アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(45)斎藤美奈子「文庫解説ワンダーランド」

岩波新書の赤、斎藤美奈子「文庫解説ワンダーランド」(2017年)は、作品そのものではなく文庫本の巻末に付されている「文庫解説」を俎上(そじょう)に載せる文芸批評である。いわば「文庫解説の解説批評」というわけだ。

本新書を手にして一読する人は即座に分かるが、文庫解説批評にて全力で読み手を笑わせにかかる斎藤の相変わらずの「斎藤美奈子節」の炸裂で、しかし文芸批評である限り、斎藤美奈子なりの文庫本巻末「解説」に対する批評眼の判断基準は必ずやあるはずだ。本書での笑いの喧騒に紛(まぎ)れてしまう前に、その辺りの「著者の斎藤美奈子にとって望ましい文庫解説とは一体どういうものであるか」、彼女の文庫解説批評における評価基軸をまずは確認しておこう。

「文庫解説は何のためにある?」という問いに対する答えとして、殊に「古典的書物の解説」への分析を通し、斎藤によれば「古典的書物の解説に求められる要素は大きく三つほど考えられる」という。すなわち、(1)テキストの書誌、著者の経歴、本が書かれた時代背景などの基礎情報。(2)本の特徴、要点、魅力などを述べた読書の指針になるアシスト情報。(3)以上を踏まえたうえで、その本のいま読む意義を述べた効能情報。しかし、それだけでは不十分だといい、(4)その本の新たな読み方を提案するリサイクル情報がさらにあって、これこそが文庫解説にての望ましい「攻めの解説」であるとする。

そして「攻めの解説」の事例として、カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリューメル十八日」(1852年)に付された、いわゆる「歴史の反復」を押さえてフランス革命当時の政治状況を現代日本の政治状況に重ね合わせて新たに読み込む柄谷行人の巻末解説を斎藤は好意的に紹介する(2─10ページ)。その他、川端康成「伊豆の踊子」(1926年)に関しては、階級や差別にまで踏み込んで説いた奥野健男や橋本治の巻末解説が「読者に普遍的な『読み方のヒント』を与える」優れた「攻めの解説」として本書にて称賛され、かたや斎藤が言うところの「よくわからないけど、スゴいらしい」とするような、古色蒼然たる文学的権威に依拠した従来型の巻末解説は「三島由紀夫や伊藤整のようなタルい評論」として一刀両断に否定される(25─29ページ)。また、そうした新たな読みの可能性提示たる「攻めの解説」の対極にある、解説の相手が人気作家だったり敬愛する作家だったりすると、それだけで高揚して筆が甘くなって評価が誇大になり無駄に誉(ほ)めちぎる結果になる文庫解説は、読者に向けての解説ではなく、解説者自身の満足を満たすだけの「自分のための解説」とされ、著者の斎藤の評価は誠に厳しい(239・240ページ)。

「文庫解説ワンダーランド」として、作品そのものではなく文庫本巻末に付された文庫解説についての批評であるとは言いながら、巻末解説を批評することを通して作品の新たな読みの可能性を推奨する「攻めの解説」観点からの「文庫解説」批評になっているため、「作品本体がどう読まれるべきか」斎藤自身の読み方批評も要素として必ず入り、最終的には「文庫解説」という迂路を経ての作品それ自体の批評になっている。本書を読んで、よくよく蓋を開けてみれば、確かに「文庫解説」批評ではあるけれども、本書にて展開されているのは実は作品そのものに対する正統な文芸批評なのであった。

本新書を読んで何よりも気が引かれるのは、批評の内容はともかく、表層の各章タイトルや文章記述にて著者の斎藤美奈子が全力で読み手を笑わせにかかっている所だ。無防備に読んでいると思わず吹き出して笑ってしまう。内容はともかく、単に言葉の響きや字並びの組合せだけで面白く、プロのコピーライターが考えつくような、よく出来た各章面白タイトルが並んでいる。それらの中で特に面白いと思えるものを幾つか拾ってみると、

「伊豆で迷って雪国で遭難しそう」(川端康成「伊豆の踊子」「雪国」)、「試験に出るアンタッチャブルな評論家」(小林秀雄「モオツァルト・無常という事」)、「限りなくファウルに近いレビュー」(村上龍「限りなく透明に近いブルー」「半島を出よ」)

最初の川端康成「伊豆で迷って雪国で遭難しそう」は傑作コピーらしく確実に読者の笑いを誘う。村上龍「限りなく透明に近いブルー」を「限りなくファウルに近いレビュー」とする言い換えパロディもそれなりに面白い。少なくとも私は笑った。また本論記述も、なるほど面白い。本来は真剣で真面目たるべき文芸批評にて、時に不真面目で不遜(ふそん)、非常に砕(くだ)けた斎藤美奈子の面白さが特に引き立つのは、彼女とは正反対の真面目で堅い文学者や評論家を相手にするときだ。吉野源三郎「君たちはどう生きるか」(1937年)巻末に付された丸山眞男、カール・マルクス「資本論」(1867年)巻末に付された向坂逸郎、それぞれ各氏の文庫解説に対する本書にての斎藤の批評文で面白いと思われる箇所を以下に引用してみる。

「高橋源一郎や丸山眞男の解説が読む人を興奮させる理由は単純といえば単純だ。批評であれ文庫解説であれ、まるで関係なく思えるAとBが『同じだ』と指摘されたとき、人はだいたい驚き、感動するのである。批評の要諦とはひっきょう『これってあれじゃん』だと私は思っているが、二人の解説はまさに『これってあれじゃん』だ」(131・132ページ)

「すげえ。まるで『共産党宣言』!革命的主体としての労働者階級を、一九七0年の向坂はまだ信じていた。だからこそ『解題』も、日本の労働者たちを意識して書かれた。本と読者と解説の関係は、そう単純ではないのよ」(136ページ)

一読、口語文体で軽く一気に話され書かれたようにも見えるが、実は事前に十分に練(ね)って周到に考えられた文章に思える。丸山眞男に対しては「これってあれじゃん」の砕けた話し言葉での二度の繰り返し指摘、向坂逸郎には「すげえ」の口語の感嘆と「そう単純ではないのよ」の妙に馴れ馴れしい話し口調の語尾など、読者から笑いを引き出すために計算づくでよくよく考えて書かれているフシがある。また、それらは戦後民主主義を志向した丸山眞男、マルクス主義を主張した向坂逸郎といった一般に堅いイメージをもつ戦後の代表的「知識人」を評するものであり、それだけに斎藤美奈子の砕けた軽い文章は余計に面白味を増す。

ただ他方で私が率直に思うのは、本書「文庫解説ワンダーランド」も含め斎藤美奈子の文芸批評は表面の言葉遣いや文体記述は大変に面白く読み手の笑いを大いに誘うが、実のところ彼女の文芸批評の中身の内容そのものは、よくよく落ち着いて読んでみると割合にオーソドックスな手法で、いつも大して面白くはないということだ。本新書でいえば、文学作品の時代的読まれ方の変遷や文庫解説と文学作品の特徴や構造のパターン列挙、作者や解説者が読者を持っていきたい方向誘導の指摘、記述にて隠蔽されたもののイデオロギー暴露など、いずれも文芸批評にて昔から日常的によくやられている常套(じょうとう)のものである。

言葉遣いや文体記述で爆笑は出来なくとも、堅実で真面目な表記にて内容を詰めて、それなりに笑えるより質の高い笑いの文芸批評の可能性も、おそらくはあるに相違ない。だが斎藤は、その資の高い笑いを文芸批評にて狙わない。むしろ、なぜ斎藤美奈子は、ああいった表層的な言葉遣いや文体記述だけで即席に手っ取り早く読者を笑わせにかかるのか。読み手からの笑いの手柄を、なぜ安易な方法で取りにいきたがるのか。それが「どんなことでも面白おかしく語らなければ気がすまない」といった斎藤美奈子の資質や嗜好から来るものならば仕方がない。世の中には誠に不思議なもので、落語家や漫才師やお笑いタレントでもないのに、なぜか日常会話で変に大袈裟に抑揚を付けたり、妙に新奇な言葉を使ったり、話の最後に必ずオチを付けてみせたりで面白おかしく、あたかもお笑い芸人やテレビタレントのような話し方をする一般人が親戚や友人や職場の同僚の中に、だいたい一人か二人はいるものだ。

ただし、面白おかしい話し言葉や文体記述で文芸批評をやった方が他の書き手から差別化でき自身のウリになり、結果この先も文壇批評仕事にて業界内で安泰を確保できるとか、何よりも読者が面白おかしくて笑えるカジュアルな文芸批評を読みたいと願い求めているとか、編集者もそうした面白おかしい批評の方が書籍ヒットで売れるから斎藤美奈子にその方向で書くよう暗に要求しているとか、文芸批評にて全力で読み手を笑わせにかかる斎藤の相変わらずの「斎藤美奈子節」の炸裂の背景由来に、もしそういったものがあるとすれば問題の傷口は広がる。斎藤自身の資質や嗜好の問題だけではなくて、文壇業界のあり方や現代社会にての文学作品と文芸批評そのものの読まれ方の大きな問題にまでなってくるからだ。

岩波新書「文庫解説ワンダーランド」は一読、確かに面白くて瞬間的に刹那的に時に笑ってしまうが、実のところ表面の言葉遣いや文体記述が面白いだけであって、例えば小林秀雄に関し、小林本人と小林の専属解説者たる江藤淳を扱った本書での二つの節は、他作家の節と比べて圧倒的に文庫解説批評の内容が良くない。にもかかわらず「コバヒデ」と連呼して斎藤は読者から果敢に笑いを取りにいこうとしているけれど(150・156ページ)、それが大して面白くもなく「小林秀雄に関する記述では斎藤美奈子はつまらない」というのが偽らざる読後の感想だ。斎藤美奈子の文芸批評にて、なぜ小林秀雄が「コバヒデ」になるのか。前述引用の丸山眞男や向坂逸郎への処し方は(「これってあれじゃん」とか「すげえ」とか)、確かに一瞬の最大瞬間風速で笑いの風が吹いて一時的に面白いけれども、他方で文芸批評が果たしてそんな刹那的でよいのかという思いもある。だいいち、この人は1956年生まれのかなりのいい年をした大人である。それなのに「コバヒデ」連呼とか、「斎藤美奈子、コイツは相当にイタい。こんな大人はイヤだ」といった思いも正直、私はする。

本書「文庫解説ワンダーランド」も含めて、「なぜ斎藤美奈子は、ああいった表層的な言葉遣いや文体記述だけで即席に手っ取り早く読者を笑わせにかかるのか。読み手からの笑いの手柄を、なぜ安易な方法で取りにいきたがるのか」。この人の文芸批評の読後には、いつもそうした徒労の思いが残る。