アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(90)池内了「科学者と戦争」

岩波新書の赤、池内了「科学者と戦争」(2016年)は著者が本文中にて直接的に述べているように、「本書は、いま日本において急進展しつつある軍(防衛省・自衛隊)と学(大学・研究機関)との間の共同研究(=軍学共同)の実態を描き、今後予想される展開に対して警告を発するために書いたものである」(197ページ)。

本書の論旨は非常にはっきりしている。極めて明快である。軍(防衛省・自衛隊)と学(大学・研究機関)との間の共同研究、いわゆる「軍学共同」が推進される今日の日本の科学と科学者に対する著者の一貫した反対表明、容赦のない徹底批判である。それは、氏のなかに「科学者が戦争のために研究を行なうことへの批判」の意識が強くあるからに他ならない。

事実、著者の池内了が呼びかけ人の一人を務める「軍学共同反対アピール署名の会」を通して2014年8月以来、署名活動とともにシンポジウムやマスコミ向けの働きかけを行った結果、多くの市民から軍学共同の進展に対し強い懸念と怒りが表明された。科学者が戦争のための研究を行うことに驚き、裏切られた感情を持った人が多いという。第二次世界大戦終了時からごく最近まで、日本では公然たる軍学共同は行われてこなかった。それは明治以来の富国強兵策の時代と、それに続く第二次世界大戦まで、日本の科学者は国家のため、あるいは戦争のために研究を行ってきた科学帝国主義の歴史への反省から、戦後は科学者は世界の平和のため、人類の幸福のため、そして正義のために研究を行うべきと考えられていたからだ。ところが近年、日本の政治の保守化、右傾化、軍事化と軌を一にして戦争軍備に直結する軍事と科学の「軍学共同」が急進展してきた、と著者は警鐘を鳴らす。

本書は全四章よりなる。第1章「科学者はなぜ軍事研究に従うのか」では、世界の軍事研究の歴史をたどる。また日本の戦前・戦時中の科学動員を振り返るとともにナチス・ドイツ時代の著名な物理学者、三人の生き方を吟味して著者自ら痛切な批判を加えている。すなわち、プランクの「悪法も法」とする態度、ハイゼンベルグの科学至上主義、デバイの日和見主義的科学主義に対する著者の批判である。

第2章「科学者の戦争放棄のその後」では、戦後における日本の科学者の平和路線とそのゆらぎを見ていく。現在、進行しつつある空(宇宙)と海(海洋)の軍事化路線を検証し、「軍学共同」への防衛省の戦略を著者は読み解き明らかにする。

第3章「デュアルユース問題を考える」では、軍学共同の口実あるいは積極的理由として時に使われるデュアルユースについて論じている。「デュアルユース」とは両義性、二面性という意味だ。「いかなる科学・技術の成果物も、使い方次第で生活の助け(平和のため)にも殺人(戦争のため)にも使うことができる。科学そのものは中立だが、科学技術となると善にも悪にも用いられる。…科学はデュアルユースだから、悪用されてもそれを作りだした科学者には罪はなく、そのように悪用した人間のみに罪がある」(114ページ)。こうした「科学はデュアルユース」の議論に便乗し社会的判断や社会的責任を放棄する科学者の姿勢(デュアルユース問題)を始めとして、「軍事研究に関する(日本の)研究者へのアンケート」回答のうち軍事研究を容認・推進する立場の意見に対し、著者の反論・批判が具体的に展開されている。

第4章「軍事化した科学の末路」では、軍事研究にはまり込んだ科学者を待つ悲惨な結末について述べている。著者によれば、科学者が軍事研究にのめり込むのはそれなりの魅力があるためだが、それは研究者としての自由を失う空しさと裏腹であるという。さらに科学の発展が軍事研究によって促進されるどころか、逆に阻害される可能性まであり、軍との関わりは断固として拒絶すべきだとする。

本新書を読んで意義深く感じたのは、著者による「研究者版経済的徴兵制」の概念提示だ。

「今の自分には自由に使える研究費がなく、競争的資金に恵まれないため研究ができない状況に追い込まれており、背に腹はかえられないとする研究者たち…が研究機関や大学を問わず多数いるというのが実情である。…だから喉から手が出るほど研究費が欲しいから、軍からの金であろうとありがたくいただくということになってしまうのだ。私は、この状況を『研究者版経済的徴兵制』と呼んでいる。アメリカの多くの若者たちが、家庭が貧しいために大学へ進学できず、軍隊に入れば大学入学の資格が取れるとか金が貯められるとかの甘言で、やむをえず軍隊に行くのと状況が似ているからだ。研究者は、研究費という『経済的理由』で、軍事研究という『徴兵制』に応じようとしているのである」(139・140ページ)

こうした「研究者版経済的徴兵制」は、研究費不足に悩む研究者たちに研究資金を提供援助するが、その代わりに防衛装備品開発に応募し研究従事することで、支援者たる政府、防衛省、自衛隊の期待に応えるべく軍事にとらわれた発想開発がエスカレートし科学が人間性を失う。研究の過程や結果に、いちいち政府や防衛省の「同意」や「確認」を得なければならなくなる。研究成果の発表についても国から科学者が「制限」を受ける。そうした「(科学者が)防衛省の意向をずっと斟酌(しんしゃく)しなければならない」(141ページ)状況に追い込まれる危険性がある。

このことは本書にての以下のような考察記述に裏打ちされている。「軍事技術の展開から、思いもかけない民生品の発明につながることがある」(175ページ)。軍事技術の脱線から民生品技術への新しい応用の可能性を引き出す事例が過去に多くあった。それは、本書記載の次のような公式記述にて簡潔に明瞭に示されている。「戦争─必要性─国家の投資─技術開発─さまざまな物品の発明─民生品へのスピンオフ」(176ページ)。この関係連鎖の公式を一目して明確なように、近代科学の「技術開発」は実は主要動機が「戦争(の)必要性」からであり、また科学研究には莫大な資金が要るため「国家の投資」の後ろ楯の援助があって近代科学が発展していった面は否定できない。近代の科学技術は「生活の利便性のため、世界の平和のため、人類の幸福のため」に開発され、科学者もその意図で研究に従事してきたわけでは決してない。先の関係公式を見れば、最初の科学技術開発の動機は「戦争─必要性─国家の投資─技術開発」の連鎖である。

近代科学を発明・発展させる最初の主要契機の主な動機は「戦争」であった。もともと近代の科学技術は国家との、戦争との、軍事との親和性が強くあることを近代科学史の歴史的概観から押さえ、私達は理解を深めておくべきだ。そうして科学者(「研究者」)が「経済的」援助により国家に取り込まれ結果、兵器開発に奉仕して戦争動員(「徴兵」)される「研究者版経済的徴兵制」に警戒を示し、慎重に処するべきであろう。

冷戦体制が終了し市場原理に基づく新自由主義経済が世界を覆うようになり、1990年代から日本でも経済のグローバル化が強く喧伝され始めた。グローバル化に対応するために、政治や文化の各領域で国を挙げて動員することが当然とされるようになった。文化の学問・学術分野も例外ではなく、大学や研究機関にもグローバル経済に対応する名目で商業主義の論理が取り入れられ貫徹するようになり、いわゆる「役に立つ学問」が強く求められるようになった。有用性をアピールしたり、経済的利益に直結するような学問・学術へと必然的に傾斜してきた。学問・学術の世界にも商業の論理が行き渡りつつある大学や研究機関では、今や研究者たちも、何らかの「イノベーション」(新しいビジネスモデルの開拓を含む技術革新)をしなければならない強迫感を持つようになってきている。

本来、学問は、すぐに役に立つ有用性や経済的利益に直結するものだけでは決してないはずだ。従来の本来的な正統な学問には、真理の探究や事物の解明や現状批判の働きもある。しかしながら、グローバル化に伴う大学や研究機関への商業主義の導入で、有用性や経済的利益を生み出す以外の本来的な正統な学問は、例えば国公立大学の場合、国による「選択と集中」の予算・人員の露骨な割当て配分にて「国家の意に沿わない学術研究」と見なされ、今や容易に縮小・排除されてしまう。その一方で国家の意向に沿い、かつ有用性や経済的利益が見込める学術研究は、逆に異常なまでに国により優遇され企業の産業資本からも、もてはやされる傾向にある。より具体的に言って「産学共同」(産業資本たる企業と大学・研究機関との間の共同研究)が、それである。学問の内実が有用性と経済的利益によってのみ見積もられてしまうのだ。より下世話に言えば、要は「即で使えて個人や社会の役に立つか否か」と「それを通して、どれほど金儲けができるか」の判断である。

近年、2010年代以降、特に国公立系の人文科学や社会科学専攻の一部の研究者らが、自身の著作にて「哲学や文学や歴史学は人生の役に立つ」など、本来直接的な有用性や利益を即にもたらすはずのない伝統分野の学問でも、やたらと「役に立って使えること」をアピールするのはグローバル化に伴う大学や研究機関への商業主義の導入の動きに悲しくも呼応している。しかしながら繰り返しになるが、本来、学問は、すぐに役に立つ有用性や経済利益に直結するか否かの目先の損得のみで判断評価されるものでは決してない。本来的な正統な学問には、じっくりと深く考え抜く真理の探究や事物の解明や現状批判の働きもあるはずである。

本書にて指摘されている「軍学共同」の問題は、従前の「産学共同」の問題や伝統的な人文科学や社会科学の有用性アピール問題に加えて、いよいよの、いわゆる「二周目か三周目」の反復の問題であるといえる。いずれもグローバル化による新自由主義的政策たる商業主義至上の立場からする国家による大学や研究機関への介入の問題に他ならない。特に昨今、急進展しつつある「軍学共同」の先には、自国の安全保障のみならず、軍事化された科学技術の成果を軍需品の輸出に転嫁する国の武器輸出外交への意思があることは明白だ。「軍学共同」を通して科学者や技術者が国家に総動員される体制への危惧は、どこまでも拭いきれずに残る。それは国家による不当な介入を断固として拒否する、大学の自治や学問の自由の問題、昔からの「大学論」の議論と見事に重なる。岩波新書の赤、池内了「科学者と戦争」は、それだけの問題提起の射程と重みを持つ書籍である。