮捕と投獄を受けての非合法な暴力革命路線から、後に国政選挙を介した合法的な政権獲得に転ずるヒトラーの政治活動家としての戦術的転回が実に素晴らしい。従来、ヒトラー及びナチスに批判的などのような論者であっても、このヒトラーの権力獲得に至るまでの、ある種の「合法性」は認めなければならない。ヒトラーはドイツ混乱期のドサクサにまぎれてクーデターなど暴力的行動により偶発的にヒトラー内閣を組閣して一国の首相や大統領を兼務する総統になったのではない。その都度、合法的な国政選挙にて「国家社会主義ドイツ労働者党」であるナチスの議席を着実に増やして行き、議会獲得議席最多の最大勢力の第一党になったことで、ヒトラーは首相や大統領の地位の頂上にまで遂には登り詰めたのであった。

事実、ヒトラー率いるナチスは1928年の国政選挙では全600議席の内わずか12議席しか獲得できなかった。しかし後の1930年の選挙では107議席と着実にその勢力を伸ばし、選挙を重ねるごとにナチスの党勢はとどまるところを知らず、1932年7月の国政選挙では233議席で最大議席を占め一躍最大勢力の第一党に躍(おど)り出る。この後も1932年11月の選挙では196議席、1933年には288議席の最大議席を堅持した。このため、第二党のドイツ社会民主党(SPD)とそれに続くドイツ共産党(KPD)はナチスに対抗できずナチスの独走を止められず、ドイツ大統領ヒンデンブルクも当初はナチ党のヒトラーに冷淡であったが、1932年選挙にてナチスが第一党に躍進したことから、もはやヒトラーの存在を無視できなくなっていた。かくしてヒンデンブルクがヒトラーを首相に任命して、1933年にナチス政権(ヒトラー内閣)の合法的成立に至る。そうしてヒトラーのナチス政権は、1933年に全権委任法(議会の協賛を得ずして政府に法律を制定できる権限を授権するもの。国会の立法権を無効化し、時の政府に行政と立法の権限を与えるもの。この全権委任法により第一次大戦後の民主的自由を志向したヴァイマル憲法は事実上の無効廃止に追い込まれ、ドイツの民主主義は否定されたとされる)を議会にて3分の2以上の賛成票を集め可決成立させ、一党独裁体制を極めて合法的に確立していった。その上で1934年に権力掌握したヒトラーは突撃隊(略称SA。反ナチス勢力を暴力で打倒することを主任務とした直接行動部隊)を再編成し、反ナチス勢力を排斥して独裁体制を強化。同1934年のヒンデンブルク病没によりヒトラーは大統領の職能も継承し、総統(ヒューラー・大統領と首相と党首の全権保持者)に就任して名実ともに独裁体制を完成させたのである。

先に私は、従来ヒトラー及びナチスに批判的などのような論者であっても、このヒトラーの権力獲得に至るまでの、ある種の「合法性」は認めなければならないことを述べた。ヒトラーはクーデターの暴力的行動により偶発的にヒトラー内閣を組閣して一国の首相や大統領を兼務する総統になったのではない。その都度、合法的な国政選挙にて「国家社会主義ドイツ労働者党」であるナチスの議席を着実に増やしていき、議会獲得議席最多の最大勢力の与党第一党になったことで、最後に総統の頂上にまで登り詰めたのであり、最大勢力与党のナチスを通し議会での合法的可決決定を経て全権委任法などの議会師民主主義否定の独裁体制を徐々に確立させていったのだった。ということは、ヒトラーおよびナチスが結果的に議会制民主主義否定の独裁体制を敷けたのは、ヒトラーとナチス幹部らの暗躍があっただけではなく、そうしたヒトラーとナチスに熱狂し積極的に支持して選挙の度にヒトラーのナチ党に投票した当時の大多数のドイツ国民が存在したからである。ヒトラーとナチスの独裁政治を成立させたのは、確かにヒトラーとナチス幹部らであったが、それ以外にもヒトラーのナチスに熱狂し熱烈支持の投票行動に走った当時の大多数のドイツ国民でもあったのだ。

このことに思い至れば、ヒトラーに関し、彼をして「ユダヤ人の大量虐殺(ジェノサイド)をなした悪魔的人物、民主主義の議会政治を否定し独裁体制を敷いた全体主義の独裁政治家、つまりはファシスト」などとあからさまに攻撃してヒトラー個人を痛烈に全否定したり、今日にて映画やアニメなどで定番の「悪の首領」として、「独裁者・ヒトラー=悪の典型」でパロディ化し笑いのめすヒトラーをめぐる諧謔(かいぎゃく)、あるいはそれを素材に安易に笑いをとって商売する滑稽な悪役としてのヒトラーの市場化・商品化に全く共感も感心もできないのは至極当然である。

確かにヒトラーは大衆扇動に長(た)けていた。ヒトラーは多くの人々の前での演説を好み、大衆を惹(ひ)きつけ熱狂させる自身の演説の技術(テクニック)に相当な自信を持っていた。またヒトラーとナチス幹部らは、第一次世界大戦後の世界的な大衆消費社会の到来を背景に格段の技術進歩を見せた広告技術に比定される、政治プロパガンダで大きな成功を収めた。ヒトラーたちナチスは大衆への宣伝・大衆感化の方法を熟知していたのだ。その際の民衆を熱狂させ自らへの支持を取り付けるナチスの政治的扇動の内容を教科書的に挙げれば、以下のようになろうか。

(1)第一次世界大戦の、英仏によるドイツに対する屈辱的ヴェルサイユ体制の打破(特に普仏戦争より長年に渡り因縁あるフランスに対するドイツの対仏復讐心)。(2)反共産主義(ドイツ国内の共産党と国外のソ連のスターリンへの対抗。強い反共意識)。(3)ユダヤ人の排除と迫害(ドイツ人のゲルマン民族優位性の主張と、その裏返しとしてのユダヤ人に対する強烈な嫌悪感。ドイツの国威高揚を主眼としたベルリンオリンピックの開催など)。(4)公共事業のバラマキと軍需産業との癒着(ゆちゃく)、失業者の救済(景気回復と軍事目的から国内高速道路のアウトバーン建設の推進など)

これらはいずれも、恣意的に不自然なまでに憎むべき敵を作って(第一次大戦でドイツを負かし屈辱的ヴェルサイユ体制の戦後講和をドイツに仕向けたフランスとか、ドイツ国内とソビエトの共産主義者とか、ゲルマン民族たるドイツ人と対立するユダヤ人とか)、それら人々に対する憎悪を炊(た)きつけて自分らの意のままに誘導したり、その敵対憎悪を通し逆に自分たちへの積極支持を取り付ける政治手法の典型である。ヒトラー登場時の新たな大衆社会、大衆政治の成立初期段階にて、そうした恣意的に不自然なまでに憎むべき敵を作り、それら敵対する人々への憎悪を炊きつけ自国民を誘導しようとするナチスの大衆への宣伝・大衆感化の方法に、当時のドイツ社会の人々が未経験で無知であり、だまされやすい事情があったことも確かにあるだろう。

ただ私から言わせれば、大衆を扇動してだますヒトラーとナチス幹部らも悪いが、同様にヒトラーとナチスに熱狂し熱烈支持した当時のドイツ国民にも同じくらい重い重大過失の政治的責任の一端はあるのだ。「だます方も悪いが、だまされる方も悪い。いくら悪意を持っただます人がいたとしても、それに呼応してだまされる人がいなければ、そもそものだます行為は成立しない」と最後に控えめに私は言っておこう。