アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(354)姜尚中「姜尚中と読む夏目漱石」(その4)(夏目漱石「こころ」を読み解く3)

(前回からの続き。以下、「夏目漱石『こころ』パーフェクトガイド」ブログでのブログ主様の読み方解釈を明かした「ネタばれ」を含みます。かのブログを未読の方は、これから新たに読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

(3)の「なぜ私は死期が迫った父を置いて、先生からの手紙の遺書を受け取った際に汽車に飛び乗り先生がいる東京へ向かったのか」について。夏目漱石「こころ」(1914年)は上中下の三部構成よりなるが、この疑問は「中・両親と私」での最後の記述、以下のような下りでの私の行動を指す。

「鎌倉の海岸で出会って以降、私は先生と交流を始め、東京に帰ったあとも先生の家に出入りするようになる。大学の卒業を控えた私は、郷里の父の病気の経過がよくないことから帰省する。腎臓病が重かった父親はますます健康を損ない、私は東京へ帰る日を延ばした。実家に親族が集まり、父の容態がいよいよ危なくなってきたところへ、私の元に東京の先生から分厚い手紙が届く。手紙が先生の遺書だと気づいた私は東京行きの汽車に飛び乗った」

「中・両親と私」のラストで、郷里の父親が臨終間近なのに実の親の死に目に会うことを放棄して、「遺書」での告白とともに今では生死がはっきりしない赤の他人の先生の「遺書」を持って先生がいる東京行きの汽車に飛び乗る。「実父と先生の間で最後は先生の方を選ぶ」という究極の選択を作者の漱石は、わざわざ私にさせている。同じ人生の最期を看取るに当たり、酷薄にも私は生みの実の父親よりも赤の他人の先生の方を選んでしまうのであった。ここでこの「究極の選択」にて私が父親ではなく先生の方を選んだ理由を、例えば「実は私も同性愛(ホモセクシャル)の性癖の持ち主で、私は先生に初対面の時からずっと先生の中に自分と『同類』の同性愛者を直感して一目惚れしており、私の無意識では先生が『一番大切な人』だったから」などというような、感情肉体的な具体的かつ即物的なものに安直に求めてはいけない。

「こころ」にて「上・先生と私」と「中・両親と私」のタイトルが対照的なことからも明白なように、私にとって「先生と両親」はきれいに対照(コントラスト)をつけられ、あらかじめ漱石によって周到に書かれている。すなわち、その学問観に表わされる物の考え方に関し、郷里の両親は私を大学に行かせて一応の学問も修めたのだから「卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくちゃこっちも困る。人からあなたの所のご二男は、大学を卒業なすって何をしてお出でですかと聞かれた時に返事ができないようじゃ、おれも肩身が狭いから」の世間に顔が立たない云々の世俗的で、ある意味、善良な田舎の人達である。かたや東京の先生は学問も修めて学識教養もあるが、しかし職に就かず高等遊民的に暮らす、「私は淋(さび)しい人間です」とまで言い切る人である。血縁の血のつながりがある俗っぽい父親よりも、いつも憂鬱(ゆううつ)でどこか寂しげで達観した感のある赤の他人の先生の方に私は心惹(こころひ)かれている。

「こころ」以外の長編漱石を連続して読んでいて気付くのは、漱石その人の学問観の思想として、以下のような目先の損得勘定に基づく世俗的な立身出世主義的学問に対し、書き手の漱石がいつの時代でも一貫して反発し非常に厳しく否定的に処していたことである。「学問をやって大学を出て時に海外留学までして人が学ぶのは、後に修得した学問を携(たずさ)えて世に出て人の上に立ったり、他人よりも余計に多く金銭を稼いだりするためにある。若い時分に人が学費と時間と労力とを費やして学問に打ち込むのは、後に回収すべき先行投資に他ならない」とするような世俗的な打算に満ちた立身出世主義の学問である。この立身出世主義的学問に対する漱石の激しい憎悪は、東京帝国大学に進学して主に英文学を学び、後にイギリス留学も果たした夏目漱石自身が周囲の人達からの圧力(プレッシャー)として現実に日々感じ追い詰められ、若い頃よりの漱石の極度の神経衰弱、強迫症の主因になったものと考えられる。ゆえに、こうした旨の学問観を持った人物を夏目漱石は自身の小説によく登場させ、その際には相当に俗っぽく醜悪に、明らかに書き手の漱石からして異常な嫌悪を持って作中の主人公や作品の読み手に伝わるようわざと書いている。漱石作品にてこれに該当の人物といえば、例えば「虞美人草」(1907年)での小野との結婚を望む藤尾、「それから」(1909年)での代助の父と友人の平岡、「道草」(1915年)での健三の妻と義父など。彼ら・彼女らは極めて俗っぽい自分達にとっての目先の損得勘定の打算で物事を判断する人間である。立身出世主義な学問観を有し、「人が学問を修めるのは、世に出て人の上に立ったり、他人よりも余計に多く金銭を稼いだりするためにあるのだから最低限、若い時分に学問に打ち込んで費やした物の分(学費と時間と労力)を、さらにはそれ以上のものを回収しなくては意味がないし、正直困る」の人々であった。

そして「こころ」において、漱石が常日頃から嫌悪している、そうした世俗的で打算回収的な立身出世主義学問の持ち主である典型人物は、他ならぬ私の郷里の両親なのであった。だから「中・両親と私」では、大学卒業を控えて病気の経過がよくない父親の様子を見るために帰省した私に対し、郷里の父も母も大学卒業後の私の就職の口について、「こんな時こそ、お前のよくいう東京の先生にお願いしたら好(よ)いじゃないか。お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を紹介してくれるよ。手紙を出して頼んでごらん」などと無神経に事あるごとに言う。そうして私は「ええ」の生返事で毎度やり過ごす。東京の先生は、学問を修めて元からある教養資質に加え、Kの死から自身のことに引き付け人間存在のエゴイズムの「人間悪」の自覚にまで到達し苦悩する本物の「近代」の教養人の知識人である(まだ先生の「遺書」を読んでいないので「中・両親と私」の時点で私は先生が、いつも憂鬱でどこか寂しげで達観した感のあることの本当の理由、つまりは親友Kの死をめぐる先生の過去を知らないのだが)。

立身出世主義の世俗的で、ある意味、善良な郷里の田舎の両親と、本物の教養人で知識人である東京の先生とは明らかに人間が違うのだ。郷里の両親が言うように「せっかく大学まで行って卒業したのに大した職にも就(つ)けないようでは肩身が狭いし、世間にも顔が立たないから」云々の立身出世主義的考えから先生に大学卒業後の就職の口を世話してもらうようなことを本当は私は自分から進んで出来ないし、また私は先生に対してそうした俗っぽいことは(なぜか)したくないのである。しかしながら、郷里の両親はそういった私の先生に対する気持ちを分かってくれない。

こうした「両親と私」との間での微妙な気持ちの行き違いの描写が「中・両親と私」では最初からかなり長く繰り返し執拗に書き込まれている。このことからして「中・両親と私」のラストで郷里の父親が臨終間近なのに実の親の死に目に会うことを放棄し、赤の他人の先生の「遺書」を持って先生がいる東京行きの汽車に飛び乗る「実父と先生の間で最後は先生の方を選ぶ」という私の究極の選択は、単に「私が先生に好感情を抱いていて東京の先生の元に一刻も早く駆け付けたかったから。先生に会いたかったため」というような感情肉体的な具体的かつ即物的なものではない。ここでは、人生の最期を看取るに当たって「生みの実の父親か赤の他人の先生か」の究極の選択の背後にある意味、つまりは「自分にとっての目先の損得勘定に基づく打算的な立身出世主義の学問(父親!)ではなくて、人間存在のエゴイズムの人間悪の深い洞察と自覚に裏打ちされた本物の教養主義の学問(先生!)の方を選び取る」の、「こころ」以外の作品でも実は毎回連続して書かれている漱石文学にて定番な、例の立身出世主義的な学問に対する夏目漱石の強い嫌悪の反発という学問観の抽象的かつ観念的なものを読み取らなければいけない。

(4)の「なぜ鎌倉の海岸で先生に出会って以降、私は先生に付きまとい交流を深めて先生と懇意になったのか」は、以下に引用するような「こころ」の本文記述から明白なように、私が先生と出会ったかなり早い段階ですでに、後の先生の「遺書」の告白により明(あ)かされる、いつも憂鬱でどこか寂しげで達観した感がある先生の内的苦悩の影を(おそらく)私だけが、先生の容易に人を寄せ付けない「近づきがたい不思議」として感得していたからである。だから鎌倉の海岸で出会って以来、私は先生のことが心配で気になって先生に付きまとい、東京に帰ってからも先生との交流を深めて懇意になるのである。

「先生はいつも静かであった。ある時は静か過ぎて淋(さび)しいくらいであった。私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後(のち)になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいと云われても、馬鹿げていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉(うれ)しく思っている。人間を愛し得(う)る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐(ふところ)に入(い)ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、─これが先生であった」(「上・先生と私・六」)

そうして私が最初から感じていた先生の「近づきがたい不思議」とは、「この直感は後になって事実の上に証拠だてられたのだから、…それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉しく思っている」という記述からして、後に先生からの手紙の「遺書」の証拠を通じて私に明らかにされる「下宿先のお嬢さんに対するKの思いを私は知っていたにもかかわらず、Kを出し抜いて結婚の申し込みをしてお嬢さんと一緒になってしまい、それを知ったKは自殺し、後にお嬢さんと夫婦になった先生は罪の意識に苛(さいな)まれる」という一連の事実に関係することはもはや明白だ。後の「下・先生と遺書」の中で先生の「遺書」を介して初めて明かされる友人kの死の経験を通して形成された「人間悪」の自覚の意識があるために、「人間を愛し得るし人を愛せずにはいられないのに、それでいて自分の懐に入ろうとする人を手を広げて抱き締める事ができず結果、拒絶せざるを得ない」という先生の内にある葛藤(かっとう)の末の寂しさの影を、その具体的な事柄の理由はともかく、先生にある「近づきがたい不思議」として直感的に私は「上・先生と私」の時点で早くも感じ、先生のことが気になっていたのである。だから「鎌倉の海岸で先生に出会って以降、私は先生に付きまとい交流を深めて先生と懇意になった」のであった。

ここでも「鎌倉の海岸で先生に出会って以降、私が先生に付きまとい交流を深めて先生と懇意になった」理由を、「実は私も同性愛者であり、先生に初対面の時からずっと先生の中に自分と『同類』の同性愛者を直感し、一目惚れしていたから」などというような男性同士の同性愛の感情肉体的なものに安直に求めてはいけない。

また「私が先生に付きまとった理由」として、作中の私の先生への感情からだけではなく、見逃せない最大の理由は小説「こころ」の作者たる漱石に創作の都合上、そのように人物関係設定する差し迫られた必要があったからに他ならない。小説「こころ」において、この小説が小説として成立するためには、どうしても「先生という人に興味を持ち好意を持って、時にしつこく付きまとい、先生との交流を深める私」という登場人物設定が必要なのである。というのも、小説「こころ」において私が存在しなければ、最後に私に託して残した先生の「遺書」を通して語られる、昔の先生と親友のkと下宿先のお嬢さんで後の先生の妻との男女の恋愛三角関係についての、先生の「告白」が原理的に成立しないからだ。すなわち「告白」とは当人が心の中で単に思っていたり、人知れず日記や手紙に書き記しただけでは「告白」にはならない。「告白」とは、他者の誰かに語られ、その「告白」された他者を通じてさらに複数の人々に語り伝わった時に初めて「告白」として成立する。

夏目漱石「こころ」では、友人kはすでに自殺しており、これから先生も自死するのであるから、先生に付きまとう私が存在しなければ、「遺書」を通じての先生の「告白」は成立せず、先生の語りはそのまま人々の耳目に触れず、誰からも知られることがないまま闇に葬(ほうむ)り去られてしまう。だから、一般に小説における「告白」の語りの構造としては、語られる「告白」内容には全く登場しない、その「告白」話の外部にある次元が一つ異なる、後日に「告白」話を相手から打ち明けられたり、時に自分から発掘したりで彼を通じてさらに複数の人々に語り伝わって結果、その「告白」を原理的に「告白」たらしめる、いわば「告白の装置」としての外部の他者が函数(かんすう)的に絶対に必要なのである。夏目漱石「こころ」にて私が登場する人物設定は、そうした「遺書」での先生の「告白」を「告白」たらしめる「告白の装置」として小説「こころ」の作者たる漱石に創作の都合上、そのように人物関係設定する差し迫られた「告白」成立の原理的な必要性から切実に求められていた。そのため、最後の「遺書」での先生の「告白」を成立させるために夏目漱石「こころ」では、最初に「鎌倉の海岸で先生に出会って以降、私は先生に付きまとい交流を深めて先生と懇意になる」のであった。