アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(64)尾木直樹「いじめ問題をどう克服するか」

先日、尾木直樹という人が書いた岩波新書の赤「いじめ問題をどう克服するか」(2013年)を読んだ。

著者のことはメディアを介して知っていた。この人は現場教師の経験もある教育評論家で、案外いい年をした大人な男性だが、オネエ言葉で話すような女性的キャラクターで(「尾木ママ」とか)、タレント文化人といった風でテレビのバラエティ番組に出てふざけていたり、かと思えば今日の教育問題に関し真面目なコメントを発していたりで、「どこまで真面目で本気な教育評論家なのか」正直はかりかねて困惑するような、氏に対する悪印象が前から少なからずあった。そのため最初は冷やかし半分の軽い気持ちで本新書を手にして読み始めたのだが、私は過酷ないじめを学生時代に経験したり目撃したこともなく、また現在、私の周りで学校いじめの深刻な問題を抱えている家族や知人もいないため、いじめ問題には比較的無関心で知識もなかったが、その分、昨今のメディアで報じられた子どもが自殺にまで追い込まれた実際のいじめ事件を思い起こし、読み進めていくにつれて内容に引き込まれ、今日のいじめ問題について初めて知り大いに学ぶ所が多々あった。

著者のいじめに対する認識と対応は一貫している。著者からすれば、「いじめを人権問題としてとらえ直す」。いじめを受けて不登校に陥(おちい)った場合、それは「教育を受ける権利の侵害」であり、自ら命を絶つ事態にまで至れば「生きる権利の侵害としてのいじめ」である、とする。すなわち

「いじめとは、人の生存権に対する重大な侵害行為です。歯止めがきかなければ、やがて重い犯罪行為にまで発展してしまう危険性もあります。いじめる側は、『人権を侵害する加害者』であり、いじめられる側は『人権侵害の被害者』なのです」

教育現場でのいじめについて、「弱いものいじめは良くない。いじめられる子どもが可哀想だ」の感傷的非難ではなくて、人権侵害という法的権利規範の立場から一貫して批判し対応しようとする所がいかにも現代的だ。昔は見過ごされ黙認されていた教師による生徒への過酷な体罰も「正当な教育指導の一環」ではなく、近年では人権擁護の権利規範観点から非難され禁じられる風潮にある。だが、ストーカーや暴力行為への被害者対策と同様に学校現場でのいじめに対し、「出席停止」など加害生徒への厳罰化や警察の学校現場への積極的な介入の対策は一時的で効果がないと著者により本書にて戒(いまし)められていることも確かで(「応報的ではなく、修復的な対応(を)」)、一般の社会犯罪の抑止対策とは異なり、人権擁護の立場からする教育現場での子ども同士のいじめ問題への対処は実に難しいものがあることを痛感させられる。

著者は文部省が出した1985年の「いじめの定義」の批判から始める。そして今日のいじめ分析(「見えにくい今日のいじめ」)をやり、今日のいじめの諸特徴を挙げて(「日常化」「流動化」「透明化」)、いじめのより適切な再定義をなす(124・125ページ)。著者の尾木直樹は、大津市中2いじめ自殺事件(2011年、滋賀県大津市で中学二年の男子生徒がいじめを苦に自死した事件)の第三者委員会に委員として参加していたことから、本書にて大津事件の事例を示して具体的にいじめの構造を論じていく。また「いじめのIT化」など、インターネットやソーシャルメディアを介した以前にはなかった現代的ないじめの問題にも触れている。

本新書のタイトル「いじめ問題をどう克服するか」からして読むべきは、それらいじめの現状や特徴、背景や原因、構造分析を子細に踏まえて出される著者によるいじめに対する処方箋(しょほうせん)、まさに「いじめ問題をどう克服するか」の具体的提言であろう。

いじめの現状への教師の理解不足、子どもの関係性の社会的変化、個を抑圧して集団主義が浸透する日本の学校教育の方針、教育委員会の隠蔽体質の事なかれ主義など、現代の教育問題を押さえた上での、いじめの深刻化を食い止めるために個人や家庭、学校や地域や国で出来るいじめ対策の具体的取り組み事例、いじめ克服へのヒントが様々に挙げられている。例えば、教員へのいじめ対策研修実施の必要、「いじめ防止対策推進法」の制定意義の定着理解と新たな法的整備の要請、集団主義ではない個の尊重と寛容精神の市民性(シチズンシップ)を養う啓発教育の重要性、学校以外の第三者機関の積極活用(学校への教育改善勧告、いじめ事件の事後の公平・中立調査の実施)である。

本新書にて展開される、それら諸々のいじめ対策の提言の中で特に実効性があり有効と私が思えたものは以下の二つだ。

まず「重要な『第三者』の役割」、つまりは、いじめにおいて「被害者でも加害者でもない第三者の子ども」の役割認識の重要性である。前述のように私は過酷ないじめを学生時代に経験したり目撃したことはなかったが、実際に教室にて、それらしきいじめの言動が散発的に突如として起こることはあった。しかし私の経験からして、そうしたいじめらしき事態があっても、いじめる側といじめられる側以外の、第三者の生徒から「いいかげんにしとけよ。もうそこら辺でやめておけよ」の声が、いよいよの時は「外野から」飛んでいたし、「やめておけよ」の直接的な声がなくても、第三者的生徒による、いじめ非難の無言の抑圧空気や雰囲気醸成が教室内で働いて、そこまでいじめが日常的に長期化したり執拗に過激化することはなかった。

このように書くと身も蓋(ふた)もないが、日本全国どの地域のどの学校でも教室クラスに一定数の子どもが集まれば、当人の生まれながらの資質や性格、家庭内状況のストレスから、いじめの加害行動に走る子どもは少なからずいるし、同様に集団行動が苦手でマイペースであったり、他者とのコミニュケーションが上手くなくて結果、いじめの標的にされやすい、いじめられる被害の側の子どもも潜在的に少なからず両方とも存在する。しかし、それでもいじめがそこまで全国的に続発せず、仮にいじめがあったとしても、いじめる側がエスカレートして、いじめが深刻化せず、いじめられる側も、いじめを苦にして不登校になったり自死を選択してしまう最悪な事態に滅多にならないのは、いじめる側といじめられる側以外の第三者の生徒が抑止的役割を本人達はたとえ無意識であれ、結果として果たすからだ。いじめに直接的に関係していない加害者でもない被害者でもない、第三者の子ども達の方が頭数では圧倒的に多い。ゆえに学校生活では影響力がある。大人の教師や親が無理に介入して解決の道筋をつけるよりは、子ども同士の方が修復可能な人間関係を再建できる立場にある。

本新書に掲載の実際のいじめ事例を読んでみると、いじめを苦にしての自殺の最悪な結果になるのは、第三者の多数の生徒が傍観者的にいじめを黙認していたり、時に外部から煽(あお)ったり笑ったりで、いじめ促進の役割を果たしていたケースが多い。結果、いじめられる被害者は学校内でより孤立感を深め逃げ場がなく絶望に至る。そうした意味でも、いじめの加害者でも被害者でもない圧倒的多数の第三者の子どもを傍観者や潜在的加害者のいじめ促進作用に向けずに、抑制者や仲介者の抑止作用の方向へ回路づける方策が学校現場にて重要であり、実効性あるいじめ対策であるように思う。

もう一つは、本書の結語にて挙げられている著者による「自分の子どもがいじめられたら」の親が取るべき五つの現実的対応だ。子どものいじめの問題は、最後は親が対処して家庭で自分達の子どもを守るしかないと私は思う。実のところ、学校や地域や国は最終的に信用できないのではないか。

もし子どもが過酷ないじめにあって悩んでいたら、親の仕事や住居の問題や近所への世間体は一切無視して家族で転居するか、遠方の親戚に預けたり海外留学させたりして、子どもを別の学校へすぐに転校させる、ないしは不登校を許して同時にカウンセリングやフリースクールに行かせる方策を即座に選択するのがよい。わが子がいじめに悩んで苦にして結果、自死を選ぶ最悪な状況に比べたら、仕事放棄でいくら職場での社会的信用を失おうとも、転居に伴う多大な経済的支出あったとしても、それら選択の方が人間的にまっとうだと思えるからだ。

「これしきのいじめに耐えられなけば、ここで逃げてしまっては、これから何に対しても言い訳をして逃避する子どもになってしまう」云々の根性論的(?)教育は的(まと)を外れている。そういった「逃げ癖をつけず、困難に立ち向かい克服して自身の糧(かて)にする」子どもが成長する教育説教は、個人の身体や精神を鍛練するスポーツや学業の苦痛の苦労にて試され挑戦すべきことであって、いじめや複雑な人間関係で自己の人格が毀損(きそん)されたり精神的に追い詰められたりする状況は、たとえそれに苦悩して耐えて立ち向かい乗り越えたとしても自身の成長や本人の人生の糧には絶対にならない。むしろ「嫌な思い出」の弊害でしかない。子どもでも大人でも生涯のうち、いじめの過酷体験に会わずに一生を過ごせるなら、それに越した最良はない。自分の子どもがいじめに遭遇したら、転校でも休学でも即やって現状回避を親ははかるべきだ。

最後に岩波新書、尾木直樹「いじめ問題をどう克服するか」にて「自分の子どもがいじめられたら」で著者が挙げている親が即刻とるべき現実的な心構えと行動選択、五つの項目を記しておく。

(1)親はわが子の最大の味方であり、どんなことがあっても守り通す。(2)学校が危険なら一時の緊急避難として学校に行かないことも選択肢として考える。(3)共感の相槌(あいづち)を打ちながら、子どもから実態を聞きとる。(4)学校に相談する。(5)学校に相談しても進展がなければ外部の専門機関に連絡・相談する。