岩波新書の⾚、寺沢拓敬「⼩学校英語のジレンマ」(2020年)の表紙カバー裏解説は次のようになっている。
「⼆0⼆0年四⽉から⼩学校で教科としての英語が始まる。『⽇本⼈の英語⼒向上の切り札』との期待と、『国語に悪い影響』『英語嫌いが増える』などの根強い反対を経て⽣まれた『⼩学校英語』のゆくえは?効果は?導⼊までの経緯を検証しつつ、教員の負担やグローバル化への対応など未解決の論点を網羅する画期的な⼀冊」
本書は、2020年から公⽴⼩学校で教科の英語が正式に始まる(⼩学五・六年が対象)のを受けて、⼩学校英語必修化の賛否をめぐる議論である。⼀般に「ジレンマ」と⾔っても「⼆律背反」とか「板ばさみ」など様々な意味があるけれど、「⼩学校英語のジレンマ」のタイトル中にある「ジレンマ」とは「循環構造」を意味している。本新書でいう「ジレンマ」とは、「ある種の決断・⾏動に出ても問題が循環して元の地点に戻ってしまう」ような堂々巡りの循環構造のことである。いくつかある内の「⼩学校英語のジレンマ」のうち、堂々巡りの循環構造たる「ジレンマのループ」で著者が挙げているのは例えば以下のような図式だ。その際、著者は「わかりやすさを重視したため、いささか戯画化した構図ではあるが(実際には単⼀⽅向の対⽴だけではなく、もっと⼊り組んでいる)」の注釈を付けているけれども。
「幼いうちから英語嫌いを増やしてはいけない─遊びのようにして親しませるようにすればよい─遊びでは英語⼒は上がらない─教科としての英語として徹底的に教えればよい─英語嫌いが増える」(ⅳページ)
最初に「幼いうちから英語嫌いを増やしてはいけない」という課題があって、その「英語嫌い」克服のために⼩学校時代から「遊びのようにして英語に親しませればよい」のだが、例えば英語の歌を歌わせたり、英単語カードのカルタ取りゲームなどいくらやっても、実際に英語を話せたり書けたりできない。つまりは「遊びでは英語⼒は上がらない」。そこで英語学習のレベルのギアを上げて今度は⼩学校時代から話せて書けるような、使える「教科としての英語」を本格的に徹底して厳しく教えようとすると、反発したり脱落したりする児童も出てきて、結果として⼩学⽣の「英語嫌いが増える」。そうして「幼いうちから英語嫌いを増やしてはいけない」の最初の地点にまた戻ってしまう。この堂々巡りの循環構造が、すなわち本書に幾つか⽰されてある内の「⼩学校英語のジレンマ」の⼀つである。
本新書のテーマになっている「⼩学校英語」は、もともと相当にディベート的な話である。ここでいう「ディベート」とは「問題としてある特定の今⽇的な主題について、異なる⽴場に分かれて双⽅が互いに説得⼒を競って討論すること」程度の意味であり、「⼩学校英語」について語る際には、誰でも⼩学校での英語の正式教科化の是⾮をめぐり、「⼩学⽣時代から⼦供に英語を本格的に教えることに賛成か、それとも反対か」の⾃⾝の⽴場がまずあった上での、⾃分の⽴場とは異なる相⼿への批判や論破や説得の対抗⾔説になる。
岩波新書「⼩学校英語のジレンマ」を⼀読して私が感⼼したのは、⼩学校英語必修化の賛否をめぐる議論にて、⾃⾝は英語の必修科⽬化に賛成なのか反対なのか、本論中で著者が直接的に⾃⾝の⽴場をあえて⾔明していないことだ。この点、著者は⾮常に慎重である。
例えば⼩学校英語の必修化に賛成の主張、「⽇本⼈の英語⼒向上の切り札となる」の根拠の内実に対し、「⼩学校英語の、早期の英語教育は英語運⽤の能⼒育成に確実に効果がある」とする期待、その他、臨界期仮説(⽇本⼈の英語習得の第⼆⾔語学習は、この年齢までに始めないと習得に負の影響が⽣じるとする臨界期仮説がある、よって、その臨界期以前に早期に外国語学習に着⼿するべきという主張)に関して、脳神経学や発達⼼理学や⾔語学における「⾔語習得と年齢の関係」の科学的知⾒に照らし合わせて、「詳細に検討する必要はあまりない」「(英語の早期教育の効果を⾒極める実証研究は)結果はばらばらで、効果について⽩黒ついているわけではない。…⼼情的に推進論に共感しがちな⼈は、効果を実証した研究ばかりに⽬が⾏く(ゆえに正当でフェアな判断とは到底⾔えない)」と賛成派の主張根拠を科学データに基づかない俗論として著者は明確に否定する(26─33、99─102ページ)。
と同時に、⼩学校英語の必修化に反対の主張、「⼩学校で英語を始めたら⼦どもたちの国語⼒がダメになる」とする早期の英語教育導⼊に伴う⽇本語低下の危惧に対しても、「⺟語が混乱するという主張は、研究者、特に⾔語学者・⼼理学者の間でほぼ否定し尽くされているし、セミリンガル(早期に外国語に接触することによって⺟語が混乱したり、どちらの⾔語も中途半端になるという考え)などと、まことしやかに論じられる現象にも実は根拠がない」と反対派の主張根拠を科学データに基づかない俗論として、これまた著者ははっきりと否定している(103─106ページ)。
ともすれば本書にて著者は、⼩学校英語必修科⽬の賛成と反対の両⽅の⽴場を超越的に批判し、⼩学校英語の問題に「どっち付かずのビジョンなし」と思われがちであるが、実はそうではない。これまでの⼩学校英語導⼊の賛否をめぐる論争の議論が、実のところ正当な根拠や科学データに裏打ちされた論争にすらなっていない、賛成派と反対派の双⽅よりの感情的な、ただの⾔いたい放題の「放談」でしかない現状についての問題意識が何よりも著者の内にあって、⼩学⽣に対する早期英語教育についての正否の議論を、正統な議論として成り⽴たしめるための前提の客観条件や科学データをまずは指し⽰そうという強い思いに本新書は⽀えられていた。このことは、例えば本論中の以下のような著者の⽂章から如実にうかがい知ることができるのである。
「本書では便宜的に『論争』と表現しているが、⼩学校英語をめぐる議論は狭義の論争とはかなり性格を異にし、⾔うなれば放談型の論争である。というのも、事実を明らかにする⼿段としての科学論争とも異なれば、⾃陣営の正当化を主張することにより第三者(裁判官・陪審員・審判等)を説得する法廷論争や競技ディベートでもなく、⼼情的に思い⼊れのある英語教育について(多少の根拠を述べながら)主張するだけだったからである。⼼情ベースの放談だからこそ、反対陣営から痛いところを突かれた場合、その点をディフェンスするインセンティブは⼩さい。黙殺するか曖昧にぼかせば事⾜りる(科学論争や競技ディベートだったらこうはいかない)。逆に、反対陣営に脇が⽢い部分があれば多少的外れであっても『⼝撃』すれば溜飲が下がる。この結果、叩きやすくデフォルメされた仮想敵を論破するのに終始し、もっと時間をかけて丁寧に論じなければいけない論点の多くが放置されてしまった感がある」(98・99ページ)
これまでの⼩学校英語の必修科⽬をめぐる議論は、⼼情ベースの放談型の⾔いたい放題の両陣営の「⼝撃」の応酬でしかなく、何ら科学的データ根拠の提⽰もなくて論理⽣産的な論争やディベートにすら実はなっていない、⼩学校英語の問題には、もっと時間をかけて丁寧に論じなければいけない論点の多くが放置されてしまった感がある、と著者はいう。だからこそ、本書「⼩学校英語のジレンマ」で、⼩学校英語必修化の賛否をめぐる議論にて⾃⾝は英語の必修科⽬化に賛成なのか反対なのか、本論中で著者が直接的に⾃⾝の⽴場をあえて⾔明せず、まずは⼩学校英語にある諸問題や論点を網羅的に掘り起こして明らかにしようとするのだ。そうして本書の結語にて、⼩学校英語必修科⽬化について賛成から反対までの各⽴場をさらに5つに細かに分類し、マトリックス図にて、縦軸の⾏に「案1・専科教員型」「案2・学級担任型」「案3・選択教科化」「案4・全廃」「現⾏」を、横軸の列に「メリット」「実現へのハードル」「それ以外のデメリット」をすべて挙げてまとめている(「あり得るべき選択肢」230ページ)。
⼀般にこういった⼩学校英語の是⾮がテーマの書籍は、書き⼿にもともと賛成か反対の強い⽴場が明確にあって、その⽅向に読者を説得誘導するような我⽥引⽔的で視野狭窄(しやきょうさく)な強引な論調のものになりがちである。しかし、本書「⼩学校英語のジレンマ」は、著者の寺沢拓敬のあらかじめの書き⽅の⽅針の周到さにより、そういった我⽥引⽔で視野狭窄な従来の類書にありがちな難点を⾒事に回避できている。⼩学校英語の科⽬導⼊の是⾮についての建設的議論の下地となる各論点や問題点を網羅的に提供できている。著者は実に周到であり、優秀な⼈だと私は本書を⼀読して感⼼した。
また、2020年から始まった公⽴⼩学校での英語の教科化のカリキュラム正式決定過程について、その内幕を述べた「第6章・現在までの改⾰の批判的検討」の中での「官邸主導の政治的背景」「財界の影響⼒」(154─158ページ)の節は、岩波新書の⾚、寺沢拓敬「⼩学校英語のジレンマ」にて、やはり読み逃してはいけない重要記述の指摘であると思う。私達は現⾏の⼩学校英語の必修科⽬化に際し、誰のどこの組織や業界の⼈達が、どういった理由の論理で強⼒に推進し、時に議論や準備の不⾜で周囲からの反発がありながらも遂には⼩学校英語の正式科⽬化の決定に⾄ったのか、その内幕を知っておくべきである。