アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(464)加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」

岩波新書の赤、加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(2007年)は、2006年から順次刊行が始まり2010年に完結した岩波新書「シリーズ日本近現代史」全10巻の中の第5巻に当たるものだ。幕末、維新より敗戦、高度成長に至るまでの近現代の日本通史の中で、本書はタイトル通り「満州事変から日中戦争へ」の1930年代の日本の大陸での外交と戦争を概観するものである。

「『満蒙の沃野を頂戴しようではないか』─ 煽動の背景に何があったのか。満蒙とは元来いかなる地域を指していたのか。一九三一年の鉄道爆破作戦は、やがて政党内閣制の崩壊、国際連盟脱退、二・二六事件などへと連なってゆく。危機の三0年代の始まりから長期持久戦への移行まで。日中双方の『戦争の論理』を精緻(せいち)にたどる」(表紙カバー裏解説)

だだし、1930年代の日本の大陸での外交と戦争を概観するものといっても通俗的な通史概観の書ではなく、著者ならではの綿密な史料の読み込み、それに基づく精密な実証立論の概説で大変に読みごたえのある力作の巻となっている。それは、本書の書き手の加藤陽子が「近代日本の戦争」を相当に書き慣れている、その手並みの素晴らしさによる。とにかく、著者の加藤陽子の「近代日本の戦争」に関する検証記述が優れているのだ。

日本近代史専攻で、日清・日露戦争から始まり第一次世界大戦を経て、日中戦争と太平洋戦争とを内実とする十五年戦争(アジア・太平洋戦争)に至るまでの「近代日本の戦争」を柱とする外交政治史の研究で多くの著作を出している加藤陽子に関し、私は特に彼女のファンというわけではないが、だいたいの著作は読んでいる。今回取り上げる岩波新書の「満州事変から日中戦争へ」は、同じく加藤の「戦争の日本近現代史」(2002年)と「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(2009年)と並んで、この三冊は特に読まれるべきもであると思う。いずれも「近代日本の戦争」についての加藤陽子の優れた研究業績といえる。

ここで、岩波新書「満州事変から日中戦争へ」の概要を見よう。著者の加藤陽子は「はじめに」で本書の記述方針として以下のように書いている。

「本書は、満州事変の起源を二0年代(註─1920年代)、必要とあれば日露戦争まで遡(さかのぼ)って探るいっぽう、日中戦争の独自解決の道が事実上消滅する四0年一0月の大政翼賛会の成立までを対象とし、次のような問いに答えるべく努めた。(1)満蒙特殊権益とは何であったのか、(2)二つの体制(註─中国共産党ら諸左派勢力と国民政府の反共勢力)をめぐる角逐は二0年代の中国をいかに変容させたのか、(3)リットン報告書は日本の特殊権益論にいかなる判断を下していたのか、(4)連盟に対して強硬な態度をとった内田外交の裏面にはいかなる論理があったのか、(5)三三年以降、対日宥和に転じたかのようにみえた中国側の立てた戦略にはいかなるものがあったのか、(6)華北分離工作を進めた日本側の意図は何であったのか、(7)日中戦争の特質は何であったのか、また、それはいかなる要因から生じたのか。」(「いくつかの問い」)

本書記述方針として挙げられている、「いくつかの問い」の7項目の読み方はこうだ。満州事変(1931年)から日中戦争(1937年)までの1930年代の歴史を概説するにあたり、日本の立場からの検証─(1)(4)(6)、中国の立場からの検証─(2)(5)、英米の立場からの検証─(3)の、当時の各国の異なる立場とそれぞれの思惑から1930年代の国際政治を様々な角度より多角的に検証し、その上で(7)の「日中戦争の特質とその要因」を総合的に明らかにすることを通して、遂には1930年代(「満州事変から日中戦争へ」)の日本の大陸での外交と戦争の全体を本書は概観するものである。

繰り返しになるが、既刊の「戦争の日本近現代史」と「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」に加えて、岩波新書「満州事変から日中戦争へ」は特に読まれるべき加藤陽子の著作であると思う。「近代日本の戦争」について幅広くこれまで数々の上梓を重ねてきた著者にあって、特に1930年代の日本の外交史を専門とする加藤において(彼女の初期の著作に「模索する1930年代」というのもある)、満州事変から日中戦争までの時代記述は加藤自身の広く深い歴史理解に支えられ、「戦前昭和の時代の日本の戦争について相当に書き慣れている、恐ろしいほどに執筆の際の手際(てぎわ)が良い、さすがに筆に安定感がある」の好感の思いを私は本書を読んで禁じ得ない。

加藤陽子の日本近代史研究は、当時の外交文書や関係人物の発言・メモ、当事者による後の証言・回想を綿密に読み重ね、それらに基づく精密な実証検証を行い歴史を明らかにしていく地道で手堅い手法をとる。そのため、各種の史料(公的な外交文書や直接的な関係者らの証言・回想)に裏打ちされていなかったり、明らかに客観的な実証を欠いた、論者が最初から「結論ありき」で激しく主張したい近代日本に関する無理筋なイデオロギー的思い込みの主張や歴史観、特に近代日本の戦争責任を全否定し、むやみに日本を賛美する歴史観や各歴史事象に関する日本人美化の解釈・主張を強引になす、右派・保守や歴史修正主義者から批判され目の敵(かたき)にされる災難に加藤の日本近代史研究は常に見舞われてきた。

例えば満州事変から、対中国の日中戦争と対米英の太平洋戦争とを内実とする十五年戦争(アジア・太平洋戦争)までを、「大陸での日本の国益を守るための自衛戦争であった」「アジアの諸民族を欧米列強から解放する反植民地主義の大義ある戦争だった」などと言い張って戦時の日本を肯定美化する右派・保守や歴史修正主義者らからは、書評やブックレビューにて岩波新書「満州事変から日中戦争へ」を筆頭に、加藤陽子の著作はかなり評判が悪く、不当なまでに評価が低い。「日本の国家と日本人を厳しく非難・攻撃する左翼の歴史認識だ」「戦時の日本をひたすら貶(おとし)め、代わりに当時の日本とは敵対関係にあったアメリカやイギリスを好意的に書きすぎる。中国共産党にも同情的で肩入れし過ぎている」云々というように。

近年、自民党保守政権であり、前の安倍内閣よりその保守的な国家意識と歴史観、さらには首相官邸主導の行政の強権発動政治までそのまま継承した菅内閣による「日本学術会議会員の任命拒否問題」(2020年)があった。これは当時、内閣総理大臣であった菅義偉(すが・よしひで)が、日本学術会議が推薦した会員候補のうち一部研究者を任命しなかった問題である。日本学術会議から推薦され名簿提出された会員候補者に対し、内閣総理大臣が個別の判断で特定の候補者を排除し任命しなければ、それは政府からの学術会議に対する政治的圧力、「学問の自由」を脅かす思想弾圧になってしまう。ゆえに従来は慣例で、日本学術会議側から推薦された会員候補者に対し内閣総理大臣が任命拒否することは想定されておらず、日本学術会議から推薦され名簿提出された会員候補者に総理が任命拒否の決定を下すことはなかった。毎回、内閣総理大臣による形式的「任命」手続きを経て、学術会議側の推薦通り、そのまま全員が日本学術会議会員になっていたのだった。ところが、菅内閣下で初めて特定の6人の会員候補に任命拒否が出され、日本学術会議会員から外されてしまう。その任命拒否の6人の中に歴史学者の加藤陽子が入っていた。菅内閣は特定の6人に対する任命拒否の理由を明らかにしていない。これには、菅内閣以前の安倍内閣時から、自民党保守政府が推進する安保法制や沖縄基地問題で政府の方針に異を唱えたり、現行の歴史教育や戦前日本の戦争責任問題で時の総理とは国家観・歴史観が異なる見解立場の学者たち6人が狙い撃ちにされて、任命拒否で日本学術会議から強権的に排除されたといわれている。

思えば確かに、学術会議任命拒否の6人の中に入っていた加藤陽子は前から、近代日本に関する無理筋なイデオロギー的思い込みの主張や歴史観、特に近代日本の戦争責任を全否定し、むやみに日本を賛美する歴史認識を持つ、(安倍内閣シンパのような)右派・保守の政治家や研究者から批判され目の敵にされる、私から見ても気の毒なほどの災難に見舞われていたのだった。

最後に岩波新書の赤、加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」の中で幾つかある読み所の内の一つ、「日本の国際連盟脱退」に関し、その概要を書き出しておこう。

「日本の国際連盟脱退」とは、1932年10月、国際連盟理事会は13対1で満州国からの日本の撤退を勧告。国際連盟総会も1933年2月、「満州事変は日本の正当な防衛行動ではなく、満州国も満州人の自発的独立運動に非(あら)ず」として日本が進める満州国建国を承認しない、リットン報告書に基づく対日勧告案を42対1で採択。これに反発して日本が1933年3月、連盟脱退を通告した(1935年発効)ことを指す。

従来、「日本の国際連盟脱退の理由・背景」について、「米英の謀略で、もともと日本に戦争を仕掛けたいアメリカとイギリスが国際連盟脱退に日本を追い込み、日本を国際的に孤立させて米英に対し日本が戦争をするよう巧妙に仕向けた」というような荒唐無稽な陰謀史観、昨今流行の俗な言葉で言えば「トンデモ歴史」の語りが右派・保守や歴史修正主義者たちからよく発せられている。しかし、そうした悪質な「近代日本の戦争」語りに容易にダマされることのないよう本書を熟読して気をつけて頂きたい。「日本の国際連盟脱退の理由」については、アメリカやイギリスや中国が日本に戦争を仕掛けたくて、日本の国際的孤立を狙って国連脱退をわざと日本に仕向けたのでは決してない。むしろ日本からの主体的な判断と決定により,当時の大日本帝国は自ら進んで積極的に国際連盟を脱退し国際的孤立の泥沼にハマっていったのだった。

このことは、本新書の「第4章・国際連盟脱退まで」で当時の外交文書ら史料を挙げて実証的に詳しく論じられている。その要点は以下だ。「日本の国際連盟脱退の理由・背景」には主に次の4点があった。

(1)国連が不承認の満州国の建国を前提に、満州国西部に位置し中国と満州との国境に位置する、ゆえに将来的な日中戦争につながる日中間の軍事衝突にもなりかねない熱河省の攻略(熱河作戦)を強行しようとする現場の軍部の動きを、内地の内閣も天皇さえも抑(おさ)えることが出来なかった。そのため国連離脱の日本の流れは不可避となった。

(2)「熱河は満州の一部であること」を前提とする熱河作戦の強行により、日本が進める満州国建国を承認しない国連から国連規約第16条の「除名」制裁が日本に適用される以前に、帝国みずから国際連盟を脱退すべきの方針を当時の日本はとった。

(3)柳条湖事件(1931年)を契機に中国東北部を武力占領し満州国として独立させた満州事変(1931─33年)での日本の一連の動きは、日本の正当防衛には当たらず、日本による満州国建国は、侵略戦争の違法化を定めた不戦条約(1928年)の侵犯であると告発する中国ら、アジアの民族自決と自由独立を求める小国の意向に拘束されがちな連盟に対し、日本は国際連盟から離脱し事態が沈静化するのを待って、満蒙問題の解決には中国を排した上で、英米ら大国間との個別の直接交渉で進めれば良いとする「国連脱退論」が当時の日本の外交官の間で早くから出ていた。

(4)「第一次大戦での戦勝国であり、国連常任理事国として尽力してきた日本国の功績を連盟本部は何ら理解していない」の、国際連盟に対する日本側の強い不満の感情論、さらにはアメリカとソビエトは国連に参加していないのに、日本だけが国連規約に拘束されることへの日本の反発・不満があった。

岩波新書の書評(463)向井和美「読書会という幸福」

岩波新書の赤、向井和美「読書会という幸福」(2022年)は、翻訳家であり学校図書館の司書も務めているという著者が、読書会の良さ(「読書会という幸福」)や読書会が成功する進め方(「読書会を成功させるためのヒント」)らを、自身の経験から読み手に伝えるものだ。ただ本書のカバーに付いている帯の文章が尋常ではない。相当に物騒である。以下のように。

「わたしがこれまで人を殺さずにいられたのは、本があったから、そして読書会があったからだと言ってよいかもしれない」

仮に著者が大変な読書好きで読書会が自身にとって相当に大切なものであって、そのことを「私が人を殺す」とか「私が死ぬ」などのたとえを使って読者に強く効果的に伝えたいと思ったとしても、また本当に当人が大変な読書好きで本に自分の人生が救われて、結果「私が人を殺さずにすんだ」経験が実際にあったからといって、「私が読書好きで読書会が私に幸福をもたらすこと」を「私が人を殺す」とか「私が死ぬ」などの人間の死に引きつけて軽率に語ってはいけない。「わたしがこれまで人を殺さずにいられたのは、本があったから、そして読書会があったから」などと安易に言ってはいけない。「人を殺す」とか物騒で非常識である。これだけで良識ある善良な読者は確実に引く。この人が主宰や参加の読書会にふざけ半分で冷やかしで出席したら、私のような不真面目な参加者は著者の逆鱗(げきりん)に触れ、殺されそうである(苦笑)。恐怖、この上ない。

私は、岩波新書「読書会という幸福」を最初に書店店頭で見た時、自分の目を疑った。思わず固まった。「わたしがこれまで人を殺さずにいられたのは」云々の帯文句だけで著者の本の読み手(ないしは書き手)としての力量の程度が分かるというものである。

私も大学生の頃、「読書会」のようなもの、輪読会や研究会に定期的に出て課題書籍を皆で読み、感想や意見を言い合っていたことがあった。そこでのあまり良い思い出はない。「読書会」のような皆で本を読み合う会では、参加者が皆の耳目を集めるために、あえて飛躍した新奇な読みの解釈を人前で披露して、目論見通りに人々の注目を自身に一心に集めてみたり、他の人よりも自分の読みの深さや広さを暗に誇ったり競ったりで、そうした会での参加者同士のかけひきに疲弊し、うんざりした経験があった。また感想・意見にてよい評価や共感を他の参加者から引き出したいがために、読書会参加者が結局は模範的で無難な余所行(よそゆき)の読みに終始する残念な結果になってしまうことも、実際よくある。

こうした読書会での弊害は、同じ岩波新書でいえば内田義彦「読書と社会科学」(1985年)ですでに「読書会の難しさ」として指摘されていた。読書会など大勢で書籍を読む会合では、「本に対して読む」というよりは「他人に対して読んでしまう」。読書会へ参加する前提で本を読んでしまうと、他人に通じやすい「他人向き」の「耳障(みみざわ)りのよい」会合発言に向かって本を読む悪い癖がついてしまうので良くないという趣旨である。岩波新書「読書と社会科学」で内田義彦がいうように、「読書とは一人でやる孤独な営み」だ。ゆえに読書会を介して読書を安易に他人と共有してはいけない。

私も内田義彦と同様、本を読む読書という行為をいたずらに他人と共有したくない。大学卒業以降、私は「読書会」に参加した経験がない。本は自分の中で完結して、自身で独立して読みたい。私は本を独りで読む。読書に関し、その行為を安易に他者とは共有したくないのである。「私が日々、何の本を読んでいるか」とか、「私がどういう本が好きで私の愛読書は何なのか」とか、「私が匿名(アメジロー)で書評ブログをやっていること」など、私の家族や知り合いの人は誰も知らない。読書に関して、その行為や本から得た知識や自分の感動を私は安易に他者と共有したくない。

岩波新書の赤、向井和美「読書会という幸福」は、全6章よりなり、各章の最後に「読書会を成功させるためのヒント」のコラム調の文章が1から6まである。著者は翻訳家であることから本論で扱われるのは、プルースト、ドストエフスキー、トルストイ、シェークスピア、ヘミングウェイ、カミユら外国文学を課題本とした著者の読書会での実体験やアドバイスらの話である。巻末には、それら海外文学よりなる、これまで著者が30年以上続けてきた読書会での「読書会課題本リスト(1987─2022年)」と、「付録・読書会報告・失われた時を求めてを読む」が付されている。

「ありふれた日常の中で、読書という行為がどれほどの豊かな時間を与えてくれることか。三十年以上、全員が同じ作品を読んできて語り合う会に途切れることなく参加してきた著者が、その『魂の交流の場』への想いを味わい深い文章で綴(つづ)る名エッセイ。読書会の作法やさまざまな形式の紹介、潜入ルポ、読書会記録や課題本リストも」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(462)和田春樹「ペレストロイカ」

近代ロシア史とソビエト連邦史が専門の歴史家、和田春樹による岩波新書の旧ソ連関連書籍には以下の三冊があった。「私の見たペレストロイカ」(1987年)と「ペレストロイカ・成果と危機」(1990年)と「歴史としての社会主義」(1992年)である。

1980年代末から90年代初頭にかけて崩壊前後の旧ソ連を連続して扱った和田春樹の、いわゆる「旧ソ連三部作」とでもいうべき、これら三冊は各冊共に時系列で執筆アプローチもそれぞれに異なっている。まず一冊目の「私の見たペレストロイカ」は、「ペレストロイカ」改革時の1987年春に和田春樹がソ連に二ヶ月間滞在し、その時の見聞や印象を記録しまとめたものである。次の二冊目の「ペレストロイカ・成果と危機」は、1989年に二年ぶりに和田がソ連を再訪して、その間に現地で見聞したソ連の現状と「ペレストロイカ」改革の現時点での成果と今後の課題を記したものである。そうして最後の三冊目の「歴史としての社会主義」は、社会主義を標榜していたソビエト連邦の1991年の崩壊を踏まえ、もはや過去の「歴史」となってしまった社会主義の思想や政治体制を、旧ソ連のみならず東欧諸国や中国らも含め世界史の「歴史」として学術的に概説する内容となっている。

つまりは、一冊目はソ連での個人の滞在記、「私の見たペレストロイカ」の私的な記録・随筆のみであり、二冊目はソ連滞在時の私的な記録・報告と、当時ソ連で行われていた「ペレストロイカ」の改革に関する「成果と危機」の問題指摘の公的な理論的考察との半々の構成となり、そして三冊目は私的な記録・報告を完全に排して、旧ソ連が標榜していた「社会主義」の思想および政治について世界史上の「歴史」の流れと意義を明らかにする「歴史としての社会主義」といった公的な学術的考察の書となっているのだ。

先日、1990年代初頭までソビエト連邦の最高指導者でありソビエト共産党書記長であったミハイル・ゴルバチョフ(1931─2022年)の訃報に接した。そこで久しぶりに岩波新書の和田春樹「ペレストロイカ」を手に取り読み返してみた。「ペレストロイカ」は旧ソ連末期の時代にゴルバチョフが提唱し断行した政治改革の総称である。以下では、1980年代末から90年代初頭にかけての旧ソ連崩壊の前後を連続して扱った和田春樹の「旧ソ連三部作」の内の第二作目に当たる、岩波新書の赤「ペレストロイカ・成果と危機」について書いてみる。

「ソ連をグラスノスチと議会制民主主義の国に変え、冷戦時代を終結させる原動力となったペレストロイカ。しかしそれは、民族問題の噴出、経済改革の停滞、共産党の混迷によって危機にさらされている。発言し行動する歴史家が、大きな成果をあげながらも深刻な危機にあるペレストロイカの現状を報告し、世界史における社会主義の運命を問う」(表紙カバー裏解説)

「ペレストロイカ」は、ソ連末期の時代にゴルバチョフが提唱し断行した政治改革の総称であった。「ペレストロイカ」とはロシア語で「立て直し」の意味であり、これは英語で言えば「リコンストラクション(re-construction・再構築)」、また日本語で言えば「リストラ(re-structuring・組織再編)」の語に該当する。ペレストロイカは共産主義を志向するソビエト連邦にて、国内では共産党指導部による一党独裁体制を、国外ではロシア周辺にある東欧諸国や各地域の社会主義国に対するソ連の直接支配と間接支援の覇権体制を改める改革である。

「ペレストロイカ」の政治改革で国内政治においては、ソビエト共産党による一党独裁の支配体制が批判され、報道の自由、集会の自由、選択肢のある選挙の実施、複数政党制の容認など市民の権利と自由が保障された。全体として「社会民主主義」の体制へと改革移行するものであった。そうした国内政治の「ペレストロイカ」の民主的改革にて支柱をなしたのは、「グラスノスチ(ロシア語で「情報公開」の意味)」とされる。ソビエト共産党による一党独裁の秘密主義の政治や検閲ら情報統制が改められることとなったのである。他方、国外政治においては「ペレストロイカ」の改革断行により、これまでソビエトの直接支配にあった東欧諸地域の各民族の民族自決が尊重され、東欧各国がソ連から分離して独立を果たし、また各地域の社会主義国とソ連本国との覇権支配・連帯の関係も弱まり、結果としてソ連とアメリカの両大国間で続いた軍事的対立の冷戦構造にて、米ソ間での核軍縮条約の締結など、一時的に緊張緩和(デタント)の国際状況を「ペレストロイカ」はもたらした。

先に述べたように、和田春樹による「旧ソ連三部作」の内の第二作目に当たる岩波新書「ペレストロイカ・成果と危機」は、ソ連滞在時の私的な記録・報告と、当時ソ連で行われていた「ペレストロイカ」の改革に関する問題指摘の公的な理論的考察との半々の構成となっており、私的な滞在記録の現地報告の記述と「ペレストロイカ」の現時点での「成果と危機」に関する公的な理論的考察のそれとのバランスが絶妙である。本書の読み味は相当によい。以下に本書の目次を書き出してみると、

「1・ゴルバチョフ、上からの革命、2・世界戦争の時代は終った、3・グラスノスチ、自由の国、4・議会制民主主義の誕生(1)、5・議会制民主主義の誕生(2)、6・連邦の危機、7・民族の身もだえ、8・市場経済への困難な道のり、9・共産党の危機、10・下からの改革、その行方」

本新書は全10章よりなる。全部の章を使って「ペレストロイカ」の改革に関する国内政治と国外政治の問題を全くの欠落なく網羅で挙げているのだ。

1で、まずゴルバチョフの人となりと「ペレストロイカ」改革の全体像を示し、2で「ペレストロイカ」による米ソ冷戦対立の終焉を予測し、3で「グラスノスチ」という情報公開政策による国内メディアの自由化の現状を示し、4と5で共産党一党支配を脱した複数政党による議会制民主主義への模索の動向を記し、6と7でバルト三国ら、ソビエト連邦から分離・独立しようとする東欧諸国の民族独立運動を取り上げ、8でソ連国内での部分的市場経済導入の試みを紹介し、9で今や支配力を失い権威失墜しつつあるソビエト共産党の危機をレポートする。そうして最後に10で「ペレストロイカ」改革の総括と今後の展望をまとめる

というように。

また著者の和田春樹による私的な滞在記録の現地報告の記述の部分でも、和田は当時のロシア在住の知識人や議会、マスコミ関係者、東欧の民族独立運動のリーダーらに直接会って話を聞き、彼らより「ペレストロイカ」の実際の話を現地からの報告としてまとめている。この和田のソ連での人脈の充実ぶりを見るにつけ、確かに本書表紙カバー裏解説文にあるように、和田春樹は近代ロシア史とソビエト連邦史に関し「発言し行動する歴史家」だといってよい。岩波新書「ペレストロイカ・成果と危機」は、情報量が多く大変に密度の濃い「ペレストロイカ」改革に関する力作だと初読時より私は感心していた。本書を読むと1990年当時の改革下のソ連の時代的雰囲気を紙面を通じて如実に感じることが出来る。

さて、岩波新書の和田春樹「ペレストロイカ・成果と危機」のテーマになっている「ペレストロイカ」の政治改革を1980年代末から90年代にかけて進めたゴルバチョフは、2022年8月に亡くなった。奇(く)しくも当時は、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻(2022年2月─)が行われていた。NATO(北大西洋条約機構)への加盟申請など、アメリカら西側諸国への接近を進めるウクライナ、その分ロシアとは距離を取りロシアから離れていく、かつての冷戦時には旧ソ連側陣営に属していたウクライナに対し、自国の覇権回復のため軍事侵攻を進めるロシア大統領のウラジミール・プーチンは、ゴルバチョフ死去に際し葬儀にも参列せず、無関心を貫き冷淡な態度をとった。1980年代末から90年代初頭にかけ旧ソ連にて社会民主主義を志向し「ペレストロイカ」の改革推進をして、ソビエト共産党やKGB(ソ連国家保安委員会。旧ソ連の情報機関・秘密警察)や軍部の支配力低下を招き、遂には1991年にソビエト連邦を崩壊に導いた旧ソ連最後の最高指導者であったゴルバチョフは、「ソ連解体の張本人」として後々までソビエト共産党同志やKGBの秘密警察や軍関係者らから強く恨(うら)まれることとなった。プーチン大統領はKGB出身であり、共産党指導のかつての強いソビエト、さらにはソビエト成立前のロシア革命以前の強大なロシア帝国に憧れ誇り、それへの回帰を希求する熱烈なロシアの帝国主義的愛国者であったのだ。

そうしたプーチンの愛国的心持ちは、ウクライナ侵攻の前より多くのロシア国民に広く共有されていた。あるロシアの独立機関(民間世論調査機関のレバダ・センター)が2017年に実施した調査によれば、ロシア国民の46%がゴルバチョフに対し否定的な意見を持ち、30%が無関心、肯定的な意見はわずか15%ほどであったという。当時ロシア国民の半数近くが、ソ連解体(ロシアの弱体化と混乱)をもたらしたゴルバチョフに対して否定的であった。

しかし、1990年代初頭のソビエト連邦崩壊の時代から早くも過ぎた今日、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻の最中に亡くなったゴルバチョフについて、彼が旧ソ連時代末期に進めた「ペレストロイカ」という社会民主化を目指した政治改革と共に今一度振り返り、再評価なり再検討をなす時代的気運は再び高まっているのではないか。そういった思いが私はする。

岩波新書の書評(461)青野太潮「パウロ」

岩波新書の赤、青野太潮「パウロ」(2016年)は、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人であったパウロに関する新書である。パウロその人については、

「パウロ(紀元前後─60年頃)。最も重要な使徒とされる人物。パリサイ派に属し、キリスト教徒を迫害したが、のちに回心してキリスト教徒となった。東方各地を伝道して『異邦人の使徒』と呼ばれるが、その後ローマに伝道中、ローマ帝国皇帝のネロの迫害で殉教したと伝えられる。『信仰によってのみ義とされる』とするパウロの神学は、ローマ末期の教父のアウグスティヌスや、後の宗教改革に影響を及ぼした」

パウロはイエスの直弟子とされる12人の使徒の内の一人であり、初期キリスト教団の教義を確立して遠方のギリシアやローマにキリスト教を異邦人伝道し、キリスト教を特定地域民族にのみ通用する民族宗教から、多民族の信仰による普遍的な世界宗教にまで高めた古代キリスト教史における重要人物である。パウロが不在であったなら、キリスト教は古代から後の中世・近世にてヨーロッパ世界の中心を占め、人々の精神価値を歴史上長く左右するような、今日に至るまでの最重要な世界宗教の一つにはなっていなかったであろう。

岩波新書の青野太潮「パウロ」を一読しての私の率直な感想は、「本書は良くも悪くも初学者向けのパウロに関する入門的な書籍」といった所だ。「良い意味での初学者向け」というのは、仮にパウロに関する知識がゼロでパウロのことを全く知らない人であっても、本書を読むだけで短時間で効率的におおよそパウロのことが知れる点である。ここで本書の目次を見よう。岩波新書「パウロ」は全4章よりなる。

「第1章・パウロの生涯、第二章・パウロの手紙、第3章・十字架の神学、第4章・パウロの思想と現代」

最初に「パウロの生涯」を概観してまずパウロの人となりを紹介し、次に新約聖書中の「パウロの手紙」(パウロ書簡)の主な内容と読まれ方を概説し、そしていよいよ著者によるパウロ論、初期キリスト教においてパウロがなした教義解釈、パウロの思想的業績を深く論じ、最終章にて「パウロの思想と現代」で後の時代に与えたパウロの思想の影響と現代的意義を再度まとめる内容となっている。本書の中での一番の読み所は、著者が本論中にて最も熱を込めて力説する、パウロがなした教義解釈に見られるパウロの思想的業績である。これを著者はパウロにおける「十字架の逆説」といい、それをしてパウロその人を「最初の神学者」と断ずる。

本新書での最大の読み所といえる第3章の「十字架の神学」は、やや難しい初期教団にてのパウロの神学に関する解説であるが、第1章と第2章の「パウロの生涯」と「パウロの手紙」から順番に読み進めていく読者であれば、仮にパウロに関する知識がゼロでパウロのことを全く知らない人であっても、著者がいうパウロの「十字架の逆説」のおおよその話は比較的スムーズに無理なく理解できるはずである。この意味で確かに岩波新書「パウロ」は、「良い意味での初学者向けのパウロに関する親切で良心的な好著」と間違いなくいえる。

本論にて著者が力説する、パウロの「十字架の逆説」の概要はこうだ。

パウロ神学の中心にある画期は、イエスの「死からの復活」ではなくて、イエスの「死の意味」の解釈にある。全知全能の神の最も近くにいたイエスは、なぜローマ帝国の時の政治的権力とユダヤ教司祭の既存の宗教的権威により十字架の刑に処され、死ななければならなかったのか。イエスの十字架の上での苦難の死の意味とは何か!?パウロの「十字架の逆説」にて力点が置かれるのは、単にイエスが処刑されたという「イエスの死の事実」ではなく、イエスが当時最も苦しく残虐とされた十字架刑に処されたという「イエスの死の様態」である。「神の栄光」を体現するはずのイエス・キリストが、「十字架につけられたまま」の当時最も苦しく残虐とされた十字架刑にて「殺害」に処されている。ここには「イエスの贖罪(しょくざい・「神の子イエスが自ら十字架上で血を流すことでわれわれの身代わりの犠牲となり、人間の罪を贖(あが)ってくださったのだ」とする考え)以上の意味がある。これはイエスの単なる刑死、人々への身代わりのための贖罪の死ではない。最も残虐で苦しい十字架刑という「十字架につけられたままのキリスト」の死に方、「十字架上での無残な姿をさらすイエス」の死の様態にパウロがこだわるのは、そうした「十字架につけられたままのキリスト」の弱々しく無残で酷(むご)たらしい死こそが、人々が見つめ最終的に肯定するべき「福音」であり、このイエスの「弱さこそが強さである」とする「逆説」の主張がパウロにはあったからだとする。そうして「十字架につけられたままのキリスト」と同様、自分もまた弱い存在であることをキリストの死を通し知ることが「神の奥義」であり、本当の意味での「知恵」であり「賢さ」なのである。パウロからすれば、そのことをイエス・キリストを介して知ることがキリスト教の神への「信仰」であるのだ。してみると、「事実、キリストは弱さゆえに十字架につけられたが、しかし彼は今、神の力によって力強く生きておられるのである」(「コリント人への第二の手紙」13の4)。すなわち、「十字架につけられたままのキリスト」における「弱さこそ強さ」という「十字架の逆説」が成り立つ。

ここでは、単なる数々の律法違反という人々の罪に対するユダヤ教的な贖罪論(人々が律法を厳格に遵守することができなかったことへの罪、その「律法の呪い」に対するイエスの身代わりの贖罪)を明らかに超えている。そのような律法遵守の遂行違反の表面的な罪ではなくて、人間そのものの根源的・本質的な「弱さ」に対する贖罪としてイエス・キリストの十字架の死はあるのである。だからそこには、従来の民族宗教のユダヤ教にて、精神と生活の全てを律法に規定されその遵守にのみ躍起となり、傲慢(ごうまん)にも神の前で律法について自らの理解を絶対化してイエスを裁き、さらにはイエスを死に追いやってもなお自らの所業を神の名において正当化するユダヤ教司祭や律法学者らの倒錯した信仰のあり方を批判して、それとは明確に一線を画する、人間の弱さ、我執の人間悪の根源を見つめる世界宗教たるキリスト教としてのパウロ神学の画期があった。同時に、この「弱さを生きる」の「十字架につけられたままのキリスト」にての「弱さこそ強さ」というパウロの「十字架の逆説」は、単に全知全能の神に近い「強い生き方」を志向するヘブライ人らが待望の「超人イエス」とも明確に異なるものであった。ここにおいて旧宗教勢力のユダヤ教と、ローマ帝国支配に付き従う東方のヘブライストら両方に対し、信仰の内実の違いを明確にする「両面作戦」としてパウロの「十字架の逆説」はあったと著者は指摘するのである。

他方で、岩波新書「パウロ」が「悪い意味で初学者向け」の書籍だと私が思うのは、本論にてパウロ神学における「受動的服従」に全く触れられていない所だ。パウロにおける「受動的服従」とは、パウロ書簡「ローマ人への手紙」(13の1─4)に見られる、人間を内面の信仰と外面の生活行為とに分離し、その二元的立場から内面の精神ではキリスト教会への神の信仰を説き、同時に外面の生活行為にて世俗のローマ帝国への従順服従をキリスト者に説得する、キリスト教への信仰を保持したまま、実質は既成の世俗的な政治権力への自発的服従を人々に暗に、しかし強力に進める教えのことである。

これは従来、パウロ論ならびに初期キリスト教研究にてよく問題にされるパウロ神学の問題点である。

パウロ以前の初期キリスト教団にて、宗教上の神への信仰は世俗の政治権力者であるローマ帝国皇帝に対する崇拝拒否の不服従を意味し、それゆえキリスト者はローマ帝国により長きに渡り迫害されてきたのだった。本来は宗教的な神への信仰と世俗のローマ皇帝に対する崇拝は両立しない。しかし、このパウロにおけるキリスト教への信仰を保持したまま、実質は既成の世俗的な政治権力への自発的服従を人々に暗に、しかし強力に進める「受動的服従」にこそ、それまで時の政治権力より過酷に迫害弾圧されていた初期キリスト教団が、ローマ帝国支配下にて一転して公認の後に国教化され(313年)、遂には迫害されていた一般庶民の宗教から、ローマ帝国支配者らが好む帝国公認の体制宗教(政治権力維持のためのイデオロギー的宗教)にキリスト教がなってしまう一大転換の秘密があったと私などは見るのであるが、この点に関し本新書では何ら触れられていない。

のみならず、パウロ以前の宗教的信仰にて個人の内面の信仰と、外面の生活行為とに分ける二元的発想の思考はなかった。パウロ以前は宗教的な信仰を持つ者は何ら苦悩や矛盾の乖離(かいり)なく、内的信仰が外的な生活実践の行為にそのまま直結していたからだ。おそらくパウロのキリスト教において、人類は己のうちに信仰する精神の人間的内面を初めて発見したのである。ゆえに同様にパウロにて、人間を内面の信仰と外面の生活行為とに分離し、その二元的立場から内面の精神ではキリスト教会への神の宗教的信仰を貫くが、同時に外面の生活行為にて世俗のローマ帝国への政治的な従順服従を遂行する矛盾形態の、かの「受動的服従」は初めて成立したのであった。この「受動的服従」は宗教哲学の問題として、例えば日本中世の浄土真宗、蓮如の「王法為本」や後の近世真宗の「真俗二諦」論の二元的信仰の問題に連なる重要論点であると私は考えている。ただ蓮如の「王法為本」や後の近世真宗の「真俗二諦」の二元的信仰の問題については話が長くなるので、ここでは詳しく述べないのだが。

なるほど、岩波新書の青野太潮「パウロ」は総ページ198ページほどで200ページにも満たず、しかも各印字のポイントが大きい。本来、通常の書籍に編(あ)み直せば本書は100ページ弱の薄い冊子となり、一冊分の新書の体裁をなさないと考えられる。そうした比較的字数の少ない書籍であるから、著者が「最初の神学者」と断ずるパウロについて、本新書以外の他著にも当たることが必要であろう。この一冊をもって「パウロのおおよそは理解できた」と即断してはいけない。

パウロに関しては、イエスの死の意味を贖罪論として説いたパウロ神学の画期、初期キリスト教団におけるパウロの教義確立の功績を丁寧に解説した波多野精一「パウロ」(波多野「原始キリスト教」1950年に所収)を特に参照されたい。これは古い論文であるが今読んでも色褪(あ)せることなく現在でも通用するパウロについての基礎的考察である。波多野精一の「パウロ」は是非とも読んでおくべき重要論文であると私は思う。

「キリスト教の礎を築き、世界宗教への端緒をひらいたパウロ(紀元前後─60年頃)。この人物なくして、今日のキリスト教はないと言っても過言ではない。アウグスティヌス、ルターに多大な影響を与えたといわれる、パウロの『十字架の逆説』とは何か。波乱と苦難の生涯をたどり、『最初の神学者』の思想の核心をさぐる」(表紙カバー裏解説) 

岩波新書の書評(460)野坂昭如「科学文明に未来はあるか」

野坂昭如(1930─2015年)は、作家で歌手・作詞家であり、タレントや政治家でもあって様々な分野で活躍した多才な人であったが正直、私は昔からこの人には尊敬も感心もできず、あまり好きになれないのである。

野坂昭如といえば、今でもネット上に動画で残っていて容易に参照できると思うが、大勢の人がいる式典の壇上にて映画監督の大島渚をいきなり殴ったり、コンサートや公演やテレビでも泥酔して公の場で暴言を吐いたり、憚(はばか)ることなく性的な発言をして(昭和世代の野坂にいわせると、それは「エロ」で許されるらしい)、この人は本当に救いようがないくらいデタラメで、いい加減な人なのである(苦笑)。

野坂昭如の作家仕事の代表作に直木賞受賞の「火垂るの墓」(1967年)があった。この作品は後に高畑勲監督により劇場アニメ化もされ(1988年)、今でも名作として名高い。本作は戦時に母親を亡くし、引取先の叔母と険悪な仲になった14歳の兄(清太)と4歳の妹(節子)が敗戦前後の混乱の中を兄妹で独立して生き抜こうとするが結果、誰にも相手にされなくなり栄養失調で無残な死に至る話である。戦中から戦後の混乱の中で共に餓死してしまう兄妹の愛情を描く描写の過程で、蛍の小道具と軽快な関西弁での会話叙述が実に効果的に上手く使われている。

私も野坂の「火垂るの墓」は小説とアニメともに読んで観て、さすがに名作であるとは思う。「火垂るの墓」は、戦災孤児として妹と二人で懸命に生きた野坂の少年時代の実話のように一部の人達には未だ思われているけれど、それは誤解であれはほとんどフィクションの作り話である。作中では野坂と思われる中学生の清太が妹の節子の世話をし、戦時から敗戦にかけて兄妹二人きりで懸命に生きて、最期に幼い妹と悲しく死別する話になっている。だが実際は、野坂の母は空襲で亡くならずに生きていたし、行く先々の親戚の家で野坂ら兄妹は親族からいじめられ険悪になって家を出て防空壕で二人で生活しなくてはならないほどの困難にもあっていない。何よりも節子のモデルにあたる野坂の妹は、わずか一歳で疎開先で栄養失調のため亡くなっており当時、妹の世話をしていた中学生の野坂は妹の面倒をみることをどちらかといえば疎(うと)ましく思っていて、彼女をわざと放置(ネグレクト)したり、時に泣き止まない乳児の妹の頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあることを後に野坂自身が告白している。野坂昭如「火垂るの墓」は、むしろそのように現実には優しく妹に接して共に生きることができなかったかつての自身の実体験からの反省と、わずか一歳で亡くなった妹への贖罪の思いで書かれた、ある種のフィクションなのであった。野坂の「火垂るの墓」はさすがに名作とは思うけれど、野坂の現実とは正反対の暗に兄妹美談の誤解を招く実話調の書きぶりに、実際の野坂昭如という人を見るにつけ、私は大いに興ざめである。

以上のようなこともあって正直、私は昔から野坂昭如には尊敬も感心もできず、あまり好きになれないのである。だから、野坂の著作は仮に読んでもその場限りですぐに忘れてしまうが、例外的に「そこそこ読める」野坂の書籍も数冊あった。その内の一冊が、岩波新書の黄、野坂昭如「科学文明に未来はあるか」(1983年)である。本書での野坂は下世話なエロ話もなく、極論の過激な発言もなく例外的にまともである。これも硬派な学術新書を昔から出している伝統ある由緒正しき岩波新書レーベルの無言の圧力によるものか(笑)。とにかく本新書での野坂昭如は、いつもの野坂とは違って真面目だ。

野坂昭如「科学文明に未来はあるか」は、野坂が科学者ら6人と対談し最終章にて野坂が自身の考えをまとめる、まさに「科学文明に未来はあるか」の、現代科学の問題を指摘し人間社会における科学技術の行く末を見極めようとする内容である。ここで本書の目次を見よう。各章末尾のカッコ内は野坂と対談の科学者である。

「Ⅰ・科学はどこへ・科学と文学の対話(小野周・物理学)、Ⅱ・核兵器とコンピューターの現在(高榎尭・毎日新聞論説委員)、Ⅲ・ゴミを出す人間と廃棄物を出す産業(佐伯康治・日本ゼオン樹脂事業部副事業部長)、Ⅳ・消える自然にはびこる人間(内田康夫・生態学)、Ⅴ・生と死の老人問題(大井玄・衛生学)、Ⅵ・生存機械としての人間とヒューマニズム(長野敬・生物学)、Ⅶ・科学文明に未来はあるか」

第Ⅰ章の対談から読むと、何となくとらえ所のない漠然とした読み味になるので、「科学文明に未来はあるか」に関する野坂の考えがまとめられている総括の最終章をあえて最初に読み、その上で第Ⅰ章から第Ⅵ章までの各論対談を順番に読むと良いと思う。現代社会の科学文明に対する野坂の考えは、最終章の185ページから結語の189ページにかけて集中して述べられている。性急で短絡的な科学批判の全面否定は避け、衛生医療や産業生産・労働補助の点で発達した科学技術の恩恵を現在の人類が少なからず受けていることを認めた上で、その反面、核兵器に象徴される国家(政治権力)による兵器開発・使用の科学帝国主義や人間の尊厳をないがしろにした科学的医療による延命第一主義に対する厳しい批判、さらには科学技術の発達による廃棄物の排出や公害発生や生態系の破壊ら地球規模での環境問題を考えるべきとする、野坂昭如による「(あるべき)科学文明の未来」に関するまとめの立場表明になっている。

「一人の作家が六人の科学者に、科学の目的を、技術の現状を、人間の明日を真剣に問いかける。科学技術は人間に幸福な未来をもたらすのだろうか。それとも核兵器に象徴されるような悲惨な結末か。『科学が悪い形で使われてしまう方に僕も加担している』と語り始める本書は、『技術立国』日本の行方に警鐘を打ちならす」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(459)稲泉連「ドキュメント 豪雨災害」

岩波新書の赤、稲泉連「ドキュメント・豪雨災害」(2014年)は「豪雨災害」をテーマとしたルポタージュである。2011年9月、和歌山県と奈良県と三重県を襲った台風11号は100名近い犠牲者を出す大水害を紀伊半島各地にもたらした。本書はノンフィクション作家である著者が、主な被災地である奈良県十津川村と和歌山県那智勝浦町の災害現場を後に訪れ、現地の人々に実際に話を聞き、そのことをまとめた「豪雨災害」被害の記録だ。

「決壊する河川、崩壊する山々、危険をはらむ土砂ダム…。東日本大震災から半年後、紀伊半島を襲った台風は一00名近くの犠牲者を生んだ。その時、人々は何を見たのか。奈良県十津川村、和歌山県那智勝浦町の現場を、ノンフィクション作家が行く。首都水没予測も含め、豪雨災害の実態を伝える迫真のドキュメント」(表紙カバー裏解説)

近年、特に2000年代以降の日本列島は台風や線状降水帯の発生による短時間に連続して猛烈に降り注ぐゲリラ豪雨に頻繁に見舞われている。それに伴う土砂災害や河川の氾濫がもたらす家屋倒壊、田畑・道路の浸水被害など深刻である。これも地球温暖化による異常気象の一つの深刻な表れなのか。豪雨リスクに無縁な地域は今の日本には、もはやない。

通常、こうした「豪雨災害」がテーマの書籍は、水害の実態を取材し甚大な損失被害の原因問題を分析し、かつての「豪雨災害」の実態から、将来また起こるであろうこの先の「水害予測」の警鐘や災害に向けて被害拡大防止の「減災」アドバイスを行う内容のものがほとんどである。浸水被害想定のハザードマップの事前の周知、河川・裏山に面した地域住民に対する早めの水平避難・垂直避難の呼びかけ、増水した田畑の用水路や河川に係留している船舶の様子を不用意に見に行かないようにの注意、高齢者の早期避難、自動車で避難する際の危険性の喚起、常日頃からの安全な避難所の確保とそこへの安全経路の確認など。何度となく繰り返し聞かされる常識的で当たり前の「災害心得」に関する内容で正直、読んで私はそこまで引き込まれるものではない。

ゆえに岩波新書「豪雨災害」も、最初は大した期待もせず手に取り読み始めたのだが、本新書はこの手の災害を扱った書籍の中で特に私の心に残り、深刻な豪雨被害を扱ったドキュメンタリーであるので不遜(ふそん)な言い方ではあるが、「例外的に面白い」と私には感じられた。本書を読んで「紙の上に文章で書かれたドキュメンタリーの良さの魅力と、他の映像メディアにはない活字メディアの底力の可能性」といったものを改めて再認識させられたのだ。

岩波新書「豪雨災害」の本論にて著者により何度か指摘されているように、紀伊半島一帯に甚大な被害をもたらした台風11号による災害発生は2011年9月であり、同年3月に起きた東日本大震災から半年後のことであった。そのため、台風11号の災害については当時より全国メディアでの扱いは少なく東日本大震災に関する報道が大勢を占めていたため、私も誠に不覚ながら本新書を読むまで同時期の東日本大震災の津波被害や福島第一原発の放射能漏れ事故ほどには、紀伊半島一帯を襲った台風11号による豪雨被害のことは詳しく知らなかった。ゆえに岩波新書「豪雨災害」は、今でも人々に広く読まれるべきものがあると思う。

そうして当時の東日本大震災での津波被害の報道にて、テレビや新聞・雑誌の公的メディアでは、まさに今津波に呑(の)まれ流されている瞬間の人や、震災被災者の直接的な遺体の映像・写真は規制され一般の人々に広く見られることはなかった。私もテレビや新聞の報道にて、それらショッキングな映像・写真を目にしたことはない。その代わり、海外の非公式メディアやネット上の個人サイトにて、そうした痛ましい直接的な被害状況の映像・写真を多く見たけれども。そもそも映像や写真のメディアにて、まさに今津波に呑まれ流されている人の被害状況を記録し、それを公的に発信・発表することは、これはたまたま現場に居合わせてリアルタイムで記録できる偶然性の困難に加えて、あり得ない。映像・写真のメディアの特性上、「なぜその人を助けることなく冷徹にカメラを回し続けたのか。なぜその瞬間に救護・救命の行動に出ることなくシャッターを押し続けたのか(怒)」の倫理的糾弾が、常にそこにはさまれるからだ。この意味で、災害報道のカメラマンや戦闘地域を渡り歩く戦場カメラマンなどは映像・写真メディアのリアルタイム記録特性がもたらす難しい倫理的問題をいつも抱えているといえる。

他方、紙の上の活字メディアは、映像や写真ほどの即時(リアルタイム)の直接記録の再現性はない。後日に執筆の一定の時間経過を必ず伴う「遅れた」メディアであるが、その利点というか、災害事故に関する活字(言葉)が被害当事者や関係者の事後の回想や証言として語たり伝えられることは、「その場に居合わせたのに、救助の行動なく傍観して冷徹にメディア記録を続けた」云々の倫理的糾弾なく公的にできる。そこが書籍や新聞・雑誌の紙の上の活字メディアの優れた所である。

岩波新書「ドキュメント・豪雨災害」のサブタイトルは「そのとき人は何を見るか」である。本書では、人が豪雨水害で流される状況など、災害当事者の住民が「そのとき何を見たか」という内容で各人が非常に生々しく事後に語っている。その語りの一つに、「人まで流れてくる」の節見出しにて紙面に活字の形で掲載されてある。これが「(河川の氾濫による豪雨の濁流にて)人まで流れてくる」の画をリアルタイムでそのまま収めた直接的な映像や写真であったなら、それが公的に発表され情報流通することは公的メデイアの倫理的規制からして困難であったろう。この意味で、本新書にての「人まで流れてくる」の、和歌山県那智勝浦町の被災住民による、後に引用するような台風11号がもたらした「豪雨災害」の生々しい事後の語りに、私はやや大げさに言って「紙の上に文章で書かれたドキュメンタリーの良さの魅力と、他の映像メディアにはない活字メディアの底力の可能性」といったものを改めて再認識させられたのである。

確かに、この那智勝浦町にて河川氾濫の被害にあった那智川流域住民の事後の語りを、例えば映像メディアで本人語りの動画インタビューとして収録するとか、その語りを文字起こしして画像字幕で流す、さらにはそれをナレーターが洪水のイメージ映像を背景に朗読するなどの方法も考えられるだろう。しかし、語られる言葉と語りの文体とでここまで切迫した被害現場の当時の様子を、ある種の倫理的糾弾を回避して事後に効果的に多くの人に伝えられる、そこが「他の映像メディアにはない活字メディアの底力」であって、「紙の上に文章で書かれたドキュメンタリーの良さの魅力」といえる。

本書の中で災害当事者の一人も取材中のインタビューにて、写真や映像メディアと対照させる形で言葉(活字)による自らの回想の語りに関し述べている。「夜中のあの濁流は写真にも映像にも残っていないんですよね…。津波の映像は誰もが知っているけれど、一方で停電した真っ暗の街の中で、家の前で重なり合った流木と車の上を水が滝のようになって流れ、石が跳ね上がり、人まで流れてくるあの状況は、僕らしか知らないんですよね。それがどのような激しいものだったかを…」と。

以下に引用する「人まで流れてくる」の、氾濫発生した那智川流域の被害住民(那智勝浦町の井関地区・石井康夫区長)の事後の切迫した語りの活字記録は、岩波新書の赤、稲泉連「豪雨災害」での幾つかある読み所の内の最良の一つであり、本書にて絶対に読み逃してはいけない優れた箇所であると私には強く思えた。

「『自宅の二階にいると恐怖を感じました。流木や車がどんどん流れてきて、家に当たるたびに揺れるんやから』雨音の轟音の中に、人の声を聞いたような気がしたのはそのときだった。停電によって暗闇に包まれた家々では、住民たちが二階の窓から懐中電灯を振ってお互いに無事を確かめ合っていた。しかし下の道はいくら照らしても木々やゴミが流れる水流が見えるだけで、人の姿を確認することはできなかった。それでもやはり助けを呼ぶ声は近くから聞こえ、ドンドンという音が響いているのが分かった。目を凝らすと、一人の若い男性が必死に家の壁を叩き、自分の存在を知らせようとしているのが見えた。
 石井区長はまだ浸水の始まっていない一階に降りたが、玄関のドアは押してもびくともしなかった。どうやら外の水圧で開かなくなっているらしい。そこで彼は再び二階に駆け上がると、シーツを取り出して二回の窓から男性に向かって投げ降ろした。だが、シーツは一枚では長さが足りず、妻に声をかけてさらに二枚を結び合わせ、再び窓から投げた。男性は幸いにもそれをつかむことができたが、どれだけ引っ張っても流れが強く、引き上げるまでには至らなかった。男性もシーツを体に括り付ける余裕はなく、必死にしがみ付いていることしかできない。『とにかくつかまってろ!』彼は轟音の鳴り響くなか大声で叫び、妻とともに『がんばれ』と励まし続けた。『一時間以上はそうしていたと思います。どうにか二階に上げられたのは、夜が明ける頃のことでした。家に流木がたくさんひっかかったので、それを伝って引っ張り上げることができたんです。流されてきた彼はうちから一五0メートルほど先の人で、外に出てみた途端に足をすくわれて、そのまますこんと倒れて流されたとのことでした。あっちに当たり、こっちに当たりしながら流れてきたので、助け出した時は血だらけでしたよ』
 こう当時を振り返る彼は取材中、ふと黙り込んで『でも…』と続けた。『朝は水が少し引いていましたから、夜中のあの濁流は写真にも映像にも残っていないんですよね…。津波の映像は誰もが知っているけれど、一方で停電した真っ暗の街の中で、家の前で重なり合った流木と車の上を水が滝のようになって流れ、石が跳ね上がり、人まで流れてくるあの状況は、僕らしか知らないんですよね。それがどのような激しいものだったかを…。水の流れはもう川そのもので、ものすごい早さなんです。二時間も三時間もそれが続いて、持ち堪えていた家も何かの拍子で車が当たると流れ始めるんです。そして別の大きな建物に引っかかる。全部流れて行ってしまう。もうこのへんは全部家が流れてきているんですから』」(「第二章・那智谷を襲った悲劇・人まで流れてくる」82─84ページ)

岩波新書の書評(458)田中優子 松岡正剛「江戸問答」

岩波新書の赤、田中優子・松岡正剛「江戸問答」(2021年)の概要はこうだ。

「江戸問答とは、江戸の社会文化から今に響きうる問いを立てることである。近世から近代への転換期に何が分断され、放置されたのか。面影、浮世、サムライ、いきをめぐる、時間・場を超越した問答から、『日本の自画像』を改めて問い直す。ロングセラー『日本問答』に続く、第二弾」(表紙カバー裏解説)

本書は日本近世文化史・アジア比較文化学専攻の田中優子と、編集工学研究所所長であり、ネット上で屈指の人気書評コンテンツ「千夜千冊」を連載している松岡正剛の二人による江戸時代についての対談である。一人が数ページに渡り長く語り、交代で同様に相手が長く延々と語るというようなロングの対談形態ではなく、一人が割りかし短い発言をなし、それを受けてもう一人が瞬時に反応してブレインストーミング的に新たな話題が次々に出て話がどんどん展開していく。おそらくは事前に何を語るか当事者たちは厳密に決めておらず、その場の空気や偶然の話の流れで対談のやり取りは早く進んでいく。そうした二人の語り口のなめらかさ、テンポの良さが本書の何よりの魅力であり、この意味で岩波新書「江戸問答」は、タイトル通りの「江戸」に関する丁々発止の「問答」と言ってよい。読んで紙面から直に伝わるのだが、田中と松岡の二人が日頃から懇意で互いに気心知れた間柄であるに相違なく、とにかく田中優子と松岡正剛の両人の発話の早いテンポが本書は読んで心地よい。

「江戸問答とは、江戸の社会文化から今に響きうる問いを立てることである」と表紙カバー裏解説文にあるように、本新書は江戸時代そのもの、例えば江戸の幕藩体制や封建社会経済や江戸思想史(学問と宗教)それ自体を必ずしも正面から本質的に丁寧に語り尽くすものではない。むしろ今の現代日本の問題から、その問題の由来や解決方向を往時の江戸の社会や人々から積極的に学び活かそうとする語りの姿勢が顕著である。この意味で、確かに今回の「江戸問答」は、以前に出た日本人論ないしは日本文化論の広いテーマを扱った、同じく田中優子と松岡正剛による岩波新書「日本問答」(2017年)の続編であり、「問答」シリーズの第二弾であるといえる。まずは前著の「日本問答」を読み、その上でこの「江戸問答」を読むの順序を踏むのがよいと思える。

私は、江戸時代の日本近世史を大学時代に専攻した歴史学徒でもなければ、その筋の江戸の専門的な研究者でもない。ただ人並みか世間一般の人よりかは、ほんの少しだけ多く江戸時代について知っている。私は江戸時代に関しては、特に江戸の思想史が好きで、その分野の先行研究に親しんできた。近世江戸の学問流派なら古学の荻生徂徠と国学の本居宣長が筆頭であり、他の江戸時代人より頭二つくらい抜きん出て、この二人は何よりも外せない。徂徠と宣長は特に読まれるべきだと思う。また研究では吉川幸次郎や小林秀雄、丸山眞男と丸山学派の松本三之介、尾藤正英、源了園、平石直昭、子安宣邦らの著作を私は昔から愛読している。

そうした江戸時代への自分の向き合い方からして、前述のように、本書「江戸問答」は後の時代の問題を江戸の社会や人々から積極的に学び活かそうとする田中と松岡の両人の語りの姿勢が顕著であるから、江戸そのものを主な対象として中心的に深く掘り下げて語っていないの不満は残る。「江戸問答」のタイトルに期待して読むと正直、肩透かしを食らう。この書籍でなされる「江戸問答」は、あくまでも最初に現代日本社会の問題(ナショナリズム、コロナ禍、自然災害、SNSでの匿名による中傷被害など)や、後の明治の時代の政治家・思想家たち(西郷隆盛、内村鑑三、岡倉天心、清沢満之ら)が実は江戸の学問に案外強く影響を受けていたり、彼らの思想基盤が近世江戸にあることを受けて、そこから江戸への言及に遡(さかのぼ)る語りになっているのだ。このことを了解した上で、「江戸問答」などと言いながら「必ずしも江戸の話題が中心ではない、ここでの江戸は現代日本や後の明治期の日本の特質を読み解き深く理解するための手がかりの従的手段としてある」意識をもって、あらかじめ本書に臨むことも必要だろう。

それにしても岩波新書「江戸問答」では、持続可能なエコロジー型の循環社会とか、儒学の各学派や藩校・私塾の乱立の学問「自由」の多様性とか、町人文化における「いき」の非境界性の闊達(かったつ)さなどの各観点から、江戸時代の社会や文化や江戸の日本人に田中優子も松岡正剛も相当に好意的であり、全般に高評価を下している。これも戦後歴史学にて長い間主流であったマルクス主義の唯物史観的立場、「日本の江戸時代は、まぎれもない封建時代の封建社会であって多くの人は過酷に収奪され、市民的自由の権利保障もなく不当な抑圧に人々が苦しむ、やがては近代社会の到来にて克服されるべき苦しく暗い時代であった」の、「暗黒の江戸時代」史観に対する反動であるのか。

岩波新書の赤、田中優子・松岡正剛「江戸問答」を始めとして、最近の日本近世史の研究者や江戸に関する文筆の識者たちは、今度は逆に日本の江戸時代全般を無駄に不必要なまでに褒(ほ)めすぎだ(苦笑)。各人に対する人権尊重の意識に基づく市民的自由の各保や民衆への参政権付与らの欠損不在といった、江戸時代にはやがては後の時代により克服されるべき課題や問題点が多くあった。江戸の都市文化は表面的に多様性や多重性が一見あるように見えて、その表層の「多彩さ」とは裏腹に幕府により巧妙に監視統制された文化でもあった。ゆえに、そこまで江戸の政治体制や社会文化や思想学問や江戸時代の日本人を賞賛して高く評価する必要はない。日本の近世江戸を過激に全否定して切り捨てる必要はないが、かといって逆に誰も彼もが江戸礼賛一辺倒の最近の風潮に正直、私は不満である。

岩波新書の書評(457)芝健介「ヒトラー」

岩波新書の赤、芝健介「ヒトラー」(2021年)のタイトルにもなっているヒトラーについて、20世紀を生きてきた現代の人なら彼のことを知らない人はいないとは思うが、念のため確認しておくと、

「アドルフ・ヒトラー(1889─1945年)は、オーストリア生まれのドイツの政治家。ドイツ国首相、および国家元首(総統)であり、国家と一体であるとされた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者。1921年以降ナチスの党首となり、ヴェルサイユ体制打破と反ユダヤ主義・反共産主義を唱えた。恐慌による社会危機の中で1933年に政権を獲得。国内政治にて議会制民主主義を否定する独裁体制(ファシズム)を敷き、対外政治では露骨な膨張・侵略政策を強行して、第二次世界大戦の一因を作った。第二次大戦のドイツ敗戦直前に自殺した」

ヒトラーに関し、彼をして「ユダヤ人の大量虐殺(ジェノサイド)をなした悪魔的人物、民主主義の議会政治を否定し独裁体制を敷いた全体主義の独裁政治家、つまりはファシスト」などとあからさまに攻撃してヒトラーを全否定する、さらにはそうしたヒトラー批判の否定的評価が大勢を占める中で、あえての逆張りでヒトラーを無駄に尊敬したり崇拝したりする極右のネオナチの人たちが両端に様々にいる。私は前者の感情的なヒトラー憎悪の反ファシズムのナチス批判の人々も、後者のヒトラーを崇拝擁護の親ファシズム派の人達に対しても、ともに良感情の高評価を下すことは出来ない。

また今日では映画やアニメなどで定番の「悪の首領」といえば、ちょび髭で痩せ型で神経質、ナチス風の軍服衣装に身を固め、ところ構わず頻繁にナチス式敬礼をしてみせる明らかにヒトラーに模した滑稽(こっけい)人物の悪役がよく登場したりするけれども、そういった「独裁者・ヒトラー=悪の典型」でパロディ化して笑いのめすヒトラーをめぐる諧謔(かいぎゃく)、あるいはそれを素材に安易に笑いをとって商売する滑稽な悪役としてのヒトラーの市場化・商品化に正直、私は全く共感できない。おそらく、このような「独裁者・ヒトラー=悪の典型」でパロディ化し笑いのめす滑稽なヒトラー像を最初に創造し大衆に提供したのは、チャップリンの映画「独裁者」(1940年)からである。本映画はまだヒトラーが存命中のドイツ政権掌握時になされたものであった。ここから滑稽な典型悪役としてのヒトラーの市場化・商品化が始まり、それは飽きることなく今日まで延々と続けられているわけである。

第二次大戦終結から現在に至るまで戦後のドイツ社会では、ヒトラーとナチスに対し共感したり擁護したり賛美したりの肯定的言動を取ると、袋叩きにあい公的地位を剥奪(はくだつ)されて即に社会的に抹殺される。私も、強制収容所送りの大量殺戮(さつりく)でユダヤ人迫害をなし、議会制民主主義を否定して全体主義の独裁体制(ファシズム)を確立したヒトラーを人間倫理的に肯定するつもりは全くない。その非人道的な振る舞いは歴史的蛮行として、積極的に非難されてしかるべきであろう。ヒトラーならびにナチスの歴史的所業を擁護・正当化する気は皆無なのだが、しかしヒトラーに関し、やはり彼の政治家としての力量、ある種の優秀さを私は認めざるを得ないのである。この場合の「政治家としての力量、優秀さ」とは、より厳密には市民虐殺ら非人道的な、人間にとっての諸倫理価値を捨象した所での、「政治とはより本質的かつ根源的にいって、ある人物が自分以外の他者を誘導し操作して動かそうそする対他的な働きかけの総称」と取り急ぎ簡略にここでは定義しておきたい。

自国ドイツの国民大衆一般と当時ナチス・ドイツと対立していた英仏やソ連のヨーロッパ各国政府の指導者ら、様々にある他者を幅広く操作し誘導して己の意のままに動かそうとする、そして現実にある時期まではほぼ完璧に動かし得たヒトラーの自在さ、この対他的働きかけの総称としての「政治」的意味において、確かにアドルフ・ヒトラーは「歴史上類(たぐい)まれなる極めて優秀な政治家」であったのだ。

その結論を導くため、ここでは以下の「ヒトラー生涯年譜」を軽く眺めてみよう。

1889年(0歳)・オーストリア・ハンガリー帝国のブラウナウ地方でバイエルン人の税関吏アロイス・ヒトラーの4男として生まれる
1900年(11歳)・小学校を卒業。大学予備課程(ギムナジウム)には進めず、リンツの実技学校(リアルシューレ)に入学する
1905年(16歳)・シュタイアー実技学校中退。以後、正規教育は受けず
1906年(17歳)・遺族年金の一部を母から援助されてウィーン美術アカデミーを受験するも不合格
1909年(20歳)・住所不定の浮浪者として警察に補導される。水彩の絵葉書売りなどで生計を立てる

1913年(24歳)・オーストリア軍への兵役回避の為に国外逃亡。翌年に強制送還されるが「不適合」として徴兵されず
1914年(25歳)・第一次世界大戦にドイツ帝国が参戦するとバイエルン軍に義勇兵として志願
1918年(29歳)・マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより野戦病院に収監。入院中に第一次世界大戦が終結する。最終階級は伍長勤務上等兵
1920年(31歳)・ドイツ労働者党の活動に傾倒し、軍を除隊。党は国家社会主義ドイツ労働者党に改名される
1921年(32歳)・党内抗争で初代党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、第一議長に就任する 

1923年(34歳)・ムッソリーニのローマ進軍に触発されてミュンヘン一揆を起こすも失敗。警察に逮捕。禁錮5年の判決を受ける
1926年(37歳)・『我が闘争』出版。党内左派の勢力を弾圧し、指導者原理による党内運営を確立
1928年(39歳)・ナチ党としての最初の国政選挙。12の国会議席を獲得
1933年(44歳)・大統領ヒンデンブルクから首相指名を受ける。全権委任法制定、一党独裁体制を確立
1934年(45歳)・突撃隊を再編成し独裁体制を強化。ヒンデンブルク病没。大統領の職能を継承し、総統(ヒューラー)となる
1936年(47歳)・非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる(ラインラント進駐)。ベルリンオリンピック開催
1938年(49歳)・オーストリアを武力恫喝し併合する。ウィーンに凱旋。ミュンヘン会談でズデーテン地方を獲得
1939年(50歳)・チェコスロバキアへ武力恫喝、チェコを保護領に、スロバキアを保護国化(チェコスロバキア併合)。同年に独ソ不可侵協定を締結。ポーランド侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発

1940年(51歳)・ドイツ軍がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻。フランス降伏
1941年(52歳)・ソビエト連邦に侵攻を開始(独ソ戦)。年末には日本に追随してアメリカに宣戦布告
1943年(54歳)・スターリングラードの戦いで大敗。連合軍が北アフリカ、南欧に攻撃を開始。イタリアが降伏
1944年(55歳)・ソ連軍の一大反攻により東部戦線が崩壊。連合軍が北フランスに大規模部隊を上陸させる(ノルマンディー上陸作戦)。7月20日、自身に対する暗殺未遂事件により負傷
1945年(56歳)・長年の愛人であったエヴァ・ブラウンと結婚。ベルリン内の総統地下壕内で自殺。享年56

上記の簡略な「ヒトラー生涯年譜」を軽く眺めただけでも分かるのだが、ヒトラーの生涯にて34歳の「ムッソリーニのローマ進軍に触発されてミュンヘン一揆を起こすも失敗。警察に逮捕。禁錮5年の判決を受ける」から、50歳の「チェコスロバキア併合。同年に独ソ不可侵協定を締結。ポーランド侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発」に至る1923年から1939年までの約15年間、この時代は「ヒトラーの生涯最高の時期であり、歴史的なヒトラー奇跡の時代」と私には強く思える。とにかくこの時代のヒトラーはやることなすこと全部が上手くいき、誤った情勢判断や間違った意思決定は皆無で全くの悪手の失策がないのだ。通常、人は人生の途上にて少なからず間違いの失策をやり、しかし後に対処してリカバリー(回復)で巻き返し、以前の失策を実質無しにしたりする。そのように成功の妙手と失敗の悪手とをある程度、相互に繰り返しながら最終的に全体での「勝ち」の優勢の方を積み重ねていくものである。ところが1923年から1939年までの約15年間、ヒトラーに関しては何ら「負け」の失敗の失策らしい悪手が一つもないのだ。「勝ち」の連続の「勝ちっぱなし」である。これは「歴史的なヒトラー奇跡の時代」と言ってよい。この時代のヒトラーは自在であり完璧だ。

何よりも見るべきは、「1923年の34歳の時点で、ムッソリーニのローマ進軍に触発されてミュンヘン一揆を起こすも失敗し、警察に逮捕され禁錮5年の判決を受け投獄される」。ここでヒトラーは、「一揆」のような突発的で非合法な暴力的権力奪取の無効性を心底から身にしみて悟る。それから自身の公式プロフィールたる自伝的自己考察の書「我が闘争」を1926年の37歳の時に刊行し、1928年の39歳でナチ党を率いて国政選挙に挑むのだった。このミュンヘン一揆の失敗、自身の逮捕と投獄を受けての非合法な暴力革命路線から、後に国政選挙を介した合法的な政権獲得に転ずるヒトラーの政治活動家としての戦術的転回が実に素晴らしい。従来、ヒトラー及びナチスに批判的などのような論者であっても、このヒトラーの権力獲得に至るまでの、ある種の「合法性」は認めなければならない。ヒトラーはドイツ混乱期のドサクサにまぎれてクーデターなど暴力的行動により偶発的にヒトラー内閣を組閣して一国の首相や大統領を兼務する総統になったのではない。その都度、合法的な国政選挙にて「国家社会主義ドイツ労働者党」であるナチスの議席を着実に増やして行き、議会獲得議席最多の最大勢力の第一党になったことで、ヒトラーは首相や大統領の地位の頂上にまで遂には登り詰めたのであった。

事実、ヒトラー率いるナチスは1928年の国政選挙では全600議席の内わずか12議席しか獲得できなかった。しかし後の1930年の選挙では107議席と着実にその勢力を伸ばし、選挙を重ねるごとにナチスの党勢はとどまるところを知らず、1932年7月の国政選挙では233議席で最大議席を占め一躍最大勢力の第一党に躍(おど)り出る。この後も1932年11月の選挙では196議席、1933年には288議席の最大議席を堅持した。このため、第二党のドイツ社会民主党(SPD)とそれに続くドイツ共産党(KPD)はナチスに対抗できずナチスの独走を止められず、ドイツ大統領ヒンデンブルクも当初はナチ党のヒトラーに冷淡であったが、1932年選挙にてナチスが第一党に躍進したことから、もはやヒトラーの存在を無視できなくなっていた。かくしてヒンデンブルクがヒトラーを首相に任命して、1933年にナチス政権(ヒトラー内閣)の合法的成立に至る。そうしてヒトラーのナチス政権は、1933年に全権委任法(議会の協賛を得ずして政府に法律を制定できる権限を授権するもの。国会の立法権を無効化し、時の政府に行政と立法の権限を与えるもの。この全権委任法により第一次大戦後の民主的自由を志向したヴァイマル憲法は事実上の無効廃止に追い込まれ、ドイツの民主主義は否定されたとされる)を議会にて3分の2以上の賛成票を集め可決成立させ、一党独裁体制を極めて合法的に確立していった。その上で1934年に権力掌握したヒトラーは突撃隊(略称SA。反ナチス勢力を暴力で打倒することを主任務とした直接行動部隊)を再編成し、反ナチス勢力を排斥して独裁体制を強化。同1934年のヒンデンブルク病没によりヒトラーは大統領の職能も継承し、総統(ヒューラー・大統領と首相と党首の全権保持者)に就任して名実ともに独裁体制を完成させたのである。

先に私は、従来ヒトラー及びナチスに批判的などのような論者であっても、このヒトラーの権力獲得に至るまでの、ある種の「合法性」は認めなければならないことを述べた。ヒトラーはクーデターの暴力的行動により偶発的にヒトラー内閣を組閣して一国の首相や大統領を兼務する総統になったのではない。その都度、合法的な国政選挙にて「国家社会主義ドイツ労働者党」であるナチスの議席を着実に増やしていき、議会獲得議席最多の最大勢力の与党第一党になったことで、最後に総統の頂上にまで登り詰めたのであり、最大勢力与党のナチスを通し議会での合法的可決決定を経て全権委任法などの議会師民主主義否定の独裁体制を徐々に確立させていったのだった。ということは、ヒトラーおよびナチスが結果的に議会制民主主義否定の独裁体制を敷けたのは、ヒトラーとナチス幹部らの暗躍があっただけではなく、そうしたヒトラーとナチスに熱狂し積極的に支持して選挙の度にヒトラーのナチ党に投票した当時の大多数のドイツ国民が存在したからである。ヒトラーとナチスの独裁政治を成立させたのは、確かにヒトラーとナチス幹部らであったが、それ以外にもヒトラーのナチスに熱狂し熱烈支持の投票行動に走った当時の大多数のドイツ国民でもあったのだ。

このことに思い至れば、ヒトラーに関し、彼をして「ユダヤ人の大量虐殺(ジェノサイド)をなした悪魔的人物、民主主義の議会政治を否定し独裁体制を敷いた全体主義の独裁政治家、つまりはファシスト」などとあからさまに攻撃してヒトラー個人を痛烈に全否定したり、今日にて映画やアニメなどで定番の「悪の首領」として、「独裁者・ヒトラー=悪の典型」でパロディ化し笑いのめすヒトラーをめぐる諧謔(かいぎゃく)、あるいはそれを素材に安易に笑いをとって商売する滑稽な悪役としてのヒトラーの市場化・商品化に全く共感も感心もできないのは至極当然である。

確かにヒトラーは大衆扇動に長(た)けていた。ヒトラーは多くの人々の前での演説を好み、大衆を惹(ひ)きつけ熱狂させる自身の演説の技術(テクニック)に相当な自信を持っていた。またヒトラーとナチス幹部らは、第一次世界大戦後の世界的な大衆消費社会の到来を背景に格段の技術進歩を見せた広告技術に比定される、政治プロパガンダで大きな成功を収めた。ヒトラーたちナチスは大衆への宣伝・大衆感化の方法を熟知していたのだ。その際の民衆を熱狂させ自らへの支持を取り付けるナチスの政治的扇動の内容を教科書的に挙げれば、以下のようになろうか。

(1)第一次世界大戦の、英仏によるドイツに対する屈辱的ヴェルサイユ体制の打破(特に普仏戦争より長年に渡り因縁あるフランスに対するドイツの対仏復讐心)。(2)反共産主義(ドイツ国内の共産党と国外のソ連のスターリンへの対抗。強い反共意識)。(3)ユダヤ人の排除と迫害(ドイツ人のゲルマン民族優位性の主張と、その裏返しとしてのユダヤ人に対する強烈な嫌悪感。ドイツの国威高揚を主眼としたベルリンオリンピックの開催など)。(4)公共事業のバラマキと軍需産業との癒着(ゆちゃく)、失業者の救済(景気回復と軍事目的から国内高速道路のアウトバーン建設の推進など)

これらはいずれも、恣意的に不自然なまでに憎むべき敵を作って(第一次大戦でドイツを負かし屈辱的ヴェルサイユ体制の戦後講和をドイツに仕向けたフランスとか、ドイツ国内とソビエトの共産主義者とか、ゲルマン民族たるドイツ人と対立するユダヤ人とか)、それら人々に対する憎悪を炊(た)きつけて自分らの意のままに誘導したり、その敵対憎悪を通し逆に自分たちへの積極支持を取り付ける政治手法の典型である。ヒトラー登場時の新たな大衆社会、大衆政治の成立初期段階にて、そうした恣意的に不自然なまでに憎むべき敵を作り、それら敵対する人々への憎悪を炊きつけ自国民を誘導しようとするナチスの大衆への宣伝・大衆感化の方法に、当時のドイツ社会の人々が未経験で無知であり、だまされやすい事情があったことも確かにあるだろう。

ただ私から言わせれば、大衆を扇動してだますヒトラーとナチス幹部らも悪いが、同様にヒトラーとナチスに熱狂し熱烈支持した当時のドイツ国民にも同じくらい重い重大過失の政治的責任の一端はあるのだ。「だます方も悪いが、だまされる方も悪い。いくら悪意を持っただます人がいたとしても、それに呼応してだまされる人がいなければ、そもそものだます行為は成立しない」と最後に控えめに私は言っておこう。

岩波新書の書評(456)坂本義和「軍縮の政治学」

著作や対談など、「平和学」を志向する国際政治学者の坂本義和(1927─2014年)の文章や発言を読むたび昔から私には、「この人は反戦平和を主張する自らの政治的立場や国際政治学の言説に対し、右派保守論壇や軍備増強論の国家主義者たちから『現実離れをした空想的平和主義で何ら実効性や具体性がない』などと言われたくないがために、反戦平和を志向する自身の『平和学』にあえて現実性を持たせる構想提言を毎回、無理してやっているのでは!?」の違和感があった。

坂本義和の名を広く世に知らしめたのは、岩波書店発行の論壇誌「世界」に発表の「中立日本の防衛構想」(1959年)であった。本論文で坂本は「現実的な」反戦平和論として、日米安保体制の矛盾と問題を指摘し米軍の日本完全撤退の主張と、それに代わりうる日本の防衛構想に中立的な諸国の部隊からなる「国連警察軍」の日本駐留、それに大幅に縮小した自衛隊を補助部隊として国連指揮下におく具体的提案をしたのであった。私は坂本「中立日本の防衛構想」を初読の時から変わらず今でも、「馬鹿野郎!第二次大戦の敗戦国である日本、ゆえに戦後の国連常任理事国にもなれない日本国、東アジアの更に極東に位置する日本に国連指揮の警察軍を駐留させるなど、そんな多大なコストがかかる面倒なことを国連がわざわざ日本に対しするわけ無いだろう(怒)。冷戦下であれば、国連は米ソ対立の境界である中東や東欧地域に相当な神経を使って国連軍を駐留展開させるだろうし、冷戦後であれば、独裁政権や武装勢力が暗躍しているより不安定なアフリカや中東や南米地域に国連指揮下の多国籍軍を積極的に派遣駐留させる。いずれも極東の日本は国連から重視されず本気で相手にされない。坂本義和による日本への国連警察軍駐留論は、いかにも日本人が考えつきそうな日本びいきで日本人本位の内輪ノリな政策提言だ」と率直に思った。坂本義和の「中立日本の防衛構想」は実現無理で、どう考えても現実的な提言とはいえない。

もともと私から言わせれば、「反戦平和」とか「人権擁護」とか「人道的施策」など、現実には存在しない、いまだ達成されていない理念規範的な立場に立ったり、その主張をするだけで、たちまち「そんなものは現実離れをした空想的平和主義や人道主義で何ら実効性や具体性がない。現実世界では通用しない、キレイゴトの単なる理想論でしかない。思考停止だ。理想の高みから超越的に批判するのではなく実現可能な対案を示せ」などと批判したり嘲笑したり、さらにはそのような現実主義の実務的批判に敏感に反応して現実的提言に言い換えたりすること自体が堕落であり、そうした言説が当たり前のように流布する社会は相当に危機的な状況にある。ゆえに、現実にいまだ達成されざる理念規範的なものに対し、「キレイゴトの単なる理想論」「思考停止だ」「実現可能な対案を示せ」などと、現実主義の実務的立場から批判・嘲笑がためらいなく浴びせられる社会はかなり不健全な危ない社会といえる。

政治家(特に政権批判の野党政治家)も学者・知識人もジャーナリストも弁護士も教員も、反戦平和や女性問題や環境問題に取り組む市民運動家も労使間交渉をやる労働運動者も、皆が現実には存在しない、いまだ達成されざる「反戦平和」「人権」「人道的」の理念規範を志向し、その理念的立場から現実状況を囲い込み現実の不足の至らなさを叩いて現実状況を変えようと思考し活動する。

例えば「反戦平和運動」にて運動家は、反核非武装や軍備増強に反対の、現実には存在しない(現実世界にて未だそのような武力行使をしない非武装国家は実在しない)理念的な、ある意味、理想的な理念の高みから降りてきて、それを現実状況に対立させ理念で現実を囲い込んで、軍拡競争にのめり込む各国政府に対し批判的な働きかけをなす。「反戦平和」の主張にて、戦争を起こさないため、他国に攻撃されないよう自国の「平和」を確保するためだけに、ないしは隣国に攻撃・侵略されないよう、それ以前に敵国基地への先制攻撃をも辞さない防衛力強化の軍備増強をする必要があるとする軍拡による自国の「平和」確保たる武力抑止論の線に乗った時から、つまりは理念的な理想論を捨てて実務的な現実主義の立場に転向した瞬間から、その「反戦平和」の主張は堕落して破綻する。同様に「労働運動」においても、職場環境改善の労使間交渉にて組合側が会社に対し、労働者の人格尊重を含めた賃金待遇や職場環境や労働者の社会制度的保障に関する各種の労働疎外の問題の理念的なものを置き去りにして、目先の損得勘定に依拠したベースアップの賃上げ闘争にのみ終始する現実妥協的な協調路線に移った瞬間に、その労働運動はたちまち堕落して敗北するのである。

岩波新書の黄、坂本義和「軍縮の政治学」(1982年)は、聞き手が当時1980年代の冷戦下における国際政治問題を尋ね順次、坂本がそれに答えていくことで氏の志向する「平和学」の概要が明らかになる内容である。個別の話題やテーマにそこまで深く突っ込まず、その代わりそれぞれの各話題や問題について、国際政治学者の坂本義和が持論を「浅く広くわかりやすく」読者に語るものとなっている。そのため、岩波新書「軍縮の政治学」は坂本義和の国際政治学者としての力量をまずは知る、彼の「平和学」の概要を最初に知る初学者用の入門書のようでもあり、坂本義和の代表著作の中の一つといってよい。

本新書で主に触れられているのは、

☆米ソ冷戦下にて、なぜ両国の軍拡競争や、各地域での米ソ両大国を後ろ盾にした局地戦争・地域紛争は終息しないのかの分析(イデオロギー対立以前に、各国政府を動かず軍需産業の暗躍など)。☆軍備増強による「戦争抑止論」ないしは「核武装論」(軍備増強をなし核武装すれば、他国は戦争攻撃をしかけてこないので、それが「抑止」につながり自国の「平和」は保たれるとする考え)の矛盾と原理的破綻を指摘した上での各国の軍拡競争に対する厳しい批判。☆国連を主体とする世界の軍縮への包括的プログラムの提示。☆現今の日米間の軍事同盟の危うさ(日本の独立に際しての単独(片面)講和論批判と全面講和論の主張。日米安保体制に対する批判)。☆戦後の自民党保守政府や右派・保守論壇が待望する、戦争放棄と戦力不保持とを定めた憲法九条を標的とした改憲論や有事法制(徴兵制復活ら)に関する懸念。☆日本国の非武装中立への具体的な移行プロセスの提示

などである。

本論中にある、「『非武装中立というのは一つのキレイゴトのタテマエにすぎない。ホンネはみんな軍隊をもち、武装することを考えている』といった議論がよくなされる」という下りの坂本義和の語りが、私には昔から印象的だ。やはり、この人は反戦平和を主張する自らの政治的立場や国際政治学の言説に対し、右派保守論壇や軍備増強論の国家主義者たちから「現実離れをした空想的平和主義で何ら実効性や具体性がない」などと言われたくないのである。自身の言動が「一つのキレイゴトのタテマエにすぎない」と指摘されることを終始、相当に気にしているのである(笑)。だから、反戦平和を志向する自身の「軍縮の政治学」にあえて現実性を持たせる構想提言を、以前の「中立日本の防衛構想」にてやった日本の非武装中立(日米軍事同盟の完全破棄)、その代わりに日本への国連警察軍駐留論のような具体的提案を、1980年代になっても坂本義和は相変わらず本書で熱心に語っている。

繰り返しになるが、「反戦平和」とか「人権擁護」とか「人道的施策」など、現実には存在しない、いまだ達成されていない理念規範的な立場に立ったり、その主張をするだけで、たちまち「そんなものは現実離れをした空想的平和主義や人道主義で何ら実効性や具体性がない。現実世界では通用しない、キレイゴトの単なる理想論でしかない。思考停止だ。理想の高みから超越的に批判するのではなく実現可能な対案を示せ」などと批判したり嘲笑したり、さらにはそのような現実主義の実務的批判に敏感に反応して現実的提言に言い換えたりすること自体が堕落であり、そうした言説が当たり前のように流布する社会は、もはや相当に危機的で末期の状態なのである。

坂本義和も、右派保守論壇や軍備増強論の国家主義者たちからの「現実離れをした空想的平和主義で何ら実効性や具体性がない」云々の批判を気にしすぎて妙に弱気になって変に日和見になる必要は全くなく、実現可能性がある(と坂本が信じている)日本の完全な武装中立論の提言などでなくて、日本をめぐる現今の日米安保体制や再軍備増強(平和憲法の改憲、核武装論)への動きを「反戦平和」や「人権擁護」や「人道的施策」ら、現実には存在しない、いまだ達成されざる理念規範的な立場から超越的に批判し述べてもよいのだ。まずはそれで問題ない。「現行の平和憲法堅持で九条改憲阻止」とか「日米安保体制の漸次縮小、将来的には日米軍事同盟破棄」の理念的批判保持の姿勢から始めればよいのである。岩波新書の黄、坂本義和「軍縮の政治学」を読む度に終始、私にはそう強く思える。

「とめどない軍拡を促す政治構造は何か。軍縮はなぜ実現しなかったのか。平和のための代案は何か─核時代の軍備体系がもつ五つの政治機能を分析し、危機の世界史的構造を再検討することによって、軍事化に代わる安全保障構想を具体的に示す。国際平和研究学会を代表して第二回国連軍縮総会に提言した『いかにして軍縮を実現するか』を収録」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(455)塩沢美代子「結婚退職後の私たち」

岩波新書の青、塩沢美代子「結婚退職後の私たち・製糸労働者のその後」(1971年)の概要は以下だ。

「15、6歳で製糸工場に就職した女性たちの結婚退職後を追う。二百余名の主婦たちの生活の実態と、厳しい労働条件のもとで過した経験が、彼女たちにどのように根づいているかを明らかにした。1971年9月刊」(表紙カバー裏解説)

本書は大変に読後感が良い。本新書を手に取り実際に読み始める前から、本書を実際に読んでいる最中も、本書を読み終わった読了後に至るまで、いつの時でも本の内容が予測でき、また読んで私の予測通りの内容であり、自身の経験からも深く納得できる。この好印象は、本書が私が日常的に考えている問題意識の枠内に常にあって、自分の知識の総量や経験域を超えることがない、いわば「自身の想定範囲内にある内容書籍」に岩波新書「結婚退職後の私たち」が該当するからに他ならない。

私は、高校生の時と後に大学進学後の10代後半から20代前半にかけて修行の自己鍛錬のつもりで相当に力を入れ集中的に多くの本を読んだが、当時はそれまで大した読書習慣もなく、書籍から学んだ知識の蓄積や実生活での経験値や社会への関心の問題意識も全くなかったので、若い時分の読書は毎回たいそうキツくて辛かった。一冊の書籍を読み終わるまでに相当な時間がかかったし、全部を読み終わっても意味が分からず同じ本を何度も繰り返し読んだり、本文をノートに書き抜き要約メモを取りながら読んでみたり、全般に苦しくて辛い読書が多かった。もっとも若い頃の読書は、それまでの自分の知識や経験の明らかに外部にあり、未知の新世界へ自分を連れて行ってくれる「強度ある学びの苦しみの儀式」のようなもので、私にはかなり意義あるものだったけれど。

それが年を経るにつれ、自身の中で知識の総量や経験の蓄積や社会への問題意識の高まりが多少なりともあって、昨今では前よりかは幾分、楽に余裕を持って良読後感が得られる楽しい読書を少しだけ積み重ねられるようになってきたのだから、自分の中でちょっと報われた思いもある。

さて岩波新書「結婚退職後の私たち」は、前述通り、大変に読後感が良い。本新書を手に取り実際に読み始める前から、本書を実際に読んでいる最中も、本書を読み終わった読了後に至るまで、いつの時でも本の内容が予測でき、また読んで私の予測通りの内容であり、自身の経験からも深く納得できるのであった。この好印象の内実を本新書の内容に引き付け具体的に挙げてみると、

(1)本書は1971年出版で、当時の1970年代には多くの女性工員が現場を退き、すでに結婚退職しているなか、後日かつての敗戦後の1945年から労働運動が高まりを見せた1960年代までの製糸工業に従事の当時の若年女性工員らを追跡し、彼女らにアンケートを行うことで戦後の繊維産業の女性労働問題を振り返り、総括して記録保存する旨の書籍になっている。

(2)本書出版の1970年代時には、本書で回想されるほどの日本の製糸工業における若年女性工員の労働環境の深刻な困難は、確かに見られなくなった。しかし、かつて工員であった結婚退職後の彼女らは結婚後にも継続して、繊維産業とは別な、夫が労働従事する業界や企業組織内での労働運動を新たに家族として支えたり、現に今もパート・臨時で働いており自身が労働問題に直面していたり、また女性の社会参加や婦人の権利確立のための市民運動、消費者運動に積極参加しているケースが多く見られる。

(3)本書でのアンケートを見ると、かつて製糸工業に若年従事していた女性工員の彼女らは、相当な割合で後に結婚し、多くが既婚者で現在家庭を持っている。その際の結婚の経緯は、親・親族や知人による紹介の「見合い結婚」が半数を占め圧倒的である。そしてかなりの確率で結婚生活に破綻なく(離婚することなく)、「結婚退職後の私たち」の多くの女性がその後も配偶者や子供と円満な家庭生活を送っていることが、本書のアンケートから分かる。

(1)について、確かに岩波新書「結婚退職後の私たち」は、多くの女性工員が現場を退き、すでに結婚退職している中で、かつての敗戦後の1945年から労働運動が高まりを見せた1960年代までの製糸工業に従事の当時の若年女性工員らを追跡し、彼女らにアンケートを行うことで戦後の繊維産業での長時間労働や低賃金待遇や劣悪な職場環境の女性労働問題を振り返り、総括して記録保存する旨の書籍になっている。本書出版時の1970年代時点での現在進行形の深刻な職場環境問題を取り上げる告発ルポではなくて、以前に労働従事していた「製糸労働者のその後」を各人に対するアンケートにより追跡し集計し明らかにして、かつての女性の労働問題や現在の女性の権利、社会参加に関する問題を考えようとする本新書の視角が新しく変則的で面白いと思う。ここが岩波新書「結婚退職後の私たち」の一つの読み所であり、本書のウリとも言える。

本新書では、1945年の日本の敗戦を受けて戦争で崩壊した日本経済の立て直しから高度成長時代に至るまでの間の時代─昭和20年代から30年代にかけて、当時15、16歳で中学卒業後、早くも親元を離れ会社の寮で集団生活を送りながら製糸工場に労働従事した若年の女性工員、そして本書執筆時の1970年代には30代から40代の年齢に達している以前の女性製糸労働者を全国各地から探し出し、彼女らにアンケートを送付して集計、その上で分析。結婚して姓が変わっていたが、それでも名簿上で現住所が分かった300名の昔の製糸労働者の仲間に、その後の結婚の経緯から今の生活状況、その中での政治的社会的な動きとの自身の関わりを互いに報告しあう趣旨で詳細なアンケートを実施した結果、200名の仲間がアンケートに答えたという。このアンケート結果を元に本書は執筆されている。

ただ逆に言えば、もう本書を執筆・出版の1970年代の時点で製糸工業に従事の若年女性工員の労働問題のトピックは、大々的にクローズアップされるべき深刻問題ではなく、繊維産業従事の女性の職場環境の問題は大幅に改善され、そこまでの大した社会ルポ告発の大問題にはならなくなってしまった。もしくは、かつて製糸工場現場での若年労働者が抱えた過酷な労働問題は、1970年代以降の今日、繊維工場の日本国内からの海外移転にて、労働力を安く上げられる第三国(中国や東南アジアやインドや南米など)に中核の生産拠点が移り、製糸労働者の職場環境問題が海外の若年女性にとっての過酷問題になって、この繊維産業従事の労働者問題は日本国内の人々には巧妙に隠蔽(いんぺい)される形となった。そのため、「結婚退職後の私たち・製糸労働者のその後」というような、戦後日本の繊維産業の女性労働問題の昔を今日、あえて振り返る旨の、やや無理筋な変則形式の書籍になったとも考えられる。こういった醒(さ)めた意識の冷静な読みも岩波新書「結婚退職後の私たち」には必要であろう。

(2)に関しては、ここが何よりの読み所であり本論の核心だと思うが、「人は若い頃に実際に自身が経験した過酷な労働現場の問題に直面し、その改善を処して行動した結果、離職・転職や結婚退職後も、引き続き自分の事に引き付けて、その種の労働問題を懸命に考え、政治的社会的に積極行動する」ということだ。このことは、かつて製糸労働者であった「結婚退職後の私たち」の彼女らは結婚後にも継続して、繊維産業とは別な、夫が労働従事する業界や企業組織内での労働運動を新たに家族として支えたり、現に今もパート・臨時で働いており自身が労働問題に直面していたり、また女性の社会参加や婦人の権利確立のための市民運動、消費者運動に積極参加しているケースが多く見られることから了解できる。

事実、岩波新書「結婚退職後の私たち」の著者である塩沢美代子(1924─2018年)の経歴を参照すると以下のようにある。

「東京生まれ。1944年、日本女子大学校家政学部第3類(社会事業専攻)卒業。戦時中の勤労動員の経験から年少労働者の指導を志し、鐘淵紡績(カネボウ)に入社、東京工場の社内学校に勤務。1949年、全国蚕糸労働組合連合会(全蚕糸労連)書記に転職。この間、日本繊維産業労働組合連合会(繊維労連)への改称(1960年)、主要組合の繊維労連から全繊同盟への分裂を経験し、1966年から1970年、大洋漁業労働組合書記を経て、後に評論活動に従事。1976年頃からアジアに視点を広げ、1981年アジア女性委員会(CAW)の設立に参加。1983年、日本での活動拠点としてアジア女子労働者交流センター(AWWC)を設立し所長に就任。AWWC所長として東南アジアの女子労働者の労働条件の解明、アジアの女子労働者のネットワークづくりに取り組む」

ここで注目すべきは、「戦時中の勤労動員の経験から年少労働者の指導を志し、鐘淵紡績(カネボウ)に入社」と「1966年から1970年、大洋漁業労働組合書記を経て」と「1976年頃からアジアに視点を広げ、1983年に日本での活動拠点としてアジア女子労働者交流センター(AWWC)を設立し、AWWC所長として東南アジアの女子労働者の労働条件の解明、アジアの女子労働者のネットワークづくりに取り組む」の各点であろう。

著者の塩沢美代子その人が「鐘淵紡績(カネボウ)」という企業に在籍した経験があり、その自身の労働者の立場から企業内での労働組合の執行部書記を務め女性工員の地位待遇向上の若年女性のための運動に当時、取り組んだのだった。そして彼女もカネボウ退職の後、今度は繊維産業とは全くの異業種である「大洋漁業労働組合」の労働運動に携わっていることも、「人は若い頃に実際に自身が経験した過酷な労働現場の問題に直面し、その改善を処して行動した結果、離職・転職や結婚退職後も、引き続き自分の事に引き付けて、その種の労働問題を懸命に考え、政治的社会的に積極行動する」の典型事例として納得の思いが私はする。

加えて、本書「結婚退職後の私たち」を執筆後に今度はアジアに視点を広げ、日本国外の若年女性や未就学児童の過酷な労働問題を取り上げる書籍を塩沢が1980年代に連続して出すようになるのは、前述したように1970年以降、繊維工場の日本国内からの移転にて、労働力をより安く調達できる海外の中国や東南アジアやインドに中核の生産拠点が移り、以前の製糸労働者の職場環境問題が現在の海外の若年女性にとっての過酷問題となって、かつてあった繊維産業従事者における長時間・低賃金・劣悪環境の労働問題は日本国内の人々には巧妙に隠蔽(いんぺい)される形となったのを受けてのことであった。そのため「結婚退職後の私たち」以降、「メイドイン東南アジア・現代の『女工哀史』」 (1983年)や「アジアの民衆vs日本の企業」 (1986年) らの著作を塩沢は連続して出すのである。こうした繊維産業の生産拠点の日本国内から海外への移転、それに伴う若年女性労働者の抱える問題の国内の日本人から海外の現地の人々への移譲という問題変移の現象も、私達は本書「結婚退職後の私たち」以降の塩沢美代子の著作経歴から読み取り、そのことを繰り込んで押さておくべきである。

(3)については、本書アンケートによれば、「製糸労働者のその後」を追跡する中で、「結婚退職後の私たち」の「結婚相手とどこでめぐりあったか」は、50パーセントの半数近くが「見合い結婚」であり、30パーセント強が「組合・サークルや地域の活動を通じて知り合った」で、その他「偶然に行きずりのチャンスで知り合った」「無回答」などが残りの10パーセントほどとなっている。また「結婚に踏みきったおもな理由」については、「本人への魅力(彼とものの見方や考え方が一致。人柄や持味にひかれた。おなじ思想・信条をもっていた)」が60パーセント、次に「現実的諸条件の選択(とくに強くひかれたわけではないが、結婚相手としてふさわしい人物や条件だと思った)」が20パーセント強、「妥協的要素(ためらったり避けたい気持だったが、周囲の強いすすめや相手の熱意でふみきった。結婚に焦っていた)」が残りの10パーセントほどである。

「製糸労働者」の女性工員の場合、集団就業で女性が多い(男性が少ない)職場のため、「結婚相手とどこでめぐりあったか」は、半数近い50パーセントが「見合い結婚」であるのは自然である。だが「見合い結婚」が半数を占める中で、「結婚に踏みきったおもな理由」で「妥協的要素」の当人にとって気の進まない不本意な結婚理由がわずか10パーセント程度であり、逆に「本人への魅力」ら積極的理由が60パーセントの半数以上であるのは注目に値する。総じて確率的に「結婚退職後の私たち」は当人の希望に合った幸福な結婚に至っているといえる。

私自身の実感や周囲の人々の結婚生活を見ていて、特に相思相愛の恋愛結婚や理想の異性との運命的な出会いでなく、「見合い結婚」の最初は知らない者同士であっても相手に無理な要求や理想を過剰に求めなければ、結婚生活は破綻せず、それなりに順調な幸せな人生を互いに築いていける、の確信の思いがする。逆に「熱烈な大恋愛の末の結婚」などの方が、互いのエゴや相手に対する高すぎる理想要求、結婚生活や新たな家庭への憧れが強すぎて当然のごとく後に幻滅し、結婚生活はやがては破綻して離婚に至る場合が多いと思われる。この点で、恋愛結婚も必ずしも悪くはないが、「見合い結婚」は案外に良い機縁のシステムで相当な確率で互いに幸せになれるのでは、と本新書を読んで私は率直に思った。

最後に岩波新書の青、塩沢美代子「結婚退職後の私たち」では、戦後の製糸労働者の彼女らの境遇を「現代の女工哀史」と暗に重ねる記述が多くある。思えば、明治期以来の近代日本において、多大な資本投下や膨大な工場設備や高度な専門技術を要する鉄鋼・機械の重工業とは異なり、製糸や紡績の繊維産業は、それら資本投下や工場設備や専門技術がそこまで必要ない代わりに半熟労働者による長時間で低賃金の上、細かな手先の作業を要する人海戦術の軽工業であって、製糸や紡績の繊維産業は輸出により外貨を獲得できる近代日本の主要産業であった。そうして、その軽工業の繊維産業の労働は「女工」と呼ばれる若年女子の過酷な労働に支えられていた。すなわち「女工」とは、

「近代日本の繊維産業従事の女性労働者のこと。多くは零細農家の若い女性で、当初は工女と呼ばれた。口減らし、家計補助のため前借金で出稼ぎした。逃亡を防ぐため会社の寄宿舎に拘禁され、低賃金・長時間労働と劣悪な作業環境に苦しんだ」

と一般にされる。近代日本の繊維産業に従事した女性労働者(「女工」!)の過酷な労働状況を記したものに、細井和喜蔵「女工哀史」(1925年)や山本茂実「ああ野麦峠・ある製糸工女哀史」(1968年)などがあった。本書「結婚退職後の私たち」でのかつて製糸労働者であった彼女らも、戦後日本にて、北は北海道から南は九州・沖縄まで全国各地の主に農村の子女であり、中学卒業後の15、16歳で親元を離れ会社の寮で集団生活を送りながら労働する比較的長時間で低賃金、その上で精密作業を連続して要求される過酷な労働環境下にある現代版「女工」であったのだ。