アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(145)稲垣真美「仏陀を背負いて街頭へ」

岩波新書の青、稲垣真美「仏陀を背負いて街頭へ」(1974年)は、まず題名がよいと思う。よくよく味わって読んで「仏陀を背負いて街頭へ」の名タイトルである。本書の副題は「妹尾義郎と新興仏教青年同盟」である。

著者の稲垣真美は、同じく岩波新書にて「兵役を拒否した日本人」(1972年)という明石順三を主宰者とするキリスト者集団、灯台社の兵役拒否を含む戦時下の反戦抵抗の著作をまとめた人でもあった。本新書「仏陀を背負いて街頭へ」は、キリスト者ではなくて仏教者である妹尾義郎その人の評伝であり、主に新興仏教青年同盟の活動を通して戦時の反戦平和の国家への抵抗運動に身を捧げた彼の生涯の記録である。

正直、私は戦時中に国家の戦争遂行の国策に抵抗して弾圧された人々の話に、そこまで安易に感激したり共感したりしない。戦争が終わって「時局に迎合せず、勇気を持って反戦平和の姿勢を貫いたため非合理にも過酷な弾圧にさらされた人々が、実は戦時中にいた」云々を戦後に大層な手柄話のように打ち明け話の秘話として著述公開することに、あまり感心できない。そういった戦中の政治的弾圧の苦労を戦後に持ち出して精神的に優越するのは「終戦後の思想成金」のようで、むしろ不信感を抱く。事実、戦時に過酷に弾圧された当人は、そこまで気安く自身の経験を後に人前で軽々と語ったりはしない。そういう人は沈黙を守って実はなかなか自伝など執筆したりしないものだ。仏教者、キリスト者、自由主義者、マルクス主義者らの戦時下抵抗の話をいつも書いて広めるのは関係のない第三者の場合が往々にしてある。

しかし、岩波新書「仏陀を背負いて街頭へ」は読んだ感触が重い。無心に読んで、読後も妹尾義郎の評伝に心奪われるものがある。ここでまず妹尾義郎の生涯を概観しておこう。

「妹尾義郎(せのお・ぎろう、1889─1961年)は、仏教運動家である。広島県比婆郡東城町生まれ。『私有なき共同社会』を提唱、仏教者の立場から資本主義を批判した。妹尾の生家は造り酒屋で法華信者ではなかったが、肺病等で旧制一高休学中に縁のできた豆腐商が熱心な法華信者で、そのすすめで義郎も法華経に親しむようになる。1918年、本多日生が主宰する法華団体統一団に参加する。翌1919年には統一団の青年信者を中心に大日本日蓮主義青年団を組織し、機関誌の発行や各地への講演などを精力的に行っている。青年団活動の中で、やがて小作争議や労働争議などにかかわるようになり、社会変革の必要性を説くようになった。1931年、日蓮主義青年団は妹尾の主導の元、超宗派の新興仏教青年同盟に発展解消。4月5日に開かれた結成大会で妹尾は初代委員長に選出される。新興仏青はその綱領に『釈迦の鑚仰(さんこう)と仏国土建設』『既成宗団の排撃』『資本主義経済組織の革正と当来社会の実現』をかかげ、労働運動、消費組合運動、反戦反ファッショなどの活動にかかわっていった。しかし戦時色の強まった1936年2月に特高警察に妹尾は検挙される。1か月後に釈放されるも同年12月には再度検挙され、治安維持法違反で実刑判決を受け1940年12月に入獄した。戦後は、仏教社会同盟委員長、平和推進国民会議議長、日中友好協会東京都連会長を務めた。1959年には日本共産党に入党したが1961年に71歳で没した」

妹尾義郎らの新興仏教青年同盟は、日蓮主義青年団を前身とする超宗派の仏教運動の組織である。1931年に立ち上げ出席者は三十人あまりの仏教者であり、妹尾いわく「数よりも質」の少数精鋭組織として出発した(「Ⅰ・新興仏教青年同盟の発足」)。満州事変勃発前後の緊迫した時局から、警官が臨官席にて監視の目を光らせる中での結党大会であったという。そこで「宣言」と「綱領」とが読み上げられた。特に後者の「綱領」は三綱目からなり、

「一、我らは人類の有する最高人格、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を鑚仰(さんこう)し、同胞信愛の教綱に則(のっと)って仏国土建設の実現を期す。ニ、我らは、全既成集団は仏教精神を冒涜(ぼうとく)したる残骸的存在なりと認め、これを排撃して仏教の新時代的闡揚(せんよう)を期す。三、我らは、現資本主義経済組織は仏教精神に背反して大衆生活の福利を阻害するものと認め、これを革正して当来社会の実現を期す」

まず「一」について。妹尾義郎が非常に優れていて当時より見識高く、私が痛く感心するのは、この人はそもそも日蓮宗派に属する人であり、法華経ならびに日蓮の教えを信仰していて、また周知のように日蓮宗は伝統的に強硬な国家主義の政治主義的側面を持ち、仏教内での他宗派攻撃も激烈である日蓮宗なのに新興仏教青年同盟という日蓮宗派にのみこだわらない超宗派の仏教団体を組織できた妹尾の普遍的志向である。ある種の普遍主義者にとって自身が属する宗派セクトの体面や他宗派との、つばぜり合いの勢力争いは無意味である。妹尾義郎は、そうした仏教宗派間のセクト主義に拘泥(こうでい)することなく、当時の近代日本の仏教宗派を垣根なく束ねて、また後に地方の農村運動や都市の労働運動、その他マルクス主義者らとも共闘し、人民の力を集約して天皇制国家にぶつける形での国家に対する信仰の自由の確保や反戦平和の抵抗運動を貫くことが出来た(「Ⅶ・労働者・人民戦線との連帯」)。

次に「二」について。これも妹尾義郎は非常に優れている。資本主義のもと営利に踊り世俗の繁栄を極める体制化した各宗派の既成教団に対し、彼は「全既成集団は仏教精神を冒涜したる残骸的存在」と極めて痛烈に、宗派の如何を問わず全面的に既存の仏教を批判し得た。それは、いわゆる「葬式仏教」として祭礼儀式の慣行のみに身を落とした「信仰なき」、また時に教団による檀家の掌握を介し体制イデオロギーとして政治権力に奉仕した江戸近世以降の伝統的な日本仏教へ向けての容赦ない批判に他ならなかった。

本書を読むと、妹尾は多忙を極める街頭伝道の他方で「本来の仏教のあり方」についての思想的追究を深め、日頃より原始仏教経典や仏教史研究の研鑽(けんさん)を重ねていたという(「Ⅵ・新興仏青の思想的展開」)。そのため、そうした仏教の本来性を志向する立場から、「冠婚葬祭の虚礼」を日々の生業とし、戦時下の国家の戦争協力にも邁進する既成教団に対して(本書以外で例えば近代真宗史などを読むと分かるが、戦時下の真宗僧侶は門徒の若者の戦時動員の説得・激励に当たったり戦地慰問をやったりで、信徒を多く持った真宗を筆頭に仏教教団の大勢は当時、国への戦争協力に傾いていた)、妹尾ら新興仏教青年同盟は明確な原理的批判を展開できた。

「三」についても、妹尾義郎は卓越している。仏教思想にありがちな出世間主義や精神主義の観念論的教説に陥らず、自分達の仏教思想を現実的に有効な社会変革の理論として主張し実践できた。妹尾が被差別部落民や小作争議や労働問題を通して社会的弱者に向き合い救済に取り組むのは、「同胞信愛の教綱に則(のっと)って仏国土建設の実現」という、ある種のユートピア的志向が彼の思想の中にあったからであるし、そのためには「現資本主義経済組織は仏教精神に背反して大衆生活の福利を阻害するもの」という認識から資本主義体制を批判して「私有なき共同社会」の共産主義的提唱に至るのは自然であった。

妹尾義郎は関東大震災(1923年)に際し、日蓮主義青年団を介して人命救護や物資救援の人道的活動を積極的に行っている。当時、避難所にて朝鮮人四人が日本人に取り囲まれ迫害されておどおどしていた。妹尾は思わず、そこへ止めに入る。そして、朝鮮人らを慰めて懐中の財布から十円を分かつと、彼らは声の限りに泣き出した。その日の日記に妹尾は、「自分も彼らの悲境に同情されて涙した。人情に国境も民族もない。仏様は一切法空と仰有(おっしゃ)った」と記している。また小作争議にて地主と小作との調停のために地方の農村に頻繁に出向き、日常的な街頭での伝道講演活動も妹尾は欠かさなかったという(「Ⅴ・民衆のための日常のたたかい」)。まさに「仏陀を背負いて街頭へ」である。この言葉は誠に印象深く、本書のタイトルにもなっているけれど、出典からより正確には「仏陀を背負いて街頭へ、農漁村へ」である。それは妹尾義郎にとって宗教活動上での強い信念であった。

岩波新書の青、稲垣真美「仏陀を背負いて街頭へ」は現在、絶版・品切で古書価格が高騰しているようである。本新書の復刊を私は強く望む。