アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(464)加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」

岩波新書の赤、加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(2007年)は、2006年から順次刊行が始まり2010年に完結した岩波新書「シリーズ日本近現代史」全10巻の中の第5巻に当たるものだ。幕末、維新より敗戦、高度成長に至るまでの近現代の日本通史の中で、本書はタイトル通り「満州事変から日中戦争へ」の1930年代の日本の大陸での外交と戦争を概観するものである。

「『満蒙の沃野を頂戴しようではないか』─ 煽動の背景に何があったのか。満蒙とは元来いかなる地域を指していたのか。一九三一年の鉄道爆破作戦は、やがて政党内閣制の崩壊、国際連盟脱退、二・二六事件などへと連なってゆく。危機の三0年代の始まりから長期持久戦への移行まで。日中双方の『戦争の論理』を精緻(せいち)にたどる」(表紙カバー裏解説)

だだし、1930年代の日本の大陸での外交と戦争を概観するものといっても通俗的な通史概観の書ではなく、著者ならではの綿密な史料の読み込み、それに基づく精密な実証立論の概説で大変に読みごたえのある力作の巻となっている。それは、本書の書き手の加藤陽子が「近代日本の戦争」を相当に書き慣れている、その手並みの素晴らしさによる。とにかく、著者の加藤陽子の「近代日本の戦争」に関する検証記述が優れているのだ。

日本近代史専攻で、日清・日露戦争から始まり第一次世界大戦を経て、日中戦争と太平洋戦争とを内実とする十五年戦争(アジア・太平洋戦争)に至るまでの「近代日本の戦争」を柱とする外交政治史の研究で多くの著作を出している加藤陽子に関し、私は特に彼女のファンというわけではないが、だいたいの著作は読んでいる。今回取り上げる岩波新書の「満州事変から日中戦争へ」は、同じく加藤の「戦争の日本近現代史」(2002年)と「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(2009年)と並んで、この三冊は特に読まれるべきもであると思う。いずれも「近代日本の戦争」についての加藤陽子の優れた研究業績といえる。

ここで、岩波新書「満州事変から日中戦争へ」の概要を見よう。著者の加藤陽子は「はじめに」で本書の記述方針として以下のように書いている。

「本書は、満州事変の起源を二0年代(註─1920年代)、必要とあれば日露戦争まで遡(さかのぼ)って探るいっぽう、日中戦争の独自解決の道が事実上消滅する四0年一0月の大政翼賛会の成立までを対象とし、次のような問いに答えるべく努めた。(1)満蒙特殊権益とは何であったのか、(2)二つの体制(註─中国共産党ら諸左派勢力と国民政府の反共勢力)をめぐる角逐は二0年代の中国をいかに変容させたのか、(3)リットン報告書は日本の特殊権益論にいかなる判断を下していたのか、(4)連盟に対して強硬な態度をとった内田外交の裏面にはいかなる論理があったのか、(5)三三年以降、対日宥和に転じたかのようにみえた中国側の立てた戦略にはいかなるものがあったのか、(6)華北分離工作を進めた日本側の意図は何であったのか、(7)日中戦争の特質は何であったのか、また、それはいかなる要因から生じたのか。」(「いくつかの問い」)

本書記述方針として挙げられている、「いくつかの問い」の7項目の読み方はこうだ。満州事変(1931年)から日中戦争(1937年)までの1930年代の歴史を概説するにあたり、日本の立場からの検証─(1)(4)(6)、中国の立場からの検証─(2)(5)、英米の立場からの検証─(3)の、当時の各国の異なる立場とそれぞれの思惑から1930年代の国際政治を様々な角度より多角的に検証し、その上で(7)の「日中戦争の特質とその要因」を総合的に明らかにすることを通して、遂には1930年代(「満州事変から日中戦争へ」)の日本の大陸での外交と戦争の全体を本書は概観するものである。

繰り返しになるが、既刊の「戦争の日本近現代史」と「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」に加えて、岩波新書「満州事変から日中戦争へ」は特に読まれるべき加藤陽子の著作であると思う。「近代日本の戦争」について幅広くこれまで数々の上梓を重ねてきた著者にあって、特に1930年代の日本の外交史を専門とする加藤において(彼女の初期の著作に「模索する1930年代」というのもある)、満州事変から日中戦争までの時代記述は加藤自身の広く深い歴史理解に支えられ、「戦前昭和の時代の日本の戦争について相当に書き慣れている、恐ろしいほどに執筆の際の手際(てぎわ)が良い、さすがに筆に安定感がある」の好感の思いを私は本書を読んで禁じ得ない。

加藤陽子の日本近代史研究は、当時の外交文書や関係人物の発言・メモ、当事者による後の証言・回想を綿密に読み重ね、それらに基づく精密な実証検証を行い歴史を明らかにしていく地道で手堅い手法をとる。そのため、各種の史料(公的な外交文書や直接的な関係者らの証言・回想)に裏打ちされていなかったり、明らかに客観的な実証を欠いた、論者が最初から「結論ありき」で激しく主張したい近代日本に関する無理筋なイデオロギー的思い込みの主張や歴史観、特に近代日本の戦争責任を全否定し、むやみに日本を賛美する歴史観や各歴史事象に関する日本人美化の解釈・主張を強引になす、右派・保守や歴史修正主義者から批判され目の敵(かたき)にされる災難に加藤の日本近代史研究は常に見舞われてきた。

例えば満州事変から、対中国の日中戦争と対米英の太平洋戦争とを内実とする十五年戦争(アジア・太平洋戦争)までを、「大陸での日本の国益を守るための自衛戦争であった」「アジアの諸民族を欧米列強から解放する反植民地主義の大義ある戦争だった」などと言い張って戦時の日本を肯定美化する右派・保守や歴史修正主義者らからは、書評やブックレビューにて岩波新書「満州事変から日中戦争へ」を筆頭に、加藤陽子の著作はかなり評判が悪く、不当なまでに評価が低い。「日本の国家と日本人を厳しく非難・攻撃する左翼の歴史認識だ」「戦時の日本をひたすら貶(おとし)め、代わりに当時の日本とは敵対関係にあったアメリカやイギリスを好意的に書きすぎる。中国共産党にも同情的で肩入れし過ぎている」云々というように。

近年、自民党保守政権であり、前の安倍内閣よりその保守的な国家意識と歴史観、さらには首相官邸主導の行政の強権発動政治までそのまま継承した菅内閣による「日本学術会議会員の任命拒否問題」(2020年)があった。これは当時、内閣総理大臣であった菅義偉(すが・よしひで)が、日本学術会議が推薦した会員候補のうち一部研究者を任命しなかった問題である。日本学術会議から推薦され名簿提出された会員候補者に対し、内閣総理大臣が個別の判断で特定の候補者を排除し任命しなければ、それは政府からの学術会議に対する政治的圧力、「学問の自由」を脅かす思想弾圧になってしまう。ゆえに従来は慣例で、日本学術会議側から推薦された会員候補者に対し内閣総理大臣が任命拒否することは想定されておらず、日本学術会議から推薦され名簿提出された会員候補者に総理が任命拒否の決定を下すことはなかった。毎回、内閣総理大臣による形式的「任命」手続きを経て、学術会議側の推薦通り、そのまま全員が日本学術会議会員になっていたのだった。ところが、菅内閣下で初めて特定の6人の会員候補に任命拒否が出され、日本学術会議会員から外されてしまう。その任命拒否の6人の中に歴史学者の加藤陽子が入っていた。菅内閣は特定の6人に対する任命拒否の理由を明らかにしていない。これには、菅内閣以前の安倍内閣時から、自民党保守政府が推進する安保法制や沖縄基地問題で政府の方針に異を唱えたり、現行の歴史教育や戦前日本の戦争責任問題で時の総理とは国家観・歴史観が異なる見解立場の学者たち6人が狙い撃ちにされて、任命拒否で日本学術会議から強権的に排除されたといわれている。

思えば確かに、学術会議任命拒否の6人の中に入っていた加藤陽子は前から、近代日本に関する無理筋なイデオロギー的思い込みの主張や歴史観、特に近代日本の戦争責任を全否定し、むやみに日本を賛美する歴史認識を持つ、(安倍内閣シンパのような)右派・保守の政治家や研究者から批判され目の敵にされる、私から見ても気の毒なほどの災難に見舞われていたのだった。

最後に岩波新書の赤、加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」の中で幾つかある読み所の内の一つ、「日本の国際連盟脱退」に関し、その概要を書き出しておこう。

「日本の国際連盟脱退」とは、1932年10月、国際連盟理事会は13対1で満州国からの日本の撤退を勧告。国際連盟総会も1933年2月、「満州事変は日本の正当な防衛行動ではなく、満州国も満州人の自発的独立運動に非(あら)ず」として日本が進める満州国建国を承認しない、リットン報告書に基づく対日勧告案を42対1で採択。これに反発して日本が1933年3月、連盟脱退を通告した(1935年発効)ことを指す。

従来、「日本の国際連盟脱退の理由・背景」について、「米英の謀略で、もともと日本に戦争を仕掛けたいアメリカとイギリスが国際連盟脱退に日本を追い込み、日本を国際的に孤立させて米英に対し日本が戦争をするよう巧妙に仕向けた」というような荒唐無稽な陰謀史観、昨今流行の俗な言葉で言えば「トンデモ歴史」の語りが右派・保守や歴史修正主義者たちからよく発せられている。しかし、そうした悪質な「近代日本の戦争」語りに容易にダマされることのないよう本書を熟読して気をつけて頂きたい。「日本の国際連盟脱退の理由」については、アメリカやイギリスや中国が日本に戦争を仕掛けたくて、日本の国際的孤立を狙って国連脱退をわざと日本に仕向けたのでは決してない。むしろ日本からの主体的な判断と決定により,当時の大日本帝国は自ら進んで積極的に国際連盟を脱退し国際的孤立の泥沼にハマっていったのだった。

このことは、本新書の「第4章・国際連盟脱退まで」で当時の外交文書ら史料を挙げて実証的に詳しく論じられている。その要点は以下だ。「日本の国際連盟脱退の理由・背景」には主に次の4点があった。

(1)国連が不承認の満州国の建国を前提に、満州国西部に位置し中国と満州との国境に位置する、ゆえに将来的な日中戦争につながる日中間の軍事衝突にもなりかねない熱河省の攻略(熱河作戦)を強行しようとする現場の軍部の動きを、内地の内閣も天皇さえも抑(おさ)えることが出来なかった。そのため国連離脱の日本の流れは不可避となった。

(2)「熱河は満州の一部であること」を前提とする熱河作戦の強行により、日本が進める満州国建国を承認しない国連から国連規約第16条の「除名」制裁が日本に適用される以前に、帝国みずから国際連盟を脱退すべきの方針を当時の日本はとった。

(3)柳条湖事件(1931年)を契機に中国東北部を武力占領し満州国として独立させた満州事変(1931─33年)での日本の一連の動きは、日本の正当防衛には当たらず、日本による満州国建国は、侵略戦争の違法化を定めた不戦条約(1928年)の侵犯であると告発する中国ら、アジアの民族自決と自由独立を求める小国の意向に拘束されがちな連盟に対し、日本は国際連盟から離脱し事態が沈静化するのを待って、満蒙問題の解決には中国を排した上で、英米ら大国間との個別の直接交渉で進めれば良いとする「国連脱退論」が当時の日本の外交官の間で早くから出ていた。

(4)「第一次大戦での戦勝国であり、国連常任理事国として尽力してきた日本国の功績を連盟本部は何ら理解していない」の、国際連盟に対する日本側の強い不満の感情論、さらにはアメリカとソビエトは国連に参加していないのに、日本だけが国連規約に拘束されることへの日本の反発・不満があった。