アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(353)姜尚中「姜尚中と読む夏目漱石」(その3)(夏目漱石「こころ」を読み解く2)

(前回からの続き。以下、「夏目漱石『こころ』パーフェクトガイド」ブログでのブログ主様の読み方解釈を明かした「ネタばれ」を含みます。かのブログを未読の方は、これから新たに読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

さて、以下では「夏目漱石『こころ』パーフェクトガイド」ブログにて主に触れられている夏目漱石「こころ」(1914年)に関する疑問を同様に挙げて、しかしかのブログ主とは全く異なる、より妥当な読み解き解釈を提示するることで、「夏目漱石『こころ』パーフェクトガイド」ブログ記事にての読解の読み込みは荒唐無稽で到底あり得ない「トンデモ解釈」であることの証左としたい。その際の漱石「こころ」に関する主要な疑問は次の4つである。

(1)なぜ先生は下宿先の未亡人の奥さんの反対とKの抵抗を押し切って、無理にKを自分の下宿に連れて来て住まわせたのか。(2)なぜ先生はKと同様、最後に自殺してしまうのか。(3)なぜ私は死期が迫った父を置いて、先生からの手紙の遺書を受け取った際に汽車に飛び乗り先生がいる東京へ向かったのか。(4)なぜ鎌倉の海岸で先生に出会って以降、私は先生に付きまとい交流を深めて先生と懇意になったのか。

(1)の「先生が下宿先の未亡人の奥さん反対とKの抵抗を押し切って、無理にKを下宿に連れて来た理由」は、他のものがあることも私は否定しないが(例えば「郷里での以前の叔父の裏切りの両親の財産横領による人間不信から先生は下宿先の奥さんがお嬢さんと一緒になることを自分に暗に勧めているのではないかと勘繰り恐怖するほどであったため、渋る奥さんを説得して友人Kをわざわざ下宿の隣室に先生は招き入れた」など)、見逃せない最大の理由は小説「こころ」の作者たる漱石に創作の都合上、そのように状況設定する差し迫られた必要があったからである。

ところで、日本近代文学史における「近代」ということの意味を突き詰めて考えた場合、「近代」は人間中心主義の時代であり、前近代の呪術性・魔術的なものから人間が解放され、遺憾なく主体性を発揮できる一方で、人間の欲望、エゴイズムの負の問題も絶えずついてまわる。もちろん、前近代の人間にも欲望エゴイズムの問題はあるが、自分自身のエゴを見つめ意識化して修正できるのは「近代」の人間のみである。それゆえ「近代」文学は、この人間悪のエゴイズムの問題に深く切り込まなければならない。そこで漱石が発見したのが男女の恋愛における三角関係であった。漱石は自らの作品にて、男女の恋愛の三角関係を何度も執拗に多用し書き重ねていく。なぜなら恋愛にての三角関係は男女二人が恋愛成就して幸福になると必ず一人の不幸な失恋者を出す、「他者の不幸の上に自分たちの幸福を築く」究極のエゴイズムの発露に他ならないからだ。後に「則天去私」の哲学を自己のうちに見出し、男女の恋愛の三角関係モチーフを通して一貫して人間悪の問題と格闘した夏目漱石は、人間エゴの「近代」の課題に「文学」を通して正面から誤魔化しなく取り組んだ。その点で彼は超一流の破格な日本の「近代文学」者であったのだ。

「こころ」以前の「それから」(1909年)にて、かつて代助は友人・菅沼の妹の三千代を友人の平岡に「周旋」して夫婦にさせたのに、後に三千代への自分の思いに気づいて平岡から三千代を奪い、その不義のために経済的援助を受けていた父や兄から勘当され、また三千代の病のために代助と三千代は結ばれない。高等遊民である代助は、男女の三角関係にて自らの恋を成就しようと相手を求めた結果、自身が社会から抹殺されてしまう。

続く「門」(1910年)は、「それから」の実質的続編である。仮に「それから」の代助と三千代にて、代助が高等遊民ではなく官吏として自活しており、また三千代も病に倒れずに二人が夫婦になっていたとしたらの話である。友人の安井から内縁の妻のお米を奪って夫婦となった宗助は、お米と今では静かに暮らしていたが、お米の以前の亭主の安井が隣家の主人と知り合いで近々近所に訪ねて来ることを知る。宗助は鎌倉に参禅して一時的に逃避する。幸い宗助は安井と出会わずにすんだが、宗助とお米は、いつまた安井に会うか気が気でない。恋愛における三角関係から自分たちの思いを貫いて男女二人が一緒になると、その不義の罰として一生死ぬまで気苦労と憂鬱(ゆううつ)の生活を強いられる。

「こころ」(1914年)は上中下の三つの部からなる。最後の「下・先生と遺書」にて、私が慕(した)う先生が友人Kを同じ下宿の隣室に自ら招いて住まわせ、下宿先のお嬢さんに対するKの思いを知っていたにもかかわらず、Kを出し抜いて結婚の申し込みをして、お嬢さんと一緒になってしまう。それを知ったKは自殺し、後にお嬢さんと夫婦になった先生は罪の意識に苛(さいな)まれ「明治の精神」に殉死する決心をする。男女の恋愛の三角関係にて自らの思いを遂げると、ついには恋敵の相手を死に至らしめ、そして自身も最後に死を決意する。

恋愛における三角関係は男女二人が恋愛成就して幸福になると必ず一人の不幸な失恋者を出す、「他者の不幸の上に自分たちの幸福を築く」究極のエゴイズムの発露である。これを書きたいがために漱石作品では男女の入り組んで複雑な男女の恋愛三角関係の状況設定をして毎回、書き込まなければならない。だから「こころ」でも、「なぜ先生は下宿先の未亡人の奥さんの反対とKの抵抗を押し切って、無理にKを自分の下宿に連れて来て住まわせたのか」といえば、それは作者の漱石からして、若い頃の先生と親友のKと下宿先のお嬢さんをひとつ屋根の下に同居させて近代文学の本領たる人間悪のエゴイズムが象徴的かつ悲劇的に現れる、男女の三角関係の小説舞台の装置を作り込みたい強い執筆意図があったからに他ならない。

「なぜ先生は下宿先の未亡人の奥さんの反対とKの抵抗を押し切って、無理にKを自分の下宿に連れて来て住まわせたのか」の理由と同様に、「こころ」以前の「それから」においても、「代助は友人・菅沼の妹の三千代を本当は昔から愛していて相手の三千代も、また三千代の兄で代助の友人である菅沼も代助と三千代が夫婦になることを暗に望んでいたようなのに、なぜか友人の平岡の恋を代助は応援し三千代を友人の平岡に『周旋』して夫婦にさせた後、今般に上京した平岡夫婦の仲が上手くいっていない時に、わざわざ代助は平岡から妻の三千代をあえて略奪するような、そんな複雑な男女の三角関係になってしまうのか」。そうした代助の急な心変わりの理由も、それは作者の漱石からして、実際にはほとんどあり得ないことなのだが、今さら主人公の代助に三千代への恋心をわざわざ復活させ三千代を平岡から略奪させて、近代文学の本領たる人間悪のエゴイズムが象徴的かつ悲劇的に現れる男女の三角関係の小説舞台の装置を作り込みたい強力な創作意図があったからに他ならない。常識的に考えて人は「それから」の主人公の代助のように、一度は諦めて友人の妻になった自分が思いを寄せる女性を自身の社会的身の破滅と引き換えに今更わざわざ取り戻すことなど滅多にやらない。

漱石の「こころ」に関し、ここで「先生が下宿先の未亡人の奥さん反対とKの抵抗を押し切って、無理にKを下宿に連れて来た理由」について、作中の先生の感情・気持ちや意図を推測しての解釈説明(例えば「先生は同性愛者でKに恋しており、Kと同棲したかったから」など)は、文学の読み方として幼稚すぎる。そこには小説「こころ」に対して、書き手たる夏目漱石により設定された主題ら、外部の作者・漱石から小説本体に及ぼされる作為を勘案しておらず、「こころ」という小説世界そのものを作者の漱石の創作作為から分離して一つの独立した、話の破綻や矛盾が全くない現実世界と同様な完全独立の世界と見なしているからだ。そのため「こころ」作中の登場人物の各所での言動・心理の記述を論理的に精密に読み込んでさえいけば、全ての事柄を矛盾なく説明し尽くせるような正当な「真相」解釈にたどり着けると素朴に信じてしまっている。結果、作中の先生ら登場人物の無意識下の感情や主観的意図を勝手に推測して、そのことだけで「真相」の「正しい」読みの解釈を作り上げてしまい、迷走し深読みし過ぎて的(まと)外れな「トンデモ解釈」になってしまう。

(2)の「なぜ先生はKと同様、最後に自殺してしまうのか」。この点について、前述のように、漱石は恋愛にての三角関係は男女二人が恋愛成就が必ず一人の不幸な失恋者を出す究極のエゴイズムの発露に他ならないことにある時から気づき以後、自らの作品にて男女の恋愛の三角関係を何度も執拗に多用し書き重ねていく。その際に漱石は三角関係の恋愛成就で相手を押しのけ、他者を不幸に陥れ代わりに自身が「幸福」になったがゆえに、最後に主人公にもたらされる悲劇の結末を作品ごとに前もって決めて書いている。作品ごとの主人公の結末は「社会的に抹殺される」(「それから」)か、「一生涯、憂鬱(ゆううつ)の生活を強いられる」(「門」)か、「自から死を選ぶ」(「こころ」)かだ。しかも漱石は作品を書き継ぐにつれ「社会的抹殺」から「一生涯の憂鬱」、そして「人間の死」へと徐々に結末悲劇の傾斜を強める書き方をしている。

夏目漱石「こころ」において友人Kと先生は作中で二人ともに、なぜ自殺してしまうのか。従来の漱石論にて様々に議論され推測されてきた。先生に裏切られた友人Kの絶望、友人Kを裏切った先生の良心の呵責(かしゃく)の罪の意識、乃木大将の殉死の報に接し先生も「明治の精神」に殉ずる覚悟の腹を決めた、高等遊民たる先生の近代知識人としての孤独など。しかし、なぜ「こころ」にて友人Kと先生が二人ともに自死を遂げるのか、一番の差し迫った核心の理由といえば、漱石が、三角関係の恋愛成就で相手を押しのけ、他者を不幸に陥れ代わりに自身が「幸福」になったがゆえに最後に主人公にもたらされる悲劇の結末を作品ごとに連続して書くに当たり、最後の結末を最初から決めて、連作として一貫して結末相違の傾斜をつけて計画的に書き抜こうとしているからである。漱石は作品を書き継ぐにつれ「社会的抹殺」から「一生涯の憂鬱」、そして「人間の死」へと徐々に結末悲劇の傾斜を強めるようにわざと周到に書いている。前作「門」にて夫婦が「一生涯、憂鬱の生活を強いられる」の結末悲劇を書いた時点で、次の「こころ」では「自から死を選ぶ」の結末悲劇にする他なく、作者の漱石は作中の友人Kと先生を死に至らしめ殺すしかないのである。仮に「こころ」にて、友人Kと先生が自死を決意せず死ななければ、漱石の「こころ」は「門」の続編としての文学作品の存在価値がなくなってしまう。漱石が「門」を書き終えた時、それへの実質的続編となる次回長編「こころ」の結末は、恋敵の相手を死に至らしめ、罪の意識に苦悩して自身も最後に死を決意するラストを最初から決めて、その結末から逆算して「こころ」は書き出している。

以上のことは視野狭窄(しやきょうさく)に夏目漱石「こころ」だけを読んでいる読者には見落とされがちである。「こころ」以外の、特に「こころ」に至るまでの以前の、同じ男女の恋愛三角関係設定の長編「それから」や「門」を連続して読み、ある程度、夏目漱石の文学世界を見知っている者には、漱石は前作で書けなかったことや前作を書いたことで新たに出てきた問題主題を次作に繰り込んで創作するような書き方を意識的に毎回していることに気付く。ゆえに夏目漱石に関しては前作と次作との関係性を見極めながら各小説を読む手続きは定石(じょうせき)であり、必須である。

ところで、これは従来の夏目漱石の文芸批評では、ほとんど指摘されないので以下に私は述べるのだが、「こころ」にて、先生が友人Kを同じ下宿の隣室に自ら招いて住まわせ、下宿先のお嬢さんに対するKの思いを知っていたにもかかわらず、Kを出し抜いて結婚の申し込みをしてお嬢さんと一緒になってしまい、それを知ったKは自殺し、後にお嬢さんと夫婦になった先生は罪の意識に苛(さいな)まれ、「明治の精神」に殉死する決心をする。恋愛における三角関係は男女二人が恋愛成就して幸福になると、必ず一人の不幸な失恋者を出す。しかし、そういった「他者の不幸の上に自分たちの幸福を築いた」自身のエゴイズムに未だ苦悩し続ける先生とは対照的に、かつてのお嬢さんで今では先生の妻である静が、自分が先生と一緒になったことでKを自殺の死に誘引したことに少しも引っかからないし全然思い当たらないし、自分たち夫婦の「幸福」が「他者の不幸の上に自分たちの幸福を築いた」エゴイズムの発露たること、そして先生がそのことに罪の意識を抱いてに未だ苦悩し続けていることに全くもって気づかないのは、漱石の「こころ」を読んでいて相当に不思議だ。

なるほど、昔の男女は恋愛に奥手(おくて)で、男女間の感情の機微(きび)や駆け引きの恋愛技術(テクニック)には疎(うと)いかもしれないが、いくらお嬢さんが下宿先の箱入り娘で純情であったとしても、異性の相手からの思いに感応して察し気づくことは恋愛以前の問題であり、「こころ」を持った人間なら普通に出来る。漱石の「こころ」を読む者は一読して、先生の妻である静の人間描写の不自然さに気づくはずだ。

先に述べたように、漱石が「門」を書き終えた時、それへの実質的続編となる次回長編「こころ」の結末は、恋敵の相手を死に至らしめ、罪の意識に苦悩して自身も最後に死を決意するラストを最初から決めて、その結末から逆算して「こころ」は書き出している。人間の死とは個人的なものだ。当人一人だけの孤独な決断である。そのため「こころ」において、ラストに自死を決意する先生は、常に一人孤独の中で友人Kを葬り去った自身の罪悪を感じながら生きて、最後に一人で死を決断し死ななければならない。三角関係の実は複雑な人間関係を経て先生と一緒になった、本当はKの死に対して半ば責任があるはずの潜在的加害者であり共犯者たる先生の妻・静が、友人Kを死に至らしめた自分たちの罪悪に気づいて先生と同様に罪の意識に苛まれ苦しんでいたら作者の漱石が困る。そのように先生夫婦が二人で友人Kの死への責任罪悪を共有していれば、互いに思いを遂げて恋愛成就で夫婦になって本当は「幸福」だったはずなのに「罰として一生死ぬまで憂鬱(ゆううつ)の生活を強いられる」、以前の「門」のモチーフと重複してしまうからだ。「こころ」にて、先生が「一人で死を選ぶ」新しい結末悲劇につながらない。

「こころ」において、自己の人間エゴの罪の意識に苦悩して最後に孤独のうちに自死に至る先生は一貫して常に孤独でなければ最後に自ら死を選択して死ねない。だから、話の構造上どんなに人間描写が不自然になっても、現実にはほとんどあり得ないことなのだが、先生の妻・静は小説の中では自分が先生と一緒になったことでKを自殺の死に誘引したことに少しも引っかからないし、全然思い当たらない。自分たち夫婦の「幸福」が「他者の不幸の上に自分たちの幸福を築いた」エゴイズムの発露たること、そして先生がそのことに罪の意識を抱いて未だ苦悩し続けていることに不自然なまでに全くもって気づかないのだ。

「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好(よ)いお友達が一人あったのよ。その方がちょうど卒業する少し前に死んだのです。急に死んだんです。…実は変死したんです。…けれどもその事があってから後(のち)なんです。先生の性質がだんだん変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。…しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか」(「上・先生と私・十九」)

彼女は恐ろしく鈍感な女である。むしろ、逆に彼女が全くもって気づかないからこそ、先生の本来の苦悩に思い至らず、「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」とか「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」と静は自分自身を見当違いに責めて彼女が勝手に悲しむので先生は余計に苦しめられ、先生の孤独は余計に増しに増して、だからこそ今まで背負い蓄積してきた自身の孤独な苦しい思いを「先生と遺書」にて、最期に「遺書」という形で私に対してだけ(すなわち読者に対してのみ)、淀(よど)みなく一気呵成(いっきかせい)に告白できるのである。夏目漱石「こころ」は、そういった語りの構造になっている。

かつてのお嬢さんで今では先生の妻である静の、こうした人間描写の不自然さ以外にも、「こころ」には普通に読んで気づく、おかしな人間描写や無理な人物設定がいくつかある。否(いな)、漱石の他作品でも、特に「虞美人草」から「こころ」までの長編漱石には、そうした不自然な人間描写の事例はいくつも指摘できる。それは作品ごとに決まった主題テーマと結末悲劇を前もって決めて、それに沿って辻褄(つじつま)が合うように漱石が書き出しているからである。だから、作中の彼ら彼女らは、最初に漱石が構想した小説構想の主題結末に沿うような都合のよい、一面的な人間でしかない。登場人物の皆が自動で動く平板な役割人形のようなものになってしまう。

思えば夏目漱石という文学者は、現在でこそ「近代日本を代表する国民的作家」といった称号にて漱石を絶賛する「漱石神話」の中にあるが、漱石の存命中には発表した諸作に対し、「漱石作品は作家本意で作者にとって話が都合良すぎる。話が類型的であり、作り物の講談調で嘘っぽい」、つまりは「漱石は小説を書くのが下手」という旨の散々な酷評もあった。夏目漱石が執筆創作していた20世紀初頭の日本は、自然の事実を観察し「真実」を描くために大袈裟(おおげさ)な創作美化を否定する自然主義文学が隆盛の時代であり、また民衆(特に労働者)が直面する厳しい生活現実を描き出そうとするリアリズム志向のプロレタリア文学がやがては台頭してくる時代であったのだ。

(この記事は次回へ続く)