アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(208)長尾真「『わかる』とは何か」

岩波新書の赤、長尾真「『わかる』とは何か」(2001年)の概要はこうだ。

「私たちはどんなときに『わかった!』と言うのだろうか。言葉、文章、科学的内容、気分…。いったい『何が』わかるのか。わかるには、何が必要で、どんなステップを踏むのか。IT、クローンなど、生活の中につぎつぎと押し寄せてくる科学技術を題材に、科学的説明とは、科学的理解とは、さらに人間的理解とは何かを考える」(表紙カバー裏解説)

さらに著者は「はじめに」にて以下のように述べて、あらかじめ読者に釘をさしている。

「多くの一般読者は、本書の『「わかる」とは何か』という表題から、学校の教室において先生の説明を理解する過程がどうなっているかといった、学校教育における生徒の理解問題を取りあつかっている本、あるいは社会や自然の事象のしくみはどうすればわかるのかを説明する本を予想されるだろう。しかし、残念ながら本書はそのような場面はあつかっていない。本書は、一般の人たちが社会において科学技術と共存していくためには、科学技術とは何かを理解しなければならず、そのためにどのようなことを考える必要があるかを明らかにすることを目ざしている」(「はじめに」)

本新書は、学校の教室にて先生の説明を理解する過程がどうなっているかといった学校教育での生徒の理解問題を取りあつかったものではない。「わかる」とはどういうことか、「わかる」理解の仕組みを「わかりたい」あなたと私のような読者が世の中には大勢いて、そのため「『わかる』とは何か」のような類似タイトル書籍が世間には数多く出ているけれども、そうした中で「本書は、一般の人たちが社会において科学技術と共存していくためには、科学技術とは何かを理解しなければならず、そのためにどのようなことを考える必要があるかを明らかにすることを目ざしている」という。

「わかる」ことについて、科学技術が扱う理論が「わかる」ことにあえて限定した「『わかる』とは何か」の説明記述に本新書はなっているのだ。著者の長尾真は情報科学が専攻の京都大学工学部出身の科学者であり、本書執筆時の肩書は京都大学総長であった。

このように科学技術の理論にあえて限定した「『わかる』とは何か」の書籍なのであるから、科学的な事柄が「わかる」ためには何が必要か、主な記述も科学的なものを説明づける際の「わかりやすい」常套(じょうとう)な思考や説明の紹介となっている。すなわち「科学的説明」と「推論の不完全性」の章では、演繹的説明(抽象的・統一的な法則から個々の具体的現象を説明する)や帰納的推論(個々の具体的現象から共通の抽象的・統一的な法則を帰結する)の極めて基本的なことが説明され、さらに「言葉を理解する」と「文章は危うさをもつ」の章では読み手を誤解させずに適切に「わからせる」ような文章記述の技術的なことにも言及している。

岩波新書の長尾真「『わかる』とは何か」を一読して、この新書は理系進学希望の高校生や理系大学入学後の新入生に読ませ、あらためて科学を扱う人間における「わかる」とはどういうことか、ないしは科学を誤解せず真に「わかりたい」と思っている一般読者へ向けて科学技術が「わかる」ことの基本的な事柄を解説する初級入門的な書籍だ、といった思いが私はする。

ところで、実のところ「『わかる』とは何か」についての範囲は広くその内奥は深い。本書のように科学的な事柄が「わかる」という演繹や帰納の思考に代表される「科学的説明」以外にも、科学分野以外の一般的な社会的事柄を認知し理解して「わかる」ことや、自分(たち)とは立場が異なったり対立的利害関係にある相手のことを理解し共感して「わかる」といった場合もあるはずだ。そのような様々な位相を岩波新書「『わかる』とは何か」は実は持つ。

本新書が刊行されたのは2001年だが、後に私たちは2011年の東日本大震災における福島第一原発にての放射能漏(も)れ過酷事故をすでに経験し、原発問題の内実をほとんどの人が今では知っている。本書にても「わかる」ことに関連して、現代の科学技術の問題である原発問題について著者は述べている。書かれていることは至極真っ当で論理破綻なく、科学的にも極めて正当なもので一読して著者の考えはよく「わかる」。しかし長く読めば読むほど次第に虚(むな)しくなり、内容が「わからなくなる」誠に不思議な文章であるので、長い引用となるが煩(はん)を厭(いと)うことなく以下掲載しよう。

「国の原子力行政を進めていくうえにおいて、その安全性の確保はもっとも重要である。したがって原子力の推進は文部科学省の原子力課がおこなうのに対して、その安全性をチェックするために、別の局に原子力安全課をおいている。この場合は、この課をわざわざ別の局におくことによって、二つの課のあいだに緊張関係を導入し、さまざまの計画作成の段階から、それをチェックするという体制をとっている。このようにして、安全性の確保のために努力しているにもかかわらず、複雑巨大なシステムであるところから、原子力の事故がおこる。これを徹底的に防ぐためには、設計の段階での何重にももうける安全機構、さらに運転時の各種作業の確実性の確保などのほかに、さまざまの異なった立場からの複合した監視機構が要求される。原子炉施設の安全性確保は、施設そのものの工学的安全性、設置場所の地震や台風・水害などに対する安全性、平常時・異常時の運転操作が誤りなく確実におこなえるためのシステム構成、万一放射能がもれたときの従業員や周辺地域住民への影響を極少にとどめるとともに、それらの人たちの避難のための基準と具体的方法など、ひじょうに多くの観点からなされるべきものである。原子炉というような巨大システムにおいては、その内容、また取り扱い方と故障時の対策などのすべてを知っている人がいない、というところにも大きな問題がある。多くのことを決め、これを操作書、手引書に書いておいても、それぞれ局部的にはよくわかっていても、予想をこえた複雑な現象がおこったときにどうすべきかについての総合的な判断がむずかしいという問題である。したがって、このような巨大システムについては、たんに専門家だけでなく、すべての従業員、府県の担当責任者、地域住民など、関係のある人たちが時間をかけて検討し、少しでも疑問のある点については、正しいデータにもとづいた説明が、みんなが納得するまでおこなわれるべきものであろう」(「科学的説明とは」)

これは「科学的説明とは」の章における「分割による解決」の節での「科学技術の総合システムを分割によって理解していこうとする」ことを、原子力発電の安全確保の事例に即し著者が説明したものである。 実に正当な科学技術の解説のお手本のような、ある意味立派な(?)文章といえる。まったく隙(すき)がない、事前に周到に考えられた文章だ。

しかしながら、書かれていることは至極真っ当で論理破綻なく科学的にも極めて正当なもので一読して著者の考えはよく「わかる」にもかかわらず、読めば読むほど次第に虚しくなり、内容が「わからなくなる」のはなぜだろう。それは、この説明記述が「科学技術の分割による解説の正当さ」の一つの閉じた系のみで孤立完結して説明されているからに他ならない。現実社会に生きて原子力発電事業のあり様を知っている私達は、こうした「分割による解決」にての各部署間相互の緊張感を持った厳密な監視システムが実際には何ら機能しておらず形式上だけのものであったり、何重にもあるとされる原子炉施設の安全性確保にて、細かな事故や異常データの報告がなされず日常的に隠蔽(いんぺい)されたり改竄(かいざん)されたりする事例を知っている。また原発という巨大システムについて、すべての従業員や府県の担当責任者や地域住民らに皆が納得するまでの説明は断念され、原発推進の政府や電力会社が時に原子炉隣接地域の人達を公的施設贈与や交付金(金銭)にて手っ取り早く懐柔(かいじゅう)したり、やり込めたりすることも知っている。

つまりは、本書にあるような「『わかる』とは何か」にての「分割して理解し制御しようとする」科学的説明原則に依拠した言説は、科学論の一つの閉じた系の中では至極真っ当でなるほど正当に思えるけれども、原発誘致の地域住民や原発稼働の電力会社にとっての原子力発電の経済的算段や原子力行政推進の国家の政治的意向など、現実の世界は科学的正当さだけではなくて、その他の系の説明理論や諸系統力学が並列してあって各系が影響を相互に及ぼし合いながら事態は複雑に動いているので、原発問題について、例えば本書のように科学的に「『わかる』とは何か」の問いを限定独立して立てても、確かに科学的説明として一応は理解できて「わかる」が、しかし現実的には納得共感できず「わからない」になってしまうのである。

岩波新書の赤、長尾真「『わかる』とは何か」にて取り上げられている原発問題以外にクローン技術の医学への適用トピックに関しても同様な読み心地の問題を指摘できる。そもそも「『わかる』とは何か」を科学的説明に限定して論ずること自体の困難と虚しさを、本新書を読んで率直に私は感じた。