アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(368)本田由紀「教育は何を評価してきたのか」

教育社会学専攻の本田由紀に関しては前々から知ってそれとなく著書も読んでいたが、私が彼女のファンになったのは本田由紀が参加した岩波新書「岩波新書で『戦後』をよむ」(2015年)が決定的だった。

岩波新書の「岩波新書で『戦後』をよむ」は「戦後」に出された既刊の岩波新書から21冊を厳選し、三人の識者が座談形式で読み解いて、日本の「戦後70年」の内実を問う趣向の合評座談の新書である。討論座談の参加者は小森陽一(日本近代文学、1953年生まれ)、成田龍一(歴史学・近代日本史、1951年生まれ)、本田由紀(教育社会学、1964年生まれ)の三人である。

本新書の座談にて議論となる「戦後」の岩波新書に対し、だいたいいつも最年少の本田が今回改めて読み返して、もしくは初めて読んでみて「ぬるい」「面白くない」「よんでいて非常につらい」と超越的に批判して痛烈に新書を斬る。すると本田より10歳以上年上の成田が「厳しいですね」「それは厳しい問いであり、鋭い指摘ですね(笑)」「大変手厳しい議論でしたが」と多少たじろいで、それから本田の意見に賛同を見せて議題の新書の問題点や時代の限界性をさらに指摘して話を深めるか、もしくは本田の言葉とは距離を置いて本新書の時代的良さや他側面の読まれるべき点も他方で指摘し話を広げるかの、どちらかだ。そして、成田と同年代の小森は自身の発言以外にも司会者的に話の進行や座談での各人発言の振り割りに努めて、より冷静な立論にて毎回議論を進めてまとめる。

小森陽一も成田龍一も相当にデキる人達で座談慣れしており、今日では「座談の名手」といってよい人達だとは思うが、本田のように年少で性急で精神的にやたら若い感情的な強い読みを展開する人が参加していなければ本新書は、ここまで面白いものにはならなかったであろう。本田本人が岩波編集部からおそらくは暗に期待された、感情的な価値判断から過去の岩波自社新書を斬って斬って斬りまくる自身の「斬り込み隊長」的な役割を本座談にて、どれほど自覚的にやっていたか分からない。とりあえず「岩波新書で『戦後』を読む」では座談参加者の中で最年少で紅一点の本田由紀が特によいと私には思えた。

それから本田由紀の新刊がいつか岩波新書から出るもの、と私はずっと期待して本田の岩波新書を待っていた。それが今般の岩波新書の赤、本田由紀「教育は何を評価してきたのか」(2020年)である。本書の概要は以下だ。

「なぜ日本社会はこんなにも息苦しいのか。その原因は教育をめぐる磁場にあった。教育が私たちに求めてきたのは、学歴なのか、『生きる力』なのか、それとも『人間力』なのか─能力・資質・態度という言葉に注目し、戦前から現在までの日本の教育言説を分析することで、格差と不安に満ちた社会構造から脱却する道筋を示す」(表紙カバー裏解説)

本新書は「なぜ日本社会はこんなにも息苦しいのか。その原因は教育をめぐる磁場」に求め、明治維新から敗戦までと1980年代から2000年代の現在に至るまでの教育問題を歴史的溯行(そこう)にて時代別に概観し、まさに「戦前から現在までの日本の教育言説を分析すること」の問題原因への考察を通して、最後に今日の社会における「格差と不安に満ちた社会構造から脱却する道筋」の著者なりの問題解決への提言をまとめる構成になっている。本新書はわずか250ページほどの紙数で明治維新から2000年代の現代までの近代日本の教育を問題史的に概観する主旨の書籍であるから、戦前から現在までの日本の教育言説(能力、資質、態度ら)の分析など、日本の教育時事として表層に様々なトピックが盛られ一読とりとめのないように思える。しかし、「なぜ日本社会はこんなにも息苦しいのか。その原因は教育をめぐる磁場にあった」とする著者による今日の日本教育の問題(ひいてはそれは現代の日本の政治や日本社会の問題にそのまま重なり共通するものでもあるのだが)についての、本書にてのその問題への原理的考察は簡潔であり極めて明瞭だ。それは以下のようなものであった。

著者の本田由紀によれば、最初に「垂直的序列化」と「水平的一面化」に関し、

「垂直的序列化とは、一元的な『能力』に基づく選抜・選別・格づけを意味しており、しかもより近年にいたってその『能力』基準の内容が複数化している。従来から(ママ)存在する基準は主に知的で汎用的な学校的『能力』としての『学力』であり、新たに重要性を増している基準は知的側面以外に関する、いわゆる『生きる力』や『人間力』である。本書では、前者を『日本型メリトクラシー』、後者を『ハイパー・メリトクラシー』と呼ぶ。いずれであっても、『能力』という言葉と垂直的序列化は不可分の関係にある」(「『異常な』日本を解明する」20ページ)

「水平的画一化とは、特定のふるまい方や考え方を全体に要請する圧力を意味している。これは具体的には、顕在的・潜在的な『教化』の形をとる。その強度は変動し、社会全体の統合が弱まった時期に特に強化される。また、その内容と方法、教育現場への浸透の度合いも、時期に応じて異なる。水平的画一化と不可分の言葉は、『態度』および『資質』である。今世紀に入って学校現場の全体を巻き込む形で制度化された『教化』を、本書では『ハイパー教化』と呼ぶ」(「『異常な』日本を解明する」20・21ページ)

とそれぞれに規定した上で、

「まず垂直的序列化にて、人間の『能力』は本来は相対的で多元的なものであるにもかかわらず、個人の『能力』を絶対視して『能力』で個人を選択・選別・格づけし、人間を垂直方向の優劣上下関係で序列化する。結果、垂直的序列化は、その逆説的帰結として『能力』の絶対水準の高度化と上位への圧縮をもたらす。なぜなら連続変数としての性格をもつ垂直的序列化は、その縦の目盛り上でできるだけ高い位置につこうとする行為を人々の中に生み出すからである。そして、どれほど絶対水準が上昇しようとも、相対的な差異に基づく垂直的序列化は下位として位置づけられ抑圧疎外される層を必ず生み出す。

同様に水平的画一化において、人間は各人に資質や個性があり、各人の個性は尊重され、態度やふるまいの自由が本来は各人に保障されているにもかかわらず、上からの『教化』で特定のふるまい方や考え方を国家や学校が全体主義的に上からの圧力で一律に水平的に画一化を要請し強制する。結果、水平的画一化は、その逆説的帰結として強力な水平的画一化の志向とは裏腹に一定層の排除をもたらす。なぜなら一か0かの二値の性質をもつ水平的画一化は、マジョリティに一であることを強く要請するが、少しでも一でない存在を0とみなし否定的に扱う力学を含むからである。

結果、これら垂直的序列化と水平的画一化の過剰という『教育』の領域にて法律・政策・制度を通して学校現場で強要される人間の『望ましさ』に関する日本の特徴的な構造は、変化に対する社会と個人の柔軟な適応を阻害する。なぜなら過剰になっている垂直的序列化および水平的画一化という二つの力学は、いずれも『他の可能性』を排除するように機能する傾向があるからである」(「『異常な』日本を解明する」21・22ページ)

とする旨の「なぜ日本社会はこんなにも息苦しいのか。その原因は教育をめぐる磁場にあった」ことについての著者・本田由紀の本新書での考察の骨子である。その上で「日本社会の息苦しさの要因」たる能力主義の垂直的序列化と、復活する教化の水平的画一化の過剰という「教育」の領域にて法律・政策・制度を通して学校現場で強要される人間の「望ましさ」に関する日本の特徴的な構造に対抗させる形で、本田は「水平的多様化」の強化の必要性を主張する。垂直的序列化と水平的画一化の双方の弊害を打破し、それらに対抗しうるオルタナティブとしての「水平的多様化」とは本書によれば、すなわち、

「水平的多様化とは、一元的な上下(垂直的序列化)とも均質性(水平的画一化)とも異なり、互いに質的に異なる様々な存在が顕著な優劣なく並存している状態を意味している。その中核にある原理は、異質であることの価値を認め、排除を可能な限り抑制することにある」(「垂直的序列化から水平的多様化へ」215ページ)

このように「なぜ日本社会はこんなにも息苦しいのか。その原因は教育をめぐる磁場にあった」とする問題の原因を、能力主義の垂直的序列化と、復活する教化の水平的画一化の価値意識の原理に求め、それらに対抗しうる解決方向の原理を、異質な価値の並存と排除の可能な限りの抑制を内実とする水平的多様化とした上で、さらのその水平的多様化の内容をより具体化し、実際の学校現場にて改革実行しうる現実的諸政策として、中等・高等教育での学科編成、カリキュラム、進学・入試選抜制度の改革、校則や部活動ら生活指導と課外活動のあり方の各項目に至るまでの細かな提言を本書の最終章「出口を探す」にて著者みずからが出している(217─237ページ)。

岩波新書「教育は何を評価してきたのか」における以上のような、現代の日本社会の息苦しさの閉塞感の原因を日本の教育から解明しようとする著者による一連の原理的考察は、私は読んで「実に見事だ」と感心する他ない。というのも本書で指摘され問題にされている、今日の日本の教育にて推進される能力主義の縦方向の「垂直的序列化」の原理は、現在の日本社会で蔓延している能力信仰による人間の上下の階層序列化に基づく「能力があり使える人間」のみがひたすら賞揚され重んじられ、他方「能力のない使えない人間」は軽く見積られ、自己責任で貧困格差の抑圧の下に疎外され打ち捨てられる市場原理万能主義に依拠した新自由主義(ネオリベラリズム)の社会的問題にそのまま対応しているからだ。

同様に、今日の日本の教育にて推進されるもう片方の上からの「教化」、特定のふるまい方や考え方を国家や学校が全体主義的に上からの圧力で一律に画一化を要請し強制する横方向の「水平的画一化」の原理は、特に2000年代以降の自民党と公明党による長期保守政権(第2次安倍政権・2012─2020年)下での近隣東アジア諸国に対する強硬ヘイトの外交姿勢同調や国家主義と歴史修正主義の方向でのマスコミ規制ら戦前日本への回帰の右傾化反動の上からの画一化圧力(とその画一化要請に従わない者に対する排除)の社会的問題に、これまた見事に対応している。

岩波新書の本田由紀「教育は何を評価してきたのか」を読んだ際、私は、

「日本の教育の閉塞感=「垂直的序列化」・新自由主義(ネオリベラリズム)+「水平的画一化」・全体主義的国家観(ウルトラ・ナショナリズム)=現代日本の政治と社会の問題」

の図式を絶えず意識しながら、以前に読んだ本新書とほぼ同内容な優れた政治評論、渡辺治「安倍政権論・新自由主義から新保守主義へ」(2007年)のことを常に思い返していた。

本田由紀「教育は何を評価してきたのか」に対する書評で、「本書は教育問題の書籍であるのに、議論の過程でいつの間にか政権批判の政治の話になってしまっている」の不平や批判が時に見られる。だが、それは的(まと)はずれな批判というか、単なる言いがかりでしかない。教育問題は、それ自体孤立して独自にあるわけではなく、教育はその社会全体や時の政治の反映であるのだから教育の問題は、そのまま現代社会の問題や現政権の政治の問題そのものである。つまりは、本新書はわずか250ページほどの紙数で明治維新から2000年代の現代までの近代日本の教育を問題史的に概観する主旨の書籍ではあるが、本書で考察される「なぜ日本社会はこんなにも息苦しいのか。その原因は教育をめぐる磁場にあった」とする著者による日本の教育についての問題指摘は、現代の日本の政治や日本社会の格差と不安の構造的問題にそのまま重なり共通するものに他ならない。

日本の学校現場での教育問題が日本社会一般の問題や現政権の政治問題と同根であり、ゆえに両者が共通し対応している点まで周到に見抜いた上で能力主義の「垂直的序列化」と復活する教化の「水平的画一化」との、縦方向と横方向からの人々の排除と同調圧力の閉塞感の弊害を挙げ、それに新たな「水平的多様化」の原理を突き付け対抗させる本書にての教育社会学専攻の著者の本田由紀の原理的考察は簡潔で極めて明瞭であり、そして繰り返しになるが「実に見事だ」と私は感心するしかない。

本書「教育は何を評価してきたのか」に続けて、今後も本田由紀の著作が岩波新書から連続して出されることを私は本田由紀ファンとして強く望む。本田由紀、なかなかの人である。