(今回から祥伝社新書、豊田有恒「日本の原発技術が世界を変える」(2010年)についての書評を「岩波新書の書評」ブログではあるが、例外的に2回連続で載せます。念のため、豊田有恒「日本の原発技術が世界を変える」は岩波新書ではありません。)
SF作家の豊田有恒は、2010年12月に原発肯定で推進な祥伝社新書「日本の原発技術が世界を変える」を上梓する。しかし、年が明けての2011年3月、東日本大震災で福島第一原発が放射能漏(も)れ事故を起こす。豊田「日本の原発技術が世界を変える」は原発讚美の書籍であり、本書の出版直後に福島原発の過酷事故が発生したため、著者の豊田有恒ともども窮地に追い込まれたタイミング的に誠に不運な新書といえる。福島の原発事故後に今さらながら本書を読んでみると、この本には照(て)らいなく極めて無邪気に無防備に原発推進派の精神的病理が現れ、見事に凝縮されていることが分かる。
この書籍の肝(きも)はタイトルにある。本書の中で豊田が「私は原発推進派ではなく慎重な懐疑派、むしろ批判派」とする趣旨の断りをいくら入れても実質、彼は原発賛同の強力推進派である。それは彼のなかで「日本の原発技術」を「世界」に輸出し日本経済活性化の切り札にしたい、原発商戦で日本が勝ち抜いて海外で契約を結んで儲けを取りたい、ゆくゆくは国際的な原発利権の既存の構図を日本主導に塗り「変える」官民挙げての日本の原発技術の強力な海外売り込みの念願が一貫して強烈にあるからに他ならない。だから、この本のタイトルは「日本の原発技術が世界を変える」なのである。
「日本の原発技術は、かなり高度である」とか「原発技術を通して日本は世界に貢献できる」とか「原子力ルネッサンスの世界的なトレンドに日本が乗り遅れてはならない」など、いくらソフトな語り口で豊田有恒が述べても、結局は「原発商戦で金儲け」の論理なのである。そうした「何はともあれ日本の原発を海外に売り込みたい」強い意図があるため、例えば原発そのものの安全性に関する豊田の議論も非常に恣意的な、いびつなものになる。
本書にて「世界一安全な日本の原発」の証左として、「日本の原発の非常停止は、運転7000時間あたり、0.07回という驚異的少なさだ。この数値は世界一低いのだ」と豊田は書いているが、これは「故障の非常停止が少なく、持続して発電できるので日本の原発は他国のものと比べて優秀である」という日本製原発の発電効率のセールスポイントをただ単に言っているだけだ。「世界一安全な日本の原発」とは到底、いえるものではない。そもそも日本製に限らず、放射能を閉じ込める原発施設そのものの設計構造が地震や津波、その他の非常時の電源喪失(ブラックアウト)といった、まさかの「想定外」のカタストロフな危機に際し本当に原子炉を制御して安全に停止できるのか、果てしなく怪しい。その代わりに「日本の原発技術が世界を変える」では、官民一体で日本の原発技術の海外への輸出・売り込みのセールス戦略が主眼になるから、「原子力発電は二酸化炭素排出が少なく環境に優しい」とか「核兵器ではない、原子力の安全利用を」とか「日本は、いまや世界最高水準の原発技術を持つ存在…日本は原発を通して世界に貢献できる」「原子力ルネッサンスの世界的なトレンドに日本が乗り遅れてはならない」の非常に耳障(みみざわ)りのよいソフトな言葉だけが紙面に残る。
ここにあるのは原発を振興推進して日本製の原発を海外に新規建設して日本貿易の稼ぎ頭の目玉にする「原発商戦で金儲けの論理」が主で、これまでの危うい原発現場での事故の歴史や、電力会社に都合の悪いデータの改竄(かいざん)や隠蔽の事例など、それこそ近年の茨城東海村での臨界被曝事故のことは(新潮文庫「朽ちていった命」2006年は必読である)、本書ではことごとく後景にかすんでしまう。日本の原発ビジネスを阻害するような、従来の日本の原発の問題と原子力発電そのものの構造的マイナス要因な話は意図的に矮小化されて本書には、ほとんど出てこない。
ここに至って原発推進派の精神的病理の一つは、「技術の確実性や安全性への熟慮を抜きにして、目先の利益や金儲けなど手っ取り早く自分たちの損得勘定に突っ走る軽薄さ」だといえる。原子力発電そのものの問題である万一の放射能漏れ重大事故や原発労働従事者の健康問題、使用済み核燃料の最終処分の行方をあえて無視して、手っ取り早く自分たちの目先の利益や金儲けで強引に原発振興をやる。
原発推進派の精神的病理たる「技術の確実性や安全性への熟慮を抜きにして、目先の利益や金儲けなど手っ取り早く自分たちの損得勘定に突っ走る軽薄さ」というのは、(豊田有恒のような)官民一体プロジェクトによる海外への原発のセールス売り込みで儲けの論理のみならず、日本国内での原発新規建設の地元説得の際にも一貫して推進派の病理として拡大感染する。地方での原発建設と引き換えの見返りに、国が交付金をバラまいたり電力会社が地元に豪華施設を作って贈呈したりで、住民らにも「手っ取り早い自分たちの損得勘定」が働き懐柔させられて、人口密集の都市部ではまさかの事故の危険性から絶対に建設ができない原発関連施設を何なく受け入れてしまう地元住民の悲劇は、それこそよく聞く話だ。
本書に関しては、SF作家なのになぜか「嫌韓まがい」のヘイト本も執筆し執念深く出している(豊田「いい加減にしろ中国」2000年、「北朝鮮とのケンカの仕方」2003年など)、感情的で排他的ナショナリストたる豊田有恒のもう一つの側面も見るべきだろう。
豊田有恒は本書にて述べている。「日本のような技術力もあり、経済力もある国が、核武装をまったく検討すらしないということは、国際常識からしても、ありえない」。こうした「今後は日本も核武装を検討するべき」旨の発言は、戦後に自民党政権下にて原発建設を始めて国のエネルギー政策として原子力の活用に乗り出す当初の考え、「発電」の平和利用だけでなく、たとえ今すぐにではなくても将来的には日本も核兵器を持って核武装したい、かつての自民党保守政府の考えと見事に重なる。そういった戦略核転用のための布石として、とりあえずは原子力に直結しておきたい自民党政権の政治的な動機から、もともと国の原子力事業は始まっているわけである。「原子力エネルギー政策」など表向きソフトな言い方になってはいるけれど。だから本書での豊田有恒の、原発を通して「抑止力として核武装するという選択肢をちらつかせながら」「日本は、その気になれば、いつでも原潜を配備したり、核武装したりできるという点を、大いにアピールする必要も生じる」とする近隣諸国への異常な対抗心、彼の好戦的ナショナリストな見識も私達は知っておくべきだ。
以上のように、原発推進派の精神的病理というのは「原発で金儲けの目先の利益に突っ走る損得勘定の軽薄さ」と「やがては日本も核武装を。それへの転用を想定した上での原子力事業の推進」なのであった。ゆえに万一の放射能漏れの過酷事故のリスクがあって、いくら人体被曝や環境汚染の危険性を言われても、実は日常発電時のみならず、事故発生時の補償や廃炉によって他の発電方法よりも原子力の方が明らかにコスト高であると指摘されても、さらには使用済み核燃料の最終処理方法が確定しておらず、「原発はトイレのないマンションだ」と揶揄(やゆ)されようとも、政治家や官僚や企業や地元による前者の「損得勘定ズブズブの金儲けで利権群がり」があるから原発は止められないし、後者の「戦略核武装の国家的念願」もあるから国のエネルギー政策としても原子力をそう簡単には放棄できない。
そして、ある程度、賢くてわきまえある(?)、歴代政府自民党筋や原発製造売り出しメーカーや原発受け入れ賛成派の地域住民の方々は、これら「日本の核武装」の念願と「金儲け」の本意は慎重に隠してこれまで公(おおやけ)にしなかったし、今後もおおっぴらにしないだろう。たとえ福島以降、さらに国内原発にて過酷事故が起こったとしても、それでもなお原発を推進し続けたい理由動機は明確に公表しないはずだ。どこまでも「原子力は国のエネルギー政策の一環だから簡単には放棄できない」など、あいまいな言い方で逃げて現在の国内原発の維持と新規原発の建設と海外への原発売り込みを今後も懲(こ)りずに続けるだろう。
しかしながら豊田有恒は、本新書にて原発推進派の何が何でも原発推進の理由動機たる「金儲け」と「核武装」の二つを、あまりに無邪気に無防備に何ら隠すことなく天真爛漫(てんしんらんまん)に本音で語って明かしてしまう。この辺りが豊田有恒の駄目な所、原発推進派の識者として相当に脇が甘い「愛すべき」お人好しな所だ。おそらく「金儲け」と「核武装」の原発振興の本意を未だ隠し続けておきたい政府筋や原発メーカーの原発推進論者らは、本書での豊田の本音暴露に怒り心頭に違いない。
豊田有恒「日本の原発技術が世界を変える」には、照らいなく極めて無邪気に無防備に原発推進派の精神的病理が現れ見事に凝縮され、世間一般に公表されてしまっている。その意味で本書は、近年の原発関連書籍の中では希(まれ)に見る笑ってしまうくらいの「名著」だといえる。