原理的にいって、希望はまず絶望ないしは失望や虚無の状況がないと生まれない。人は、ある日ある時、突然おもむろに漠然と希望を抱くのではなくて、平穏な日常から不条理に突如、絶望に叩き込まれたり失望や虚無を激しく感じた後に改めて希望を自身や状況の中に見出すのである。この原理からして近年の東日本大震災(2011年)にて近しい者の死や失われた平穏な日常や避難生活を余儀なくされる苦痛などの絶望状況に対応して、「希望」に関する啓蒙や考察の書籍は特に震災後に数多く量産されたように思う。
岩波新書の赤、玄田有史「希望のつくり方」(2010年)も、その種の東日本大震災の発生を受けて以後の、人々に希望を説く考察の書籍かと思いきや、これが震災前の2010年の発行であるので私は本書に関し、まずは意外な思いがした。もともと著者において「なぜ希望について考えるのか!?」「なぜ『希望のつくり方』の新書執筆なのか」。それは以下に引用するような、社会科学の学問の一つとして「希望学」というものに前より取り組んできた著者の活動の背景があるかららしい。
「そもそも希望とは何なのでしょうか。希望という言葉を見聞きすることはあっても、希望とは何かをおしえてくれる人はいません。経済の停滞や累積する財政赤字などの重苦しい現実を前に、日本にはもう『希望がない』といわれたりします。社会に生きる多くの人が、希望はないと感じるようになった理由は、何なのでしょうか。希望が前提でなくなった時代、私たちは何を糧(かて)に未来へ進んでいけばよいのでしょうか。そんな希望にまつわる疑問を明らかにしようと、東京大学社会科学研究所(略称・東大社研)を拠点に二00五年度から、仲間たちと『希望学』という研究を続けてきました。希望学の正式名称は『希望の社会科学』です。希望学は、希望を単なる個人の心の持ちようとして考えるのではなく、個人を取り巻く社会のありようと希望の関係に注目してきました。希望学のこれまでの研究成果は、二00九年に『希望学』(全四巻、東大社研・玄田有史・宇野重規・中村尚史編、東京大学出版会)として刊行されています」(「はじめに」)
東日本大震災とか特にこれといった希望が打ち砕かれる絶望があるわけではないが、本書は現代日本の「経済の停滞や累積する財政赤字などの重苦しい現実」を受けて「そもそも希望とは何なのか」の問題提起をなし、社会科学としての「希望学」の研究を進めてきた著者のこれまでの希望学の概要を新書の一冊にまとめたものだ。さらに著者は本論で「希望」について様々に述べた後、最後の「おわりに・希望をつくる八つのヒント」にて「希望学で学んだ、どうすれば希望を自分でつくれるのか」を本論での該当記述のページを明示しながら箇条書きにして8つ挙げている。その「希望をつくる八つのヒント」の八項目も、ここに書き出してみると、
「1・希望は『気持ち』『何か』『実現』『行動』の四本の柱から成り立っている。希望がみつからないとき、四本の柱のうち、どれが欠けているのかを探す(三九頁)、2・いつも会うわけではないけれど、ゆるやかな信頼でつながった仲間(ウィークタイズ)が、自分の知らなかったヒントをもたらす(八六頁)、3・失望した後に、つらかった経験を踏まえて、次の新しい希望へと、柔軟に修正させていく(一0七頁)、4・過去の挫折の意味を自分の言葉で語れる人ほど、未来の希望を語ることができる(一一二頁)、5・無駄に対して否定的になりすぎると、希望との思いがけない出会いもなくなっていく(一二八頁)、6・わからないもの、どっちつかずのものを、理解不能として安易に切り捨てたりしない(一五三頁)、7・大きな壁にぶつかったら、壁の前でちゃんとウロウロする(二00頁)、8・( )この八番目の空欄には、ご自身の経験をふりかえりながら、希望をつくるヒントを、自分でみつけて、書き入れてみてください」(「おわりに・希望をつくる八つのヒント」)
この「希望のつくり方」ヒント一覧にて、例えば2は「孤立して独りで取り組まず、ゆるやかに人とつながって仲間と連帯する大切さ」の旨であり、また例えば6は「自分が理解できないものを安易に切り捨てて全否定したり早急に判断を下すことをしない精神的余裕の重要性」の旨である。こうした2や6のヒントは、確かに「希望のつくり方」に当てはまるヒントになるのかもしれないが、あまりにも無難で常識的すぎるアドバイス内容で、これら八つの項目は全てほとんど参考にならない。この2も6も一見「希望のつくり方」のヒントに読めるが、同時に他の何にでも簡単に適用できてしまう。ここでは別に何でもよいけれど、例えば「ストレスなく普段から自己の精神を健康に保つ方法」とか「会社で業績を上げて出世する方法」のヒントにも、2の仲間とのゆるやかな連帯の大切さや6の安易に早急に判断結論を下さない精神的余裕の重要性のアドバイスのヒントは、同様に幅広く当てはまってしまうものであるのだ。
こうした結語での「希望学から学んだ希望をつくる八つのヒント」のまとめ記述における常識的な無難さの、ほとんどダマしに近い詐欺的記述に象徴されるように、「希望のつくり方」について本書を読んだところで毒にはならないが薬にもならない。本書を読んで大した害はないが、また大した益もないのである。岩波新書「希望のつくり方」は読んでいて正直一貫して辛く、本書を通して少なくとも私には「希望」の光は全く見えてこなかった(苦笑)。
加えて「希望」などの一聴一見して聞こえも見ばえもよい誰もが正価値を置いて容易に反論することができない「正当な」言説が現実問題への追及を停止させ、現状の問題欠陥から来る困苦からの救いをその現実的原因の除去に求める代わりに、運命的諦観(ていかん・「あきらめ」の意味)を結果的に導いたり、苦痛感の麻痺(まひ)のために機能したりすることを私達は知っている。「希望を抱くこと」を批判し否定して攻撃する人など、ほとんどいない。「希望をつくる」と述べただけで、それが中身を突き詰められていない漠然としたものであるがゆえに「希望をつくる」という言辞のみで何となく賛同し満足し完結してしまい結果、「希望をつくる」の言説が自身のことや現状への深い分析理解に何らつながらず、むしろ逆になし崩しの現状肯定として機能してしまう。何しろ「希望のつくり方」と聞いて「希望をつくること」それ自体を否定する人は滅多にいない。そのため多くの人がはまりやすい策術である。
この種のイデオロギー的策術の問題は、昨今の雇用問題において特に顕著で深刻だ。例えば「なぜ働くのか」の働くことの意義に関し、金銭(賃金)を得ることや自分の生活安定のため以外の、やりがいの達成感や仕事を通しての自己の成長や社会への貢献といった優等生的模範回答の正論に対し、公然と反論否定できる人はほとんどいない。だが「やりがいの達成感」や「自己成長」や「利他の実践」や「社会貢献」など、「希望」と同様、一聴一見して聞こえも見ばえもよい、誰もが正価値を置いて容易に否定し反論することができない労働に関する「正当な」言葉だけが、主に資本や雇用主から頻繁に発せられることにより、人々の現実問題への追及を停止させて、不合理で非人道的な雇用関係や違法で過酷で劣悪な職場労働環境の問題を隠蔽(いんぺい)し合理化して、ついには不問にしてしまうことはよくある。
岩波新書の赤、玄田有史「希望のつくり方」は、そういった聞こえも見ばえもよい誰もが正価値を置いて容易に否定したり反論することができない「正当な」言説が現実問題への追及を停止させ結果的に、なし崩しの現状肯定や現実問題解決への回避として機能する、「希望」という語のイデオロギー的策術の危うい使われ方に言及していない。しかも本新書の奥付(おくづけ)を見ると著者・玄田有史の専攻は労働経済学とある。「希望」や「自己成長」や「利他の実践」や「社会貢献」らの「正当」言説のイデオロギー的策術の問題すらも指摘しないような自称「労働経済学を専攻」の社会科学者が説く「希望学」など信用できない。
先に指摘した、本新書結語での「希望学から学んだ希望をつくる八つのヒント」のまとめ記述における、特に「希望のつくり方」のヒントではなくても、同時に他の何にでも簡単に適用できてしまう極めていい加減な常識的無難さの、ほとんどダマしに近い詐欺的記述に加えて、こういった「希望」という「正当」言説のイデオロギー的策術の問題に全く触れていない点も、本書を読んで私は大いに不満である。
「希望は与えられるものではない、自分たちの手で見つけるものだ。でも、どうやって?著者が出会った、さまざまな声のなかに、国の、地域の、会社の、そして個人の閉塞した現状をのり越えて、希望をつくり出すヒントをさがしていく。『希望学』の成果を活かし、未来へと生きるすべての人たちに放つ、しなやかなメッセージ」(表紙カバー裏解説)